第七咲 試練花
今回はバトル無しで、少々哲学的な話題を取り上げていく予定です。
いつも以上に重い話になりそうですが、どうかお付き合い下さい。
[Klara]
突然だが、ここで1つ例え話をしよう。
初っ端からあまり縁起がよろしくないと抗議されそうだが、仮にあなたの身内が亡くなったとする。さてそこで悲しみに暮れていると、その死人があなたの目の前に現れた。それも、明らかに生きてはいないだろう姿で。この時、あなたはどう思うだろう。
多少は喜ぶだろう。しかし多くの人は、例え大切な人であっても、死者が蘇った事に恐怖を抱くようだ。私は良く言えば合理的、悪く言えばドライで無関心なせいか、死んだ妹が復活しても、本当には生きていないと落ち込む事はあったとしても、恐怖は覚えなかった。だが中には嫌がる人間もいるという。
思うに、生者はよっぽどの未練がない限り、家族・友人・知人・赤の他人関係なく、自分達と死者を此岸と彼岸に、無意識的に分けてしまうのではないだろうか。
『鋼鉄花』も事情は一緒だ。生前の身内が私みたくドライとは限らないし、ベルンハルトさんやネヴィルさん、飛鳥ちゃん(自分のアンドロイドが既に作られていたという事情もあるだろうが)のように、機械である事も含めて丸ごと受け入れられる人はさらに少ないだろう。現に石原さん情報では、アンドロイドとなった身内を見ると、多くの人は恐怖を覚え、中には機械相手に十字架を突き付ける変人もいるらしい。
彼らが法の対象外だったのも、警察でさえ敬遠しているのも、彼らを死者と見ているからとも考えられる。
『鋼鉄花』は多くの人間から死者と考えられており、口に出して「ゾンビ」と称する者もいる――今回はこの事実も踏まえて話を進めていく。
それより先に、槍男騒動の結末について話さなくてはならない。かなり長くなるが、先々の事にも影響してくるので、どうかお付き合い願いたい。
あの後、私+飛鳥ちゃん+平八郎さん(呼び捨てはやめようと思う)は警察署でみっちり事情聴取を受け、帰ってきたのは結局午前3時であった。この頃にはさすがの平八郎さんも苦しそうだったので、至急手当をするよう言い付け、自分は妹のいる整備室へと向かう。
彼女はガウェインさんの横で、ロビンさんの助手達から最終チェックを受けていた。
「大丈夫か?リーネ」
「うんうん」
なぜか、私をチラチラ見てクスクス笑っている。
「なんだ?頭に鳥でも乗っているのか?」
「うん。デービスがね」
「いつの間に!?」
道理で、さっきからポッポポッポ鳩の鳴き声がするわけだ。室内なのに。というかアッシュさん、病院内で放し飼いするなよ。
「アハハ!でもお姉様、本当に感情豊かになってきたね!再会した時には昔とは全然違ってブスーってしていたけど」
「ふむ。確かに、出会った当初と比べると、感情の波が激しいですね。人並みになったと言いましょうか」
言われてみれば、妹と再会してから、乾いた心情が薄くなってきたような気がする。
本当の事を言えば、リーネの言葉通り、東西戦争以前(つまり15歳の時)まではそれほどドライでもない、至極一般的な年頃の少女だった。しかし戦争で父が死に兄妹が離散し、さらに18の頃からライターとして裏社会に足を踏み入れ、色々と危険に遭遇した(未だに貞操を保っているのはある意味奇跡)。そのためか、次第に地下のルールに則った合理的な生き方を信条とするようになっていった。
しかし、今ではじわじわだが人間的な自分に戻りつつあるのだという。合理性を追求するのは、上を目指しのし上がっていかんとする者達にとっては一種の処世術だが、私は権力などどうだっていい。衣食住揃っていれば貧乏であろうが構わない。とすると、もしかしたら元来地下の生き方には合っていないのかもしれない。だが、裏社会から離れてしまえばただのしがないフリーライターになってしまう。
「何ブツブツ言ってるの?」
「いや、今の仕事やめるか否か迷っていてな」
「いきなりね。……とりあえず、今の時代職は手放さない方が良いと思うけど、地下に足を突っ込むのはやめた方が良いかも。そろそろ結婚も視野に入れていかないと。……私が戦いを追い求めて自滅した分、お姉様には人として幸せになってもらいたいの……」
彼女の目は伏せられ、表情も沈む。
「生前は鉛の棒で剣術を特訓したり、強くなるために努力を重ねたつもりだけど、何も私を救ってくれなかった。力に固執すれば身を滅ぼすのよ……」
「リーネ……」
「お姉様はそのままでいい。裏で生き残ろうとしてボロボロになった姿は見たくない。引ける間に引いた方が絶対いいよ」
私は少々渋ったが、しばし考えた末、決意した。
「――分かった、ありがとう。ぺルッツィ編集長に相談してみる。裏社会の取材からは手を引くよ」
「本当に!?良かった!!」
口元がほころばせるリーネに、私も笑みがこぼれる。しかし同時に緊張もほぐれ、今まで無視していた疲れがどっと押し寄せ、足がおぼつかないまま妹が乗っている手術台のような台にもたれかかってしまった。
「大丈夫?今日はここに泊まりなよ。ほら、私の部屋貸してあげるから」
「すまない……」
フラフラした足取りで、整備室、さらに病院を抜け住居棟に赴く。渡された鍵には「302」とある。その302号室の表札には、「Caroline von Mendelberg」と書いてあった。
中はちょっとしたホテルのようで、洗面台・シャワールーム・トイレ(おそらく人間用。1階の風呂も人間用かもしれない)、大きな物置もある。リビングにはテレビと木のテーブル、落ち着いた緑色のソファーが置いてあり、壁には東西戦争の時使っていた大剣を始め、昔の特訓用だった鉛の棒、現在訓練に使っている鉄の棒、対信乃ちゃん戦の前にシミュレートに使っていた槍などの武器が掛けてあった。
シャワーを浴び、リビング横の個室にあるベッドに寝転がる。掃除もそうだが家事全般が壊滅的な部屋の主に代わって少し部屋の整理をしたせいか、余計に瞼が重い。
眠りが私を暗闇の世界へ誘うのに、さほど時間はかからなかった。
そして朝、部屋の鍵を開ける音で目を覚ました。
「……あれ、保安官コンビだ」
「…………お前、俺達の事、そう認識していたのか……」
そこには、なぜか掃除道具を引っ提げたネヴィルさんとジェヒョンさんがいた。
「何してんですか」
「この部屋の主があまりに部屋を片付けないから掃除してやってくれと、イレーネさんから直々に依頼を受けてな」
「一応お掃除ロボットはあるようですが、整理は出来ませんからね」
大変だな、この人も。
「すみません、すぐ出ます」
「あぁちょっと待て。9時から緊急会議があるようだから、取材するなら遅れんようにな」
「ちなみに、あと10分です」
「あ、え、そうですか、ありがとうございます!」
私は、身支度の時間も惜しいと髪に櫛を入れる事すらせずに大広間へ向かった。
大広間には、対帝国戦での緊急会議のように、『Psyche』と『Olive Branch』3人組が大集合していた。
5分も経たぬ内に、何やら数枚の紙を持ったイレーネさんと、気まずそうな平八郎さんが入ってきた。
「では、今より緊急会議を始めます。今回も突然の招集にもかかわらずお集まりいただき、ありがとうございます。……早速本題に入りますが、彼、鎧ヶ原平八郎さんが仕えているサザーランド家から、我々の中より1人助っ人を貸してほしいという依頼が参りました。まずはその事について、彼の奥様、飛鳥さんより届いた手紙を読みます。ただし、前置きなどは割愛させていただきますね。
『皆様初めまして。この手紙が届く頃には戦いは終わっているでしょう。うちの夫がご迷惑をおかけし、申し訳ございません。何せ、[Ultrasonic Co.]の代表取締役、ヴィーラント・フォン・メンデルベルグ氏、[Psyche]を倒せばお前の御主人への攻撃を見送ると言われたものですから、矢も楯もたまらず飛び出してしまったのです。罠に違いないと引き止めはしましたが、聞いてもらえませんでした。正直な所は好きですが、もう少し人を疑う事を覚えて欲しいです』
ちなみに、奇襲は無かったようです。彼が無意識的に釘をさしていたようで」
「え、俺、釘なんてさしていたのか?」
「みたいですよ。
『さて、今回は依頼をさせていただきたいので手紙を書いております。依頼というのは、皆様の中のどなたかお1人に、我々サザーランド家と共に[ultrasonic]と戦っていただきたいのです。私達は使用人合わせて4人しかおりませんので、彼らの100を超える軍を相手にするには不利なのです。
ただし、現在は交渉中ですので、いきなり戦闘というわけではありませんが、穏便に済ませるのはいずれにしても不可能でしょう』」
「相手が『Ultrasonic』なら、お嬢の介入は避けた方が良いでしょうね。もし本気で戦いたくないのなら」
ガウェインさんの言葉はもっともだ。ここで兄様との中が最悪なリーネを送れば、その時点で交渉は驚きの速さで決裂するだろう。
「そうね。カロリーネには、あっちと本格的に争っている私達の元にいてほしいわ。……では、次読みますね。事件の背景を説明して下さっております。
『まず、メンデルベルグ氏の周りに2人の女性がいる事を記さなくてはなりません。
1人は、皆様もご存知のペトリャーコーヴァさんのオリジナルであり社長の奥様の、エカテリーナ・フォン・メンデルベルグ様。そしてもう1人は、社長の愛人であるヘンリエッタ・スタッフォードです。この内奥様(エカテリーナ様の事です)とは、ご子息であるヨハン様の乳母をやっておりました縁で、大変親しくさせていただいております。
この2人は社長をめぐって対立しているのですが、奥様は社長自身を、ヘンリエッタは財産を手に入れんとしておりますので、少しいびつな敵対関係ではあります。社長自身はといえば、愛人を寵愛し、正妻は冷遇されております。物静かで、少し素直になるのが苦手ですが心優しく、その上育ちも良く美しい女性を放り出すとは、もったいない話でございます。一時は、若い日の妻を半永久的に残したいと、あえて[種]をつけない[鋼鉄花]を作りましたのに』」
「へー。お前、[種]無いのわざとか」
「……いい迷惑だ」
セルジオさんが合点がいったと微笑んでいる横で、当の本人は苦い表情だ。
「『社長の妹様であるカロリーネさんが兄に殺されてしまったのも、この対立が元の原因でした。奥様は早い段階から、ヘンリエッタが金と欲望の亡者であり夫の財産を食い潰そうとしていると見抜き、夫に忠告しておりましたが、聞き入れてもらえておりませんでした。そこで彼女は、メンデルベルグ家の内情について何も知らされておらず、知る事も出来なかったゆえ、兄妹仲が良いものと思い込んで、よりによってカロリーネさんに協力を要請したのです。妻の言う事は聞かなくても妹の忠告は聞いてくれるだろうと考えたのです。
当然ながら、驚いたのは社長でした。彼は妹に、会社を含めた財産を奪われるのではと恐れました。そして恐れのあまり、半分とはいえ血を分けた妹を暗殺するという暴挙に打って出たのです。
この事件のせいで、社長の心はますます奥様から離れ、ヘンリエッタが愛と金を独占するようになりました。しかし彼女は、それでも満たされませんでした。彼女が次に求めたのは、私達夫婦が仕えるサザーランド家の財産でした。弱冠13歳である現在の当主、メルヴィン様のご両親が亡くなった後、様々な勢力から莫大な資産を狙われるようになりましたが、ヘンリエッタもそれを欲しがったのです。当然社長は彼女にアピールするためにも断れず、我々と対立するようになったのです。
現在、我々と[Ultrasonic]の関係は、正しく一触即発でございます。交渉は難航し、決裂するのも時間の問題でしょう。1番辛いのは夫でしょうが、既に[Athena]と絶縁すると腹に決めているようです。九度山信乃さんにも協力を要請しておりますが、彼女が[Ultrasonic]から攻撃を受けないのには会社と敵対しないという条件がありますので微妙です。
そこで、ちょうど社長や会社と対立しておられる[Psyche]の方々に力を貸していただこうと、この手紙を書いた次第です。さほど関係の無い事に巻きこんでしまい、真に申し訳ございませんが、どうかよろしくお願い申し上げます』
というわけです。皆さん、どうしますか?」
ガウェインさんがすかさず言う。
「やりましょう。敵は『Athena』だけではありません。『Olive Branch』の方々にとって、そして協力した私達にとっても、『Ultrasonic』そのものも敵です。2方向から叩けば、かなり効果的でしょう。――問題は誰を送り込むかですが、私は、もし本人が良いというのなら姉御を推薦します。姉御の存在自体が、少なくともグウェンが最初現われた時にいた『Athena』や社長の態度を見るに、相当な抑止力として働くでしょう。それでも今度は誰をリーダーにするかという課題が浮上してきますが、私はお嬢の名を挙げておきましょう」
「確かに姉さんなら……!」
「ついでに、こいつ、平八郎と引き分けになったって知らせましょう!」
『Psyche』達は有頂天になっているが、そこにグウェンさんとアッシュさんが冷静に切り込む。
「だが逆に、イレーネがここを離れたら、連中が待ってましたとばかりに襲って来るかもしれない。さすがに帝国は先の戦いで相当士気が低下しているようだからしばらくは手を出してはこないだろうが。カロリーネがリーダーに立つという事は、こっちも本気で決着をつけてしまうつもりだろう?すると、当然相手も本気になる」
「いや姉さん、それは十分見越しているつもりだと思うよ?九度山信乃っていう女の子とこの平八郎さんがいない今はほぼ骨抜き状態でしょう?むしろチャンスだよ。2つの勢力それぞれに社長の天敵を配置して追い込むにはね。……ただ、旦那さんと娘さんを置いて単身遠いアメリカに行く彼女自身の気持ちは考慮したの?確かにこの人以外適任はいないけどさ」
「…………」
イレーネさんもその仲間達も答えを渋る。特に当人は、良きリーダーと良妻賢母の間で迷っているようだ。
その時、
「――行ってもいいよ。お母さん」
皆びっくりして扉の方を見やると、そこにはロッテちゃんとベルンハルトさんがいた。
「い、いつからいたの?」
「手紙の頃からずっと外で聞いていたよ」
「イレーネ、僕らの事は構わずに、君が思う通りにすればいいよ。それで君達が早く戦いを終える事が出来るんだろう?」
「ええ……おそらく……」
「それなら、君がやりたいようにすればいい。……寂しくないと言ったら嘘になるけど、何かを成すには、どうしても大きかれ小さかれ代償はあるものだからね、仕方ない。もし本当に行くなら、頭だけは気を付けてね」
彼女は、家族と依頼人をかわるがわる見比べていたが、最終的に顔を向けたのは平八郎さんの方であった。
「分かりました。貴方と共に参りましょう。……みんな、私は去りますが、どうかここをよろしく頼みます。リーダーの役目は、アドバイス通りカロリーネに託しましょう。カロリーネ、後はよろしく頼むわね。ガウェインは彼女をサポートしてあげて。事務面は貴方に任せた方が良さそうだしね。それ以外のみんなも、彼女と彼だけに負担が及ばないように、何かあったら助けてあげてね」
「……はい!」
リーネは、重くのしかかった重荷を前に、気合いを入れて頷いた。他の『Psyche』達も頷く。
ニコリと微笑みかけると、イレーネさんは家族の元へと歩み寄り、それぞれと固い抱擁を交わす。
「元気でな」
「貴方も体を壊さないようにね」
「今度会う時には、もっと大人になっているように頑張るからね!」
「んふふ。楽しみにしてるわよ」
妻が娘を抱いていた腕をほどいて平八郎さんの元へと向かうと、ベルンハルトさんは彼の手を強く握った。
「それでは、妻をよろしく頼みます。どうか貴方も彼女も、頭を破壊されないよう、祈っております」
「分かりました」
男2人が握手を交わしていると、ロッテちゃんが彼らに駆け寄ってくる。
「ねぇ、出発はいつですか?まさか、今日?」
「…………明日だろうな。確かに今日中には帰りたいが、無理だろ?荷作りもあるし、依頼する側が急かすわけにもいかないしな」
「明日ですね?じゃあ、もう少し時間があります!」
「?」
妙に楽しそうなロッテちゃんに、彼は首を傾げる。彼女はそれに構わず小走りで去っていった。
平八郎さんが目をパチクリさせている横で、養母は薄く微笑んで娘の背中を見送っていた。
「本当、子供ってすぐに大きくなるのね……」
[Caroline]
「本当、子供ってしばらく会わなかったら途端に大きくなるものなのね……」
カロリーネの目の前にいる女性はそう言った。彼女はというと、涙を浮かべてただただ立ち竦んでいる。
その女の顔は、どこか彼女に似ていた。
それは、会議から1時間が経過した、ちょうど運び屋の仕事の真っ最中であった。
今回の依頼人は、せっかち・神経質・怒りっぽい・上から目線と、とんでもないオッサンで、まだかまだかとひっきりなしに電話を掛けては怒鳴り散らしてくる。カッサーノ・ファミリーがどうのこうのと言っていたが、おそらく下っ端だろう。
ブツは、絶対に中身を見るなという、映画にお決まりの文句付きの段ボール箱。大きさも中からの物音も、前に田舎へ医薬品を配達した時に感じたのと同じ。警察に勘付かれるなというお達しから推測すると、おそらく麻薬の類だろう。なんでまた白昼堂々と、と考えもしたが、逆に変なものを運んでいると疑われないのかもしれない。
自慢のバイクの後ろに荷物を載せ、あえて大通りを走る。しきりに電話をしていた方がかえって怪しまれるのに、構わず着信メロディをかき鳴らして急かしてくる。いい加減うっとおしくなって着信拒否にすると、今度はメールで罵詈雑言を送り付けてくる。1度メールも拒否しようとも考えたが、余計面倒な事に発展しかねないのでやめておいた。
ハーレーを駆っていると、段々と道幅が狭くなっていくのに気付いた。旧市街に突入だ。
カヴァリエーリ研究所やサンタ・ルチア教会がある新市街は、多くの堅気の人間が暮らしているエリアだ。戦後瓦礫を近くの小さな川に廃棄してその上に新しく作った街なので、白いビルが立ち並び、近代的できらびやかな場所である。それに対してナポリ市警察署が鎮座する旧市街は、ビルこそ建っているもののその数は格段に少なく、未だに戦災で破壊された建造物が放置された、寒々としたエリアだ。一部は『Hazard Area』で人が住めない、主に表立って言えない職に生きる夜の世界の住人の住処である。もちろん犯罪数もこちらの方が圧倒的に多い。そのためにわざわざ、市役所から遠く離れたここに警察署があるのだ。決闘でおなじみの枯れた噴水広場もこのエリアのものだ。ちなみに、クララの住むアパートや石原とミハイルが営む「高野工具店」は、仕事の都合上新市街と旧市街の中間地点に存在する。
マフィアなどの暴力団は、この内旧市街にて覇権、そして陣地をめぐって日々睨み合っている。クララ曰く、彼らの抗争には陣取りゲーム的側面が、戦前のマフィアより顕著なのだという。奴らにとって「良いシマ」とは、当然広い事も重要だが、より新市街に近くかつ『Hazard Area』から遠い場所を指す。そのため、「良いシマ」には大物が集結してぶつかり合い、逆に三流や新入りは『Hazard Area』近くで地盤を固める事を余儀無くされる。つまり、陣地さえ分かれば、ド素人でも概ねの実力が推定出来るというわけである。
旧市街に入ると、すぐにワインの甘い匂いが漂ってきた。マルディーニ・ファミリーが脱落した後陣取りで一人勝ちしているロッセリーニ・ファミリーのシマだ。最近、合法的ビジネスの第一歩として、ボスの奥さんの実家である老舗ワイナリーの味をアレンジしたワインを作り始めたらしいので、おそらくその匂いだろう。
ただ、受け渡し場所は『Hazard Area』近くなのでまだ遠い。さらに進むと、いよいよ崩壊寸前の家が多くなってきた。
ようやく目的地に近付いてきた。受け渡し場所であるカッシーノ・ファミリーの事務所まで走ろうとしたが、ここら辺の泥棒はマフィアの事務所の真ん前にある物でも平気で持って行くので、手間はかかるが屈強な警備員付きの駐車場に停めることにした。
小脇に抱えた荷物は、片手サイズなのに地味に重い。かと言って右手は、依頼人のメールに応えてやるために携帯電話を持たざるを得ない。
案の定、バイクを降りて30秒も経たぬ内に着信が来た。しかもご丁寧にも、部下から電話を拝借したのか、メールではなくわざわざ違う番号の電話で掛けてきやがっている。
『オラアバズレ!!どこほっつき歩いてんだ!さっさと持ってこいこのメスブタ!!』
受話器から響く大音量に耳を塞ぎつつも、それを表に出さずに応じる。
「はいはい、今もう少しで着きますからね」
『早くしろ!!』
次々と浴びせられる罵声を右から左へと聞き流しつつも荷物を運ぶ。
その時、彼女は1人の女性とすれ違った。
「……あれ?」
ふと、女性の立ち居振る舞いに、匂いに、一瞬チラリと見えた容貌に、そして崩壊寸前の街にそぐわぬ気品に、心の奥底に眠る記憶が揺り動かされ、思わず立ち止まって振り返る。
向こうも同じだったようで、互いの顔が正面から合うことになった。
両者、ハッと息を呑み、凍りつく。
カロリーネの手から、携帯電話と荷物が取り落とされる。
『テメェ!!電話はどうなろうがいいとして、金を払ってやる人様の荷物を落とすなんざ、どういう了見だ!!』
幸い壊れなかった電話から怒声が響くが、持ち主はそんなものなど聞いていなかった。
相まみえた2人の面差しは、瓜二つと形容していい程酷似していた。それはまるで、親子のようで――。
カロリーネの目から、ハラハラと涙があふれ出した。
「お……お母様……?」
カロリーネは、母、エリーゼ・フォン・メンデルベルグと並んで歩きつつも、1人思い悩んでいた。
仕事の時にも悩んだ。もう済ませたが、荷物の引き渡しの際、母に商売相手がマフィアだと悟られないようにするよう苦心した。ちなみに、電話の主は、小者どころかあろうことかボスだった。事務所自体はボロだったが、ボスの部屋だけ華やかで、中の構成員は、そんな待遇にあからさまに憤慨している者がほとんどで、それ以外もビクビクしているだけだった。
(あ、これ、数年で終わるな)
実際にはあと1カ月の命だったのだが、それはまた後の話だ。
彼女の悩みはそれとは関係なく、母と再会したのはいいが、どこか溝があるという事だ。彼女は、娘が死に、アンドロイドとなった事を知っていた。その分説明の手間も省けたのだが、8年間のブランクのせいもあるが、どこかよそよそしい雰囲気だ。本人はそれを見せないように頑張っていたが、それすらも苦しかった。
「ねえリーネ、ところであの人達、あなたのお友達?」
「あんなダチなんてお断りだ」
「こら。お下品でしょう?そんな喋り方。友達ではありません、でいいでしょう?」
少なくとも、言葉遣いに厳しいのは変わらない。安心からか、怒られているのに笑みがこぼれた。
「あ、そうだ。あなたの家にお邪魔する前に、ちょっとナポリを散策したいの。案内してくれるかしら」
「もちろんよ。でも、ここの旧市街は危ないから、新市街までバイクで行こう」
「……私、乗り物苦手よ……?」
「大丈夫!安全運転だから!」
「あなた昔からスピード狂でしょう!?信用出来ないわ!」
「いやいや」
駐車場に停めてあったバイクを引っ張り出し(警備員付きは当然駐車料金も高いが、盗難にあった時のリスクを考えればと、高い金を払う人間も多い)、ヘルメットを被せた母を乗せ――あんだけ安全運転がどうとか言っていたのに急発進した。
「ちょっ……!速過ぎやしないかしら!?」
「前、お姉様にもそう言われたわ。でも、90km/hって普通じゃない?」
「普通じゃないわよ!私、子供用のジェットコースターも乗れないのよ!?大体、制限速度、大丈夫!?」
「知らないわよ、そんな事!」
「わわわ!待って!」
エリーゼは、品も台無しにして絶叫し、カロリーネは興奮で絶叫し、高らかに笑っていた。
研究所に帰ってきた時、後ろは抜け殻になっていた。
「ほら、お母様、終点だよ」
「う……ううん……」
まずセルジオに挨拶したら、当然驚かれた。
大広間にいって皆に紹介しても驚かれた。クララさえも、だ。ただイレーネはいつも通り微笑んでいた。
――しかし、その目は明らかに鋭い。警戒しているようだ。もしかしたら、彼女だけは何かを感じているのかもしれない。
「娘がお世話になっております」
「いえ、むしろこちらがお世話になっていますよ。……あ、そうだ。ここの事は彼女から聞きましたか?」
「え、ええ。聞きましたから……」
「では、改めての説明は――」
「いいですいいです!」
エリーゼは向こうの反応をさほど気にしていないようだが、どこか目が泳いでそわそわしているのが気になった。
「まあ、この話は無理にしなくていいですからね、それより大事な事がある。貴方はどうもホテルを予約されてないようですが、今日はどちらに泊まられる予定でしょうか。もしよろしければ空き部屋をお貸ししますよ」
「いいえ、私は娘の部屋に……」
イレーネの目が、射るようなそれに変わった。
それを悟ったカロリーネが、慌ててなだめる。
「ちょっ!そんなに怒らなくてもいいでしょう?私達親子の問題ですし」
「いえ、それでいいのかなっていうだけですよ。別に怒ってないですよ」
「娘の部屋『で』いいではなく、娘の部屋『が』いいんです。ご心配はいりませんよ」
「なら、どうぞご自由になさって下さい」
そう言いつつも、彼女の笑顔はどこかわざとらしかった。
夜は、人間とアンドロイドが大広間で混じり合っていた。人間の今日の食事は、アッシュさん特製ソースをたっぷりかけたステーキだ。
今回の晩餐はいささか奇妙だ。母との再会を喜ぶ者もいれば、明日母と別れる事になる家族もいる。そして何よりおかしい事に、家族が別れる元凶であり敵である平八郎さんが席に着いている。人の縁というものは分からない。
「そうだ。イレーネさん、もう準備できてるんですか?」
男性の靴と大差ない大きさの肉を頬張るジャクリーヌさんの横で、アッシュさんがお子様ランチ規格のステーキを食べながら言う。
「ええ。もう終わりましたよ。それがどうしたのですか?」
「いや、ちょっとお話したい事がありまして、この後僕の部屋に来て下さい」
「……アッシュ、最近よくあの人と会うわね。人妻よ?」
ここで、ジャクリーヌさんが首を突っ込んできた。
「分かってるよ!浮気なんてするもんか!僕こそ、仕事とは分かってるけど他の男の人と寝るのは嫌だって、稼業やめさせた身なんだからさ!ちょっと打ち合わせ!」
「ふーん」
あ、あのニヤニヤ顔は密かにからかってるな。
「ジャッキー。あんまりからかってやったらだめだよ」
メシをたかりに来たカテリーナちゃんに笑いながら諭され、子供のように膨れてみせた。
「そういやロッテ、あと1週間で母の日だろ?早い目のプレゼントはねえのか?」
字面だけ見れば完全にコワモテのオッサンのセリフだが、実際に言葉を発しているのは若手の女医なのだから恐れ入る。
「えへ。秘密」
あ、これは何かあるパターンだな。
「マイリーさん達は何もないの?1人アメリカでお留守番してるんでしょ?3年も帰ってないんでしょ?」
「バカかお前。何か送るにしろ帰省するにしろ、帝国に俺ら捕縛のチャンスを与えるようなもんだぞ?」
「でも電話くらい入れてもいいと思うんだけど」
あー……と、マイリーさんが困ったように頭を抱える。彼女個人としては、帝国に見つかる心配さえなければ何かしたいのだろう。
「おーい姉貴に兄貴ー。つーわけでなんか考えてくれ」
「そんな事言われても」
「あ、私がプレゼント飛行機から落とそうか?」
「……姉さん、それ逆に悪目立ちするよ」
そんな一団を、イレーネさんはニコニコして、そしてエリーゼさんはぼんやりと見つめていた。
「大丈夫、私は何か用意するつもりだから」
母の表情を意気消沈しているととらえたのだろう、リーネがポンポンと肩を叩いて微笑みかける。
しかし彼女は、顔をほころばせながらも余計に悲愴感をたたえて力無く笑い、かぶりを振った。
「……いいえ、私はいいわ」
「えー!遠慮しなくていいのに!」
「いいのよ。私明日までに帰らないと、亭主が心配するから……」
「再婚……したの?どんな人?」
「普通の人よ。弁護士さんだからちょっと収入はあるけどね。私も仕事を手伝ってて、今日しか空いてないから来たんだけど、明日には亭主が出張に行っちゃうから、事務所見ておかないといけないの」
リーネは残念そうに脱力してしまった。
「そっかー……。今日は用意してないし、送るにしてもお兄様が細工しそうだし……。ごめんね……」
「そ、そんな落ち込まなくてもいいのよ?気持ちは受け取っておくわ。ありがとう」
エリーゼさんに抱かれ、妹は腕の中で微笑んだ。
「あ、おかわりー」
……え、何してんのこの人。
「ジャクリーヌさん、食べ過ぎですよ」
「妹ちゃんの分も食べてあげてるんでしょうが」
「だからと言って、おかわりの方が肉がでかいなんて、どう考えてもおかしいでしょう」
大広間内は、和気藹々とした空間となっていた。
――しかし、だからこそ、一抹の不安が付きまとっていた。
「それじゃあ、私お母様と部屋に戻る」
「気を付けろよー」
「アハハ。お姉様まで」
リーネは快活に笑いながら、エリーゼさんを引き連れて大広間を後にした。
「――ね?怪しくないですか?」
そう耳打ちしてきたのはイレーネさんだった。
「まあ……、確かに、変装した『Ultrasonic』のスパイかもしれませんし……」
「もしくはヘルメスベルガーの?」
「いえ、あそこは勝者なので、もう執着無いんですよ。滅ぼしちゃいましたから。こっちから仕掛ければ応戦するといった感じで。今現時点で本気になっているのは、令嬢のシャルロッテさんだけです。どうやら、小さい頃からカロリーネと戦うために鍛えられて育ったんで、それをやめるとアイデンティティを喪失するというか……」
私がそう答えると、彼女はニヤリと笑った。
「随分と、お詳しいんですねぇ……」
ぎょっとしたのが、自分でも分かった。
「ご自分ではうまくごまかしているつもりでしょうが、脆いですよ?前、カロリーネが、なぜ自分の姉である事を言ってくれなかったのかときいた事があったでしょう?その時、貴女、『気付かなかった』なんて言ってましたよね?なんでメンデルベルグ姓を名乗っている妹を認識できないんですか?そんなわけないでしょう?妹が自分の正体を知らない状態の方が都合が良かったからではありませんか?貴女こそ、どこぞのスパイか何かなのではないですか?そうでなくとも、何か隠しているでしょう?悟られるのも時間の問題ですよ」
「違っ……!私は……!」
ここで自ら悟った。自分は何一つとして弁解の言葉を持ち合わせていない事を。そして、イレーネさんに鎌を掛けられたと。
「――ねぇ。貴女って、本当は『何』なのですか?黙っていても、疑いが深まるばかりですよ?」
彼女は艶めかしい手つきで頬を撫でる。背筋がぞくりとし、冷や汗が伝う。
「さ、私だけに教えて下さるかしら?自らに罪が無いというのなら、弁明して下さいな」
私は耐え切れず、全てを白状してしまった。
[Ash]
「おお!これはいいです!」
そう叫んだイレーネに、アッシュは思わずドヤ顔を見せた。
「木の香りをベースにローズウッドやゼラニウムをメインに出して、アクセントにムスクを入れてみました」
「この名前は決まってるんですか?」
「マドモアゼル、にしようかと」
「……ジャクリーヌさんって、年齢的にかなりの大人ですが……。もう28でしょう?」
「でも、マダムでもないでしょ」
「それもそうですね」
彼女は、匂い紙を指で弄ぶ。
ここはアッシュの仕事場。鼻が麻痺しそうなほど甘い香りが立ち込めているが、彼はこんな中でも鋭敏な嗅覚を保っていられるのだ。
「話ってこれですか?」
「いえ、もう1つ大事な相談があるんです。ローマに『福音の家』という新興宗教が上陸したでしょう。その事です」
「ああ、あの街の中心に大きな教会を建てた所でしょう?なぜかアンテナを取り付けていましたね」
「そうです。そのアンテナが問題なんです。奴らは『平和省』の下部組織で民衆や帰還兵を洗脳している『福音庁』の仮の姿です。といっても、実際に洗脳の媒体になる虫、『銀虫』っていうんですが、それを扱っているのはまた別の部署の『英知庁』で、『福音庁』は洗脳電波を発しているんですがね」
「それを、ナポリに入れてしまったと」
彼は、苦い表情で頷き、拳をぐっと握り締めた。
「ええ。私達が目を離している隙に、です。それでも、僕達には最悪の事態を防ぐ役目があります。……ただ、ハッキングするにもスパイを送り込むにもガードが堅過ぎて、これくらいの情報しか集められない状況なんです。連中の目的すら未だに分かりません」
「彼らは具体的にどんな事をしているのですか?そこから推測しましょう」
「奴らはどうも、邪魔者を排除したいらしいんです。それは分かるんです。現に『軍隊島』脱出後、幾度となく洗脳された帰還兵達に襲われています。まあその数の多い事多い事。――ですが、連中、反帝国だけでなく、比較的有能な要人まで暗殺しているようなんです。その目的がさっぱり……。ですから、あなたの裏人格に知恵を貸して頂きたいと……」
「――まさか、直々のご指名があるとはな」
指が鳴る音と共に、イレーネ――その裏人格は苦笑した。
「まあまあ有能な方に入る要人連中の暗殺の真相?それは将来的に邪魔になるからだろう?」
「……そんな簡単な話なんですか?」
「だろうぜ。人間ってのは単純なようでいて複雑なようでやはり単純なものでな、分かりにくいようで分かりやすい。君が言っているのは、あの連続暗殺事件の事だろう?」
最近、各国の(比較的)有能な政治家などの要人が相次いで暗殺されるという事件が発生していた。犯人は全て別人物で共通点は一見なさそうだが、1つ大事な共通点があった。それは、銀色の寄生虫が体内から見つかったという事実であった。
「被害者はかなり有力な部類に入る。帝国にとっては、将来支配を目論んだ際、十分脅威となりうる。ならば、今から排除しておいたほうが、疑われにくい。だから今殺してしまおう。――憶測でしかないが、これしか理由は考えられないな」
「なるほど。でも自分達で手を下すのはやっぱり厄介だから、わざわざ洗脳して、その人に罪を着せると。えげつないやり方だね」
「そうだな。あの総督、相当老獪らしい。油断ならない。あの女帝も、帝国の地盤が盤石になれば命も危ないぜ」
アッシュは、眉間に皺を寄せて頷いた。
「それこそ、僕達が一番恐れている事態です。帝国のストッパーが無くなってしまいますからね。現に、お世継ぎが生まれれば、良くても追放、最悪の場合殺害されるのではと、もっぱらの噂です」
「旦那も気が気じゃないな」
2人は沈黙する。それを破ったのは、イレーネの裏だった。
「――そろそろ頃合いかな……」
「ん?どうしたんですか?」
首を傾げる相手に、彼女(『種』自身は男性だが、見た目は女性なので、見た目の性別に人称も合わせる)は笑って首を振ってみせる。
「……もしかして、あのエリーゼっていう人の監視ですか?」
「お見事。なぜ分かった?」
「あの人、ずっと冷や汗のにおいがしていましたからね。怪しいかと」
「さすがだ。なら、もう話は読めただろう?」
彼女は悪戯っぽく二ヤリと笑い、ドアの方を親指で示した。
「カロリーネの部屋の隣、空き部屋なんだ。そこで、母子の再会を一部始終見守ってやろう」
「……いつの間にカメラ仕掛けたんですか?」
「メシの前」
「早っ!!」
仕掛け人は、妙に楽しそうに舌舐めずりした。
「セルジオとエカテリーナも乗ってくれたんだ。こんな大規模な悪戯は久し振りだな。結果が今から楽しみだ!」
アッシュは呆れつつも、部屋を出たイレーネの裏についていった。
[Ludwig]
一方、こちらはサンタ・ルチア教会。ここのすぐ隣には、1階部分が診療所の、白い2階建ての上品な家があった。ここはカンナヴァーロ家で、医者でもあるヨハネ神父とその養子であるルートヴィヒが暮らしている。
この男2人暮らしの家に、夜、訪問者が現われた。女性ではなく、自分を監視する目に悩まされているルートヴィヒを自宅まで送り届けに来たカルロだった。
「伯父さん、久し振り」
「ああ、元気だったか?」
カルロは神父の妹の子、つまり甥である。その縁で小さい頃から教会にたびたび遊びに来ており、ルートヴィヒともそこで知り合った。
2人は、幼馴染であり気が置けない友人である。警察署外の仕事の時ですら蛇に睨まれた蛙のように怯えているルートヴィヒも、安心したような柔和な表情を浮かべている。
「父さん、こいつ泊めてやってもいいかな」
「いいが、余っている部屋は無いぞ?」
「俺の部屋で、2人で寝る」
「……あのベッド、男2人では狭くないか?」
「いいじゃないか伯父さん。狭くてもいいし、僕ら」
「そうかそうか。ベッドから転げ落ちないようにな」
神父はクスクス笑いながら、甥を我が家へと招き入れた。
「最近、ルッツの周りが不穏だな」
「まったくだ。私達は単にのんびり暮らしたいだけなのに」
ヨハネは肩を落として溜め息を吐いた。
ふと、甥っ子はそんな伯父の耳元で囁いた。
(もしかしたら、相手はルッツの「あれ」を狙っているんじゃないか?だって、実家の連中はあんな事しないだろ?)
(……かもしれないな。「あれ」は十分な誘惑だからな)
「ん?何だ?」
「いやいや、なんでもない、うん、なんでもない」
「?」
引きつった笑いで手をブンブン振る相棒に、ルートヴィヒは首を傾げた。
「ま、とりあえずあれだ。事が治まるまで僕が送ってやるよ」
「……本当か?」
彼は、顔を赤らめて、顔を綻ばせる。
「カルロ、ところで夕飯はもう食べたのか?」
「うん。あとはシャワー浴びて寝るだけ。というわけで、シャワー貸して」
「……まあ仕方ない。使いなさい」
「やったー。じゃ、ルッツに背中洗ってもらお」
「なんでじゃ」
ルートヴィヒは、監視の目の事も恐怖も怯えも忘れ、久し振りに大声を上げて笑った。
1時間後、2人は同じベッドに寝そべっていた。なんとか男二匹収まっている。
「――そういやルッツ、初めて会った時も、2人で一緒に寝たよな」
「あーあれか。俺がここ来てからすぐの時の」
「そうそう。僕が母さんと来た時」
「うわー懐かしいなー」
彼らは目を細め、その心は既に幼き頃に戻っていた。
ルートヴィヒがカルロと初めて出会ったのは、彼がカンナヴァーロ家の一員となったわずか2日後の事であった。
彼は、人生で初めて同じ年代の子供を目の前にして、少し緊張していた。
「僕はカルロっていうんだ。よろしく!君は何ていうの?」
「……ルートヴィヒ」
「そう!じゃあルッツって呼ぶね!」
「う、うん……」
「そんじゃルッツ、かけっこしよ!よーい、ドン!」
「えっ……!」
未だに混乱しつつも、既に走り出したカルロの後を追いかける。
その時、彼の足を、激痛が襲った。
(しまった!!)
両足の裏の皮膚がめくれるという深い怪我を負っていた事を、今さらながら思い出した。
そうとも知らぬ少年は、ルートヴィヒを置いて無邪気に手を振った。
「おーい!早く来ないと置き去りにしちゃうぞー!」
その、悪気ない一言が、ルートヴィヒの心に刻まれた深い傷を刺激した。
「ま、待ってよ……!」
彼は、足の激痛に顔を顰めつつも、全速力で走った。知らぬ間に、涙があふれる。
「えっ!ちょっ、どうしたの!?」
異変を察知したカルロが、慌てて駆け寄って来た。ルートヴィヒは彼に取りすがり、しゃくり上げて泣いている。
「やだよぉ……。見捨てないでよぉ……!」
「な、何があったの?置き去りなんて冗談だって!」
カルロはオロオロしつつも、泣きべそを掻いている子供の足元に目を移し、ぎょっとした。
ルートヴィヒの足から、鮮血が滲み出ていたのだ。
「オジさーん!ルッツが足ケガしちゃったみたい!」
「えっ……!?」
ヨハネとその妹でありカルロの母、パオラが、血相を変えてルートヴィヒに駆け寄る。彼はそれを、靴やカーペットを汚したから怒られると考えてしまったらしく、神父が優しく抱きかかえようと手を伸ばした時にも、怯えて後ずさる。
「ご、ごめんなさい……」
「私達は怒ってはいないよ。ただ、手当しないといけないからね。ほら、抱っこするよ」
すると、彼は泣きやんで、義父に身を任せた。
残された母子は、カーペットの血痕をマイクロファイバータオルで拭いていた。
ふと、カルロは母にこう切り出す。
「ねえ、あの子、何でここに来たの?伯父さんは神父だから結婚できないでしょ?」
すると、パオラは気まずそうに顔を歪めた。
「世の中にはね、知らなくても良い事だってあるのよ」
「でも、僕が何も知らずに言ったりやったりした事が、知らない内にあの子を傷つけたりしたら嫌だし……」
「うーん……」
彼女は、悩みに悩んだ挙句、我が子の耳元でこう囁いた。
「それじゃあ、今から聞く事は、お友達には教えちゃだめだよ。ルッツ君、傷つくからね」
カルロはコクリと頷いて聞き耳を立てていたが、話が進むにつれ、顔色が暗くなっていった。
「僕……ルッツに謝ってくる」
「ぜひそうしなさい。今なら仲直り出来るわよ。時間が経ったら、謝りにくいものね」
母の言葉に背中を押され、彼はルートヴィヒが運ばれていった彼の自室へと向かった。
その扉を開けると、そこには、ベッドに腰掛けている少年と、彼の足に包帯を巻いている三十路にさしかかったばかりの男の姿があった。
「ルッツ、大丈夫?」
「うん……大丈夫だよ……。でも、これじゃあお外で遊べないね」
「中で遊ぼうよ」
「うん……」
そう言うなり、ルートヴィヒはコテンとベッドに倒れ込んでしまった。
「眠いよ……」
「それじゃ、僕も隣で寝ていい?」
「いいよ、一緒に寝よ……」
2人は、同じ布団の中に潜り、ほぼ同時に寝入った。
その日を境に、2人は急速に仲良くなっていった。そしていつの間にやら、幼稚園から職場まで一緒という、桁外れな腐れ縁となっていた。
「あの時はびっくりしたな。あんな大量の血を見るのは初めてだったからな」
「まーあれはビビるだろうな」
2人は、ライトスタンドのほのかな明かりのみが照らす中、夜の闇に包まれて笑い合った。
――しかしそんな彼らを、監視者は夜間ゴーグル越しに、静かに観察していた。
「……調子はどうだ?」
「特に変わった動きはありません」
監視者――女性である――の背後から、黒髪のスーツ姿の青年が声を掛け、近付く。
「レーザー盗聴器は持っているか?」
「ええ」
「なら、そいつで少し、連中の会話を聞かせてくれ」
「畏まりました」
そう答えた女性は、大きい腹を抱えながら機材を準備する。彼女は、まだ顔に脂肪の無い30歳前後のきれいな女だ。おそらく膨らんだ腹は、彼女が授かった新たな命によるものだろう。後ろの青年、臨月が近いであろう妊婦をスパイに駆り出すとは、酷い事をするもんだ。
もちろん彼も、そこら辺の妊婦を引っ張って来たわけではない。彼女は夫である心理カウンセラーと結婚する前は、イタリアでも名うての殺し屋の1人だったのだ。しかし、逮捕され服役した後は堅気となり、スーツ男の依頼が来るまではごく普通の主婦となっていた。
「欲を言うのなら、君にはもう一度銃を取ってもらいたかったんだがね、ルイーザ・ブレンダーノ君」
「あら、残念ですが、それは承りかねますわ。銃声は、胎教には最悪ですから」
「しかし。それでも監視役は引き受けるのか?」
「そうでもしないと、貴方、怒るでしょう?」
ルイーザというらしい女性の穏やかな表情は、盗聴器のデータを音声に変換したものを聞くや否や、殺し屋時代を彷彿させる鋭いそれに変わった。同時に、青年の顔も険しくなる。
『――で、いつから監視されてるんだ?』
『3、4週間前だったか?路地裏で、30代後半くらいの男と20代後半らしい男とが、銀虫だの福音だのと密談しているのを目撃してからだ』
『もしかして、そいつらに睨まれたのか?』
『おそらくな』
ルイーザは、会話に聞き耳をたてつつも、青年の顔をうかがった。明らかにご立腹だ。
「いかがなさいますか?――メンデルベルグさん」
「こうなったら、奴の身柄を早急に確保しなければいけないな。……まったく、ヘルメスベルガー家は復活するわ、オグナは逃げだすわ、平八郎が脱退してイレーネと組むわ、カロリーネが色々と邪魔してくるわ、と最悪の状況だからな。これ以上厄介な事はごめんだ」
青年――ヴィーラントが溜め息を吐いたその時、彼の部下らしき男が息を切らして駆け寄って来た。
「しゃ、社長、大変です!」
部下が耳元で報告を聞くにつれ、彼は徐々に顔面蒼白になっていった。
「……分かった。私が行こう」
彼は部下を下がらせると、ルイーザに苦々しげな顔で告げた。
「……どうやら、あの警官の監視をしている暇は無さそうだ。必要も無くなったしな。急だが、予定より早く、今日に全ての仕事は終わりとしよう。君も近々予定日だったしな。報酬は変わらないから安心してくれ。……ちなみに、明日辺りに、もしかしたら敵が君に接触を図るかもしれない。その時は……仕方ない、話してしまってもいい。ただし、向こうの目的を上手い事聞き出して報告してくれ」
彼女は、不思議そうな顔をしながらも頷いた。
「ほら、お腹重たいだろう?肩でも持ってくれ。ここ手すり無いからな」
ヴィーラントは、重い腹を抱えながら階段を下りるルイーザの身を支えて、今まで張り込んでいたビルを出た。
「御苦労だった。帰り道で転ばないようにな」
「……やはり社長、フェミニストですね」
家路に着くルイーザを見送って黒塗りのリムジンに乗り込んだ上司に対して、助手席にいた部下がボソリと呟く。すると彼は、照れ臭そうにはにかんだ。カロリーネと対峙した時の冷酷さは嘘であったかのように。
「……『Psyche』とヘルメスベルガー家と、下の妹以外には、な――」
鈍い光を放つ、黒く厚い重そうなアタッシュケースの横で、彼は新書を取り出した。そのタイトルはこうであった。
『家庭内殺人 ―親の子殺し、子の親殺し―』
[Ash]
監視されている方は辛いが、監視する方も大変だ。ずっと張り込んでないといけないのだから。
アッシュ達も、その苦しみを痛感していた。
「……何も起こらないわね……」
面白がって盗撮チームに加わったジャクリーヌが、平和な映像を見てあくびをした。
あれから1時間は経っている。しかし、モニターの向こうにあるのは、ごく普通の親子の語らいであり、おかしな所は全くない。
「つまらないな」
エカテリーナが、机に突っ伏してボソリと呟く。
「何かは起こるのは確かなはずですよ?上官の予測を信じるなら、ですが……」
「でも、あの人なら予測当たりそうなんですがねぇ」
「当たりますよ。不測の事態なんて無いかのようですよ」
イレーネとアッシュは、異変を信じている。しかし、起こる予兆すら無い。
もう観察をやめようという雰囲気になった時、1人黙ってモニターを見続けていたセルジオがこう言った。
「姉御、リーネが寝ました。今後エリーゼがどう動くか、ですね」
皆、ハッとして顔を見合わせる。
「そうか!何かをやらかすにも、まず部屋の主が寝ないと始まらない!」
エカテリーナは、パッと机から身を起こした。
「そうね。いまからが辛抱ですね。では皆さん、もう一度仕切り直しましょうか」
「……え、もしかしてイレーネちゃん、思いつかなかったの?」
「……てへ」
「こら、てへ、じゃないでしょ?」
皆モニターに注目し直したが、10分経っても、エリーゼはベッドサイドにある椅子に腰かけたままで、何のアクションも起こさない。
「んー……勘違いだったのかしら?」
粘り強く、ある意味頑固なイレーネでさえ諦めかけていた、その時だった。
「……姉御、さっき画面内で何か光りませんでした?」
またもやセルジオが何か発見したようだ。
「何だろ。結構鋭い光だね」
確かに、女の腰の辺りが、ギラリと光っている。さらに言うと、女はその光る物体をポケットか何かから引き出しているようだ。
息を殺して観察していると、物体の全容が明らかになった。
――冷たく光る、ナイフであった。
エリーゼはそれを娘の胸に突き付け、勢い良く振り下ろそうとする。
「ちょっ!イレーネさん!!」
アッシュがびっくりして振り返ると、彼女はいつの間にか姿を消していた。
代わりに画面内では、エリーゼが突然現れた何者かによって身を押さえ付けられていた。
その人物は、短い黒髪を持つ、小柄な、白い軍服を纏った女性――イレーネその人だった。
アッシュらが隣の部屋に赴いた時、女性2人は取っ組みあっていた。
「我が子を殺そうとするなんて、人として信じられません!」
「そっちこそ、人の子を改造するなんて!それに、あなたが人ですって!?」
「ハァ!?こっちは許可取ってますし、それに私が人じゃないのなら、あの子も人じゃないって事になりますし!」
「そうですよ!あなたは完全な人間だったあの子を人じゃないモノにしたんですよ!!」
「ちょっ!!その言い方!酷いにも程がありますよ!!」
「…………」
これは面倒な事になった、と言わんばかりに溜め息を吐いて、アッシュはカロリーネのコードを引き抜いた。
「ん~……。あれ?何で姉さんとお母様が取っ組みあってるの?」
充電を中止された少女は、寝ぼけ眼をこすって大きく伸びをした。
イレーネがニコリと笑う一方で、エリーゼの顔面は見る見るうちに蒼白になっていく。
その時、カロリーネが彼女の手にあるナイフに目を止めた。
「ん?お母様、それどうしたの?」
聞かれた本人はというと、大丈夫大丈夫、と、引きつった笑いを浮かべながら繰り返した――まるで、自分に言い聞かせているかのように。
「あのね、そこにいるリーダーが私を刺そうとしてね、それで応戦してナイフを奪って……」
「ありえない。私だって、姉さんから武器をふんだくれる自身は無いよ」
「…………っ」
エリーゼが言葉に詰まっている隙に、セルジオが、さっきまで撮っていた映像をカロリーネに見せる。
「ほら、ここだ」
「えっ……!う、嘘でしょう?」
少女の潤んだ目が、真っ直ぐ母親を見つめる。彼女は俯き、得物を取り落とした。
「そんな目で見ないで……。それもこれも、あなたのためなんだから……」
「「「「「…………!?」」」」」
皆が目を剥いて顔を見合わせる中、さらに彼女は話し続ける。
「1カ月前の事よ。私はヘルメスベルガー家当主、フランツ様にお仕えしているのだけれど、彼に『お前の娘が〈Psyche〉にされたらしい』と聞かされてね。あの時は目の前が真っ暗になったわ。だって、自分の娘が死んでも生かされているなんて……確かに少し嬉しかったけど、それってまるで…………ゾンビみたいじゃない……」
それに対してやんわり反論したのはアッシュだった。
「いや、彼らはすごく人間らしいですよ。感情も豊かですし……」
「……では逆にお聞きしますが、あなたは、自分の恋人がアンドロイドにされたらどうですか?そりゃあ、最初は嬉しいでしょう。ですが、月日が経てば、人間のようで人間でない彼女を不気味に思うでしょう。人間に限りなく近いからこそ。それに、あなたが評価する感情の豊かさが、単なるプログラミングされた条件反射でないと、どうして言い切れるのでしょうか?」
「人間の感情も、ある程度は条件反射だと思いますが……。それに『Psyche』って、意識自体をインストールしたロボットですよ。もう人間そのものです。確かに、かつて生きていた人間をロボットに移し替えるのは、すんなりと受け入れられるものではないかもしれませんわ。でも、それはあなたの娘さん自身が選んだ道なんです。優しく見守ってあげて下さい」
ジャクリーヌが諭したが、エリーゼはまだわだかまりを残しているようだ。
「……ですが、彼女が意思を表明したのは死ぬ直前でしょう?そんな合理的な判断の出来ない時に聞いた事は、果たして本当の意思だと言えるのでしょうか?」
「ですが、私達は、バチカンにアンドロイド製作を許していただく条件として、『地上に生きるものを利用するなかれ』と言い付けられてまして、どうしても死人を利用するしかなくて」
「そこですよ。そこまでして、なぜアンドロイドを作らないといけないんですか?自分達の戦いに無関係な人間を巻き込んで、何が楽しいんですか?」
そう言われると、イレーネは黙りこくってしまった。
「何も言えないんでしょう?そんな意味の無い戦いに娘が巻き込まれているのなら、私が『Psyche』ごと死なせてやれば楽になるんじゃないかって」
エリーゼは、そう言うなり、懐から拳銃を取り出した。
「安心して下さいね。皆さんまとめてあの世に送って差し上げますから……」
その銃口は、真っ直ぐイレーネに向いていた。
しかし彼女は、怯えるどころかクスリと笑って同じく拳銃を手に取る。
「まず私から仕留めようとするのは賢明ですが、さて、どうなるでしょうかね」
当のカロリーネは、止める口実も思い浮かばす、ただただ狼狽している。力ずくで制止するという方法も脳裏をかすめただろうが、そうなるとどちらかは無事では済まないだろう。他の傍観者も同じ立場だ。特にアッシュは、勢い余って2人共殺しかねない。
見物人の思惑もどこ吹く風、2人は互いに銃を向けて引き金を絞る。
その時だった。
「……え?」
イレーネがまだ発砲していないというのに、エリーゼの胸から鮮血がほとばしった。
皆呆気にとられる中、カロリーネだけが、力無く倒れた母親に駆け寄る。
「お母様!何で!?起きて!おかあさまぁっ!!」
しかし彼女は、娘が懸命に揺り起こすも、その顔を一瞥して微笑んだきり、目を閉じ、そのまま口から空気を漏らして動かなくなった。
エリーゼ・フォン・メンデルベルグ、40歳――若くして母親となった女は、娘に先立たれ、今自分も同じく凶弾によって生涯を終えた。
カロリーネは声も出せず、母を葬った弾頭を銃痕から取り出す。周囲も、沈んだ表情で沈黙している。
すると、
「姉さん……!」
彼女が、イレーネにすがるように両手を伸ばした。彼女はすぐさま駆け寄り、その体を抱き締めた。
「……どうしたの?」
「1人じゃいられない……寂しい……悔しい……!」
ついに少女は、彼女の胸に顔をうずめて泣きじゃくり始めた。イレーネはさらに彼女を強く抱き、その頭を優しく撫でる。
しばらくすると、カロリーネも心が落ち着いたようで、グッと腕で涙を拭った。
「…………ありがとうございます。大分楽になりました」
「良かったわ。……でも、誰がこんな事を……」
「心当たりは……ありません。まず、お母様の人間関係も分かりませんし……」
「となると、警察に頼るしかないわね。殺人事件だし。カメラも回って――」
そう言いかけたジャクリーヌが、カロリーネの手元に目を止めた。
「ちょーっとだけ貸してね。……どれどれぇ?」
彼女が目を付けたのは銃弾だった。唯一点いていたベッドサイドにあるライトスタンドの光にかざして、まじまじと観察する。
「…………あ、あったあった。この蝶のマーク、何かしら?」
「なっ……!!」
カロリーネが、ぎょっとしてジャクリーヌの手から弾頭をひったくる。
「どうした?何か知ってるのか?」
首を傾げるエカテリーナに、彼女は全身をワナワナと震わせながらこう答えた。
「これ……ヘルメスベルガー家の紋章です……」
[Klara]
朝は、誰の元にも平等に訪れる。出会いを喜ぶ者にも、別れを嘆く者にも。
私達にとって、今朝は別れの朝だった。イレーネさんと平八郎さんがイタリアを発つのだ。
『Psyche』と『Olive Branch』、オリジナルが平八郎さんの妻だという飛鳥ちゃん、そしてモルゲンシュテルン一家といった大人数で、先日信乃ちゃんを見送った、ローマのフィウミチーノ空港に赴いた。
「――それじゃあ、もうすぐ行くわね。みんな、『Psyche』をよろしく頼むわ。これからが正念場で1番大変だけど、困ったらいつでも相談に乗るから、諦めないで頑張って。そうすれば道は切り開かれるわ。感情ばかりにとらわれては駄目。過去のしがらみではなく、自分の理性と良心の声に頼るのよ。一時は2つに別れる事になるけど、それが解決の糸口になるの。分かったわね」
「はい!組は任せて下さい!!」
リーネはドンと胸を叩いた。皆も、それに続いて頷く。
「それでは、妻を頼みますね」
「了解しました。加勢を依頼した以上、しっかり援護します」
ベルンハルトさんと平八郎さんが、再び固い握手を交わす。
「アメリカかぁ……。僕らも、落ち着いたら里帰りしないと。母さん1人で置いて来ちゃってるし」
アッシュさんは、目を閉じ故郷に思いをはせる。マイリーさんやジャクリーヌさんもそれに続いた。
「おふくろか……。久々に手作りアップルパイ食いてぇなぁ……」
「アッシュ達の里帰りには私もついて行かないとね。『息子さんを私に下さい』って言わないと」
「日本じゃ普通逆ですよ。教師時代の同僚がそれで悩んでました。何言ったらいいんだ、なんて」
「あー悩む悩む。そういや俺の場合、飛鳥にゃ親がいなかったから、信乃にそう言ったな。懐かしい」
和やかな雰囲気の中、1人だけそわそわしている子がいる。ロッテちゃんだ。
「どうしたんだ?ロッテ。さ、ママにお別れして」
ベルンハルトさんは、優しく笑ってそんな娘の背中を押す。
すると彼女は、綺麗にラッピングされた包みをイレーネさんに差し出した。顔は真っ赤だ。
「これ……初めての手作りだから、下手だけど、使って……」
母の顔が、パァッと明るくなった。
「え、手作りしてくれたの!?ありがとう!ね、ちょっと開けていい?」
「いいけど、恥ずかしいからあんまりバッと開けないでね……」
「あ、凄い!」
「ちょっと!!バッと開けないでって!しかも堂々と広げないで!!」
「えー!全然恥ずかしくないじゃない!初めてじゃなくても上出来よ」
中身は、落ち着いた薄いピンク色のポシェットだった。確かに、大人でも堂々と使えるクオリティで、恥ずかしくなんてない。
「え、これ本当にロッテが作ったの!?」
「う、うん。女王様……裏人格さんに手伝ってもらったけど……」
「でも上手いじゃない!つい最近まで甘えんぼさんだったのに、もうこんなに成長したのね!」
照れる娘の頭を、イレーネさんが優しく撫でた。その横では、平八郎さんも作品を回し見て感心している。
「これ小6の内容だぞ?俺なんて、中1でも、授業で巾着袋作ったら謎のかたまりになったぞ。高校じゃ、家庭科の先生に個人授業してもらってもエプロン作れなくて、どうしたらいいのって嘆かれたよ。俺に聞かれてもなァ」
「それっておつむの関係じゃ……」
「飛鳥ー。お前も人の事言えねえだろー」
「私は諸事情でろくな教育も受けさせてもらえてないだけで……っていだだだだ!!頭グリグリしないで下さい!!」
ある意味夫婦喧嘩な光景を、皆馬鹿笑いしながら見ていた。
「あっ!こんな事している場合じゃないですよ!私の頭グリグリしている場合じゃないですよ!飛行機に乗り遅れますよ!10分前ですよ!!」
「……あ、そうだな。そろそろ行こうか。イレーネ」
「え、ええ……」
イタリアに何の執着も無くあっけらかんとしている平八郎さんの隣で、イレーネさんは寂しそうに目を伏せ、ゆっくりとキャリーバッグに手を伸ばす。
「それじゃ、みんな、ナポリをよろしく頼んだわ。……ロッテも、パパと2人になるけど、頑張ってね」
「うん、お母さんも頑張って。応援してる」
「死ぬなよ、イレーネ。秋には、ナポリで結婚記念日を祝おう」
「もちろんよ、あなた」
そして彼女は、夫と娘と代わる代わる抱き合うと、平八郎さんに続いて搭乗口、そして新たな戦場へと向かった。
いつまでも手を振り続ける仲間に大きく手を振り返す彼女の目は、どこか潤んでいた。
初夏から夏に移行する季節、ナポリじゃ普通は晴れ続きなのだが、今日は珍しく、昼下がりになると雲が出だした。
そんな空模様を見つつ、空室で1人記事の構想を練っていると、
「おねーさまー。開けるよー」
ノックと共に、リーネの声が聞こえてきた。
「はーい」
振り向かずに返事すると、
「もー!どこにいたの?」
とか言いつつ妹が入って来た。チラリと姿を見てびっくりした。白いノースリーブだったのだ。
「……まだそれは寒いだろ」
「そうでもないよ。それより――」
いきなり首に腕を回されてびっくりして振り向くと、リーネがしがみついてきていた。
「ちょっ!どうしたんだ!?」
驚いて思わず振りほどこうとした私に、彼女はさらに強い力ですがる。
「お姉様……ずっと、私の見方でいてくれる?」
「え……」
固まってしまった私を、彼女は悲しげに見つめている。
「……やはり、昨日の事件、気にしているのか?」
「うん……。それに私、なんでか分からないけど、お姉様がどこかに行っちゃうんじゃないかって、不安で……。そのせいかね、昨日怖い夢見たの。お姉様がヘルメスベルガー家の連中に連れてかれちゃう夢……。それで心配になって……」
「それはきっと、昨日の事件の犯人がヘルメスベルガー家の可能性が高いという推理と、その不安が折り重なったものだろう。しかし考えてくれ。あの連中が、あの馬鹿正直に正攻法でかかってきたがる奴らが、わざわざヒットマンを使って、しかも、自分の部下を殺し、さらに敵、『Ultrasonic』のさらなる敵であるお前を敵に回すような行為をすると思うか?むしろあんたとあいつらの衝突を望む何者かの仕業と考えた方が合点がいかないか?」
リーネにとって助言は不服だったようで、頬を膨らませて拗ねてしまった。
「なーんか最近、お姉様あいつらの肩ばーっかり持ってるような気がするー」
「そうか?」
私は首を傾げて見せた。
「……ま、心配するな」
よいしょ、と、リーネの腕をほどいて立ち上がり、不機嫌そうに俯いている妹の頭を撫でる。
「私はいつでも味方だ。――リーネ自身が受け入れてくれるなら、な……」
彼女が、きょとんとした目で見つめ返してくる。
「それってどういう意味?」
「さあな」
肩をすくめつつ、妹の横を通り過ぎて窓辺に立つ。
空は徐々に黒雲に占領され、風も強くなってきた。
嵐は、近い。
[Charlotte]
さて、ここで舞台を、3日前の夜、ロサンゼルスにある『Ultrasonic』本社に移そう。
本館の地下、社長と一部の上級幹部や専門職の人間しか知らないエリアに、シャルロッテ・フォン・ヘルメスベルガーはいた。彼女こそ、『Athena』の1人、シャルロッテのオリジナルだが、アンドロイドのように眼帯は無い。彼女は、鋼鉄の身を得た敵、カロリーネに対抗すべく、そのさらなる敵である『Athena』を製造しているこの会社に、自分のアンドロイドの製造を頼んだのだが、逆に社内に幽閉されてしまった。社長自身が、ヘルメスベルガー家の宿敵、メンデルベルグ家の長男、ヴィーラントだったのだ。
つまりここは社内の地下牢。普段は社長室の隣の部屋に軟禁されている彼女にとっては、脱走に失敗した時にぶち込まれる懲罰房である。春先から初夏の終わり――この長い間脱走を考えなかった日は無く、今日も今日とて逃亡し、いつも通りこの殺風景な部屋に入れられたのだ。
今部屋にあるのは、最低限の生活道具や家具、本、そして彼女の宝物であるバイオリンだけ。夜更けにこのバイオリンの音色を奏でる、それが唯一の慰めだ。
時計の針が10時を指し、そろそろかな、と弦に松ヤニを塗っていると、
「……?」
隣の部屋と接している壁の向こうから、ガチャン、ガチャンと、金属が切れるような音がした。
音は、4回鳴ったら消え、何事も無かったように静寂に包まれた。
「気のせいかしら」
肩をすくめて、作業を再開した。
しかし、隣の部屋では、確実に異変が起こっていた。
そこは、鉄製の扉が二重になっている、特に厳重な、ある意味VIPルームだった。その2つ目の扉を抜けた先の景色は――赤かった。
床一面に、人間含めた無数の動物の無残な死体が転がり、おびただしい血液が乾燥して赤茶けていた。
その1番奥に、手足を鎖で繋がれた女がいた。30歳前後らしきアジア系の美女だが、その白い肌も、ぼろぼろになってしまっているが元々はきらびやかだったであろう古代の巫女装束も、鮮血でドロドロになってしまっている。
「……ヴィーラントも来ないし、『餌』も来ないし、暇だなぁ……」
ふと彼女は、退屈そうに呟いた。その手には、古墳から出土しそうな鉄剣があった。
「『餌』が無いなら、調達しないと……」
彼女は、おもむろに剣を鎖に振り下ろす。すると、合金製の鎖が、ガチャン、という音と共に、いとも簡単に断ち切られた。
左手・右手・左脚・右脚が、次々と自由になっていく。
女が、光の無い目を細めて、薄く笑った。
「さて、狩りを始めるか」
それから間もなく、シャルロッテも外の異変に気が付いた。
「何?外がやけに騒がしいわね……」
彼女が、鉄扉の上の方にある鉄格子がはめられた窓から様子を見ようとドアへ駆け寄ったその時、ドゴンッ、という鋭い轟音と共に、目の前の鉄扉が中央がへしゃげた状態で枠から解放され、彼女の顔面を直撃した。
そのまま意識が飛んだシャルロッテは見られなかったが、破壊された扉の向こうにいたのは、他でもない、あの鉄剣を持った巫女装束の女だった。
さらに廊下一面に、看守と思われる制服姿の男達の死体が折り重なっている。斬殺死体、そして剣に付着した血糊――犯人は誰の目にも明らかだ。
女は、扉の下敷きになる形で倒れているシャルロッテを見つけ、剣をその首に振り下ろそうとした、が、傍らにあるバイオリンを認めると、その手を止めた。
「ふーん、いつもの『子守唄』は、こいつのだったのか……」
巫女は彼女を尻目に、新たな獲物を探しに行った。
シャルロッテが目覚めたのは、それから間もなくのことだった。
まず彼女の目に飛び込んできたのは、扉の外れた出口であった。
(よく分からないけど……逃げるなら今しかない!!)
扉をはねのけて飛び起きると、廊下の血の海に目もくれず、むしろ看守が減って助かった、なんて不謹慎な事を考えつつ、自由を求めて走る。
しかし、騒ぎを聞き付けた看守や監視ロボットが、湧くように現われる。
「おい、01号室の女が逃げたぞ!!」
「00号の『あの方』もだ!!」
「まとめてひっ捕えろ!!『あの方』は絶対に確保しろ!!」
あっという間に、合わせて30程の看守とロボットに追われるハメになってしまった。
「なんでこんな事に……!」
シャルロッテは、苛立ちを露わにしつつも、死体から銃剣を拝借して、さらにスピードを上げる。だが、彼女の足も速いが追っ手はもっと速い。それでも銃剣で果敢に応戦し、逃げ続ける。
「武器持ちやがったぞ!ロボ使うか?」
「いや、ロボはあっちに回そう!こいつは俺達でいく!」
ロボットが、脇目も振らずに横道にそれていく。これでさらに追っ手が減った、と、逃亡者は密かに笑う。
――しかし、その油断が致命的だった。
最初に感じたのは、小さい噴射音。
その途端、脚がもつれて動かなくなり、ついには倒れてしまった。
這ってでも逃れようとするが、全身のしびれが襲いかかる。前に伸ばした手が後ろに回され、手錠がかけられる。
「麻酔噴射器来んの遅ぇよ!!」
「うるせぇ!こっちはオグナ様に見つかって大変だったんだぞ!なんとかまいたけど」
(……オグナって、確かリーダーよね?『Athena』の……。なんで閉じ込められてるの?)
意識がおぼろげになっていくシャルロッテの身が、看守の1人によって乱暴に起こされる。
「しっかしこいつも酷い女だよな。社長があんなに求婚しているのに、拒絶する上に逃げるとは……」
「敵だからか?傍から見りゃ、カロリーネ嫌いでお似合いだけどな」
事実、シャルロッテは、ヴィーラントからのプロポーズを、幾度となく蹴っていた。
考えれば当たり前の事だ。敵であり既婚者であり、なおかつ自分をここに押し込めている人間を愛せよ、という方が無茶な話だ。現に、いくら豪華な部屋を与えられようと、いくら美しいドレスを着せられようと、いくら高価な宝石をもらおうと、心は頑として動かなかった。度々脱出を図る理由の1つも、無言の拒絶であった。
ただ、拒むたびに見せる、彼の悲しそうな表情に、少し心を痛めているのも事実。
彼への本心は、彼女自身にさえ分からない。
「とりあえず、こいつは社長に突き出さねえとな」
「ま、何されようと自業自得だな」
シャルロッテも脱出を諦めようとした、その時であった。
「ぐげっ!」
彼女の首を押さえていた男が、奇声と共に、首から血を噴き出した。
しかしシャルロッテ自身は、背後の様子など知るよしも無い。ただ、首が解放される感触と、目の前に現れた返り血にまみれた巫女装束の女、彼女が手にした剣の血糊、そしてその足元に転がる、今まで自分を拘束していた男の生首だけが、全てを物語っていた。
先に反応したのは、看守らだった。
「うわあああああ!!化け物だあああああ!!!」
「オグナだ……!!ついに出やがった……!!!」
「逃げろ!!俺達が殺られるぞ!!」
彼らは、ガタガタ震えたかと思うと、脚をもつれさせながらも我先にと逃げだした。
シャルロッテはというと、魂が抜けたかのように膝をついてしまった。
巫女はそんな彼女を一瞥すると、何かを投げて寄越した。
「うおっ!!」
ずしりと重みを感じるものを受け取る――それと同時に気付いた。手錠が真っ二つに断ち切られている事に。
見るとそれは、猟奇的な類ではなく、シャルロッテ愛用のバイオリンだった。ちゃんと付属品も全てケースに閉まってある。
「忘れ物」
「あ、ありがとう……」
巫女は礼を言い終わる前に、走り去ってしまった。
残されたシャルロッテは、ケースを背負うなり、あと一歩まで迫っていた出口に向けて全速力で駆ける。追っ手は来ない。あの巫女が退散させたのだろうか。
そしてついに、出口に辿り着いた。やはり外の空気は気持ちが良い。
目の前にそびえる壁、この向こうには自由がある。
壁の有刺鉄線に投げ縄を引っ掛ける。それでも番犬一匹やって来ない。番人も来ない。
(いける!!)
そう確信したシャルロッテの脳裏をかすめたのは、愛する家族ではなく、ヴィーラントであった。
(どうしたのよ私!!あんな男なんてどうだっていいでしょう!?)
頭を振って幻影を払うと、縄を伝って壁を乗り越えた。地面に降り立った彼女を出迎えたのは、初めて訪れた昼とは別の顔を見せる、夜のロサンゼルスだった。街はネオンサインに照らされて明るく、人も多い。
(……ドナウエッシンゲンの町とは正反対だけど、こういうのもたまにはいいわね……)
シャルロッテは、胸を躍らせながら、人込みにかき消されていった。
一方の巫女――オグナも、胸を躍らせていた。
彼女はあろうことか、社長室に忍びこんで、『平和省』は『安全庁』がまとめたブラックリストに目を通していた。これには、『平和省』、ひいては『Ultrasonic』を脅かしうる人物の情報が収められている。
やがて彼女はあるページで手を止めた。
目を通していくにつれ、その表情が凶暴な笑顔に変わった。
「アッシュ・クロード……面白そうじゃない…………」
[Louisa]
ここで、舞台を再び、嵐近付く昼のナポリに戻す。
新市街の中心近くにある、その名もズバリナポリ新市街中央病院の産婦人科病室、この中の個室の1つに、30歳前後と思われる妊婦が入院していた。ルイーザ・ブレンターノ――先日ルートヴィヒらを監視していた元殺し屋だ。傍らでは、夫がパイプ椅子に座って、膨らんだ妻の腹をさすっている。
「予定日通りだったね、ルイーザ」
「ええ、そうね……」
彼女は、トロンとした目で夫を見つめる。
「……ちょっと喉乾いた?声枯れてるけど」
「少しね」
「何か買ってくるよ。何が良い?」
「甘いのがいいかな」
「うん、分かった。ちょっと待っててね」
彼は妻の頬に口づけすると、病室を出ていった。
1人残されたルイーザはどこか心細げだ。仕方ない。陣痛の時は皆そうなのだという。特に初産ならば。
そんな彼女の部屋の扉をノックする訪問者があった。
どうぞ、と促されて入って来た3人組は、見ず知らずの人間だった。長身の美青年と、逆に150cmくらいしか身長が無い渋い男、そしてそれに輪を掛けた仏頂面の美形といった個性的過ぎるメンツだが、皆黒スーツで身を固めている。
「ルイーザ・ブレンターノさん、でよろしいですか?」
長身の男が、優しく笑って切り出した。少なくともこの男の物腰は意外に柔らかい。元殺し屋の勘は、これはマフィアの類ではないと告げていた。
(ハハァン……。これは社長の言っていた『敵』だな?)
そうとなれば、対策も簡単だ。
「我々の用というのは他でもありません。ルートヴィヒ・カンナヴァーロとカルロ・アンドレッティの監視の件です」
3人は、思い思いにパイプ椅子を自分で広げて座る。
「誰に命令されていたか、ですか?」
「それと、目的、ですね」
小さい男が、独り言のように呟いた。
なぜそんな事を、と変に思いつつ、社長の命令通り正直に答える。
「依頼人は、ヴィーラント・フォン・メンデルベルグさんで、目的は……確か密談を聞かれた、とか……」
「なるほど……」
デカブツが考え込む中、チビが再びボソリと言う。
「ちなみにその男、昨日ケースのような物は持っていませんでしたか?」
急な話題に戸惑いながらも、なんとか昨日の記憶を絞り出そうとする。
「どんなケースですか?」
「こんな物です」
すると背の低い男は、手に持っていた明らかに病院に似つかわしくない無骨な黒いアタッシュケースを示した。
それを一目見て、ルイーザの記憶が呼び起こされる。
「確かに……社長の部下がそれっぽいものを持ってました。中身は知りませんが、とても重そうでした」
男3人は、困ったように顔を見合わせた。
「……なるほどね。どうする?」
やっと、仏頂面の男が口をきいた。
「過ぎた事はどうしようもない。まだ何ともなっていない部分をどうにかしなければならんだろう」
「奴らの今後の行動を止める方に集中しようか」
無愛想な美形が、ようやくルイーザに語りかけた。
「そいつ、標的について何か言ってなかったか?殺すだの確保するだの」
「そういえば……早急に身柄の確保をしなければ、と……」
「いつだ?」
「そこまでは何も行ってませんでした。ただ、その期日を言おうとした時に、部下が割り込んできて、その報告を聞いて焦って……もう警官の監視どころじゃない、とか言っていたんで……その報告よりは優先順位は低そうです。それが昨日ですから、実行するとしたら、今日か、もしくは明日か……」
3人は、再び顔を見合わせた。
「今日準備、だな。どこで張り込む?」
「この街の防犯カメラは精巧で監視範囲も広い。それを借りるか」
「そうだな。ハッキングは俺がやる。お前は、もし相手が車だったら、タイヤをやれ」
「分かった」
ルイーザは、そんな物騒な会話を、陣痛が激しくなり意識が朦朧とする中で聞いている。
(プロならこんな所で作戦をベラベラ話しちゃ駄目でしょ……)
少なくとも、見た目は馬鹿ではなさそうだ。とすると、これも作戦の一環なのか、よっぽど自信があるのか、あるいはヴィーラント達を試すつもりなのか。
もう少し聞いておきたかったが、もうすぐ夫が帰ってくるかもしれない。もし彼とこの3人が鉢合わせしてしまったら、気まずい事になってしまう。
「えっと……御用はもうお済みでしょうか……」
それを相手方も察知したのか、長身の青年がニコリとこちらに微笑みかけてきた。
「ええ。ご協力ありがとうございました。あ、これ名刺です」
「え?あ、どうも」
拍子抜けしてしまった。今から正体を探ろうとしていたのに。
なんだか新作のミステリー映画のネタばらしをされたような気分で名刺に目を通した彼女は――その文面を一目見るなり目を丸くした。
「あなた……ヘルメスベルガーの……!」
とある警察官を追うメンデルベルグ家。そしてそれを追うヘルメスベルガー家。
ルイーザは直感した。
(これは、大変な事に巻き込まれた……)
[Ludwig]
そんな事など露知らず、ルートヴィヒはいつも通りカルロと家路についていた。外は真っ暗で、雨足が強まっており、時々雷が鳴っている。
今日はとある誘拐事件を解決した事もあり、厳しい言い方をすれば、完全に油断していた。大雨に気を取られているのもあるだろう、早く帰りたい気持ちばかりが先走っていた。
しかし、この治安の悪い都市では、一瞬の油断さえも命取りとなる。
「もうズボンびしょびしょだよー。もー!」
「家に着いたら、雨が止むまでゆっくりしていっていいぞ。どうせなら泊まってもいいしな」
「今日は泊まりだな……」
2人が傘さえも意味を無くす程の豪雨に視界を遮られながら歩いていると、前からスーツ姿の男達5人が向かってくるのがうっすら見えた。
「うわ、あの人ら傘差してないぞ?大丈夫か?」
「突然降ってきたんだ、仕方ない」
対して気にせずそのまま歩を進めていると――男の1人が、突然カルロの鳩尾に鉄拳をめり込ませた。
「うぐっ……!」
「カルロ!?」
腹を押さえて膝をついてしまった親友に駆け寄ろうとしたルートヴィヒだったが、その身を別の男達が3人がかりで組み伏せた。抵抗する間も与えられず、手足を拘束され、目隠しを付けられ、猿轡を噛まされる。
「お前ら!ルッツに何するんだ!!」
カルロは、彼を助けようと立ち上がるが、残る2人に殴られ、蹴られ、踏みつけられ、倒れこんでしまった。
その間にもルートヴィヒは、男達に乱暴に、脇に停めてあった黒塗りのベンツのトランクに放り込まれる。
「おい、そいつは放っておけ。行くぞ」
車に乗り込んだ3人の中のリーダー格らしき人間に制止され、残る2人は、カルロの脇腹にとどめの蹴りを入れて車に戻る。
カルロは、ピクリとも動かない。
黒塗りのベンツは無情にもルートヴィヒを乗せて走りだし、夜の闇に紛れた。
ルートヴィヒは身動き一つ出来ず、ただ、エンジン音と凄まじい雨音と雷鳴を聞いていた。
首から提げた十字架が肌に触れると、なぜか心が落ち着いた。彼にとっては、幼少期から身につけているこれが最も強力な精神安定剤の1つなのだ。
緊張がほぐれると、どうしてなのか、睡魔が襲ってきた。
無理に起きても仕方がない、と、半ば諦めて瞼が重くなるのに任せようとした、その時だった。
雷鳴に混じって銃声が響いた。
同時にパンク音が轟いたと思うと、車はキキキと音を立てて蛇行し、すぐさま急停止した。
「くそ!パンクしやがった!!」
「どうする?籠城するか?」
「待て、替えのタイヤが……」
再び銃声がすると同時に、言葉が途切れた。代わりに叫び声や怒号がトランクまで聞こえてきた。
「野郎!運転手を真っ先に殺りやがった!!」
「車出て狙撃手探すか?」
「いや――」
再び銃声。
「くっそ!全然見えねえ!!」
「どこだ!?」
「こうなったら絨毯攻撃しかねえな!!」
ドガガガガ……と機関銃の乱射音が耳をつん裂く。
「これで大丈夫……」
しかし姿なき敵は、さらに上を行っていた。
最初に感じたのは、爆音、そして衝撃だった。
驚く間もなく、灼熱の風が襲いかかる。爆弾だ。
ルートヴィヒは声も出せず、凍りついてしまった。
するとすぐに、トランクを開ける音がした。
「生きているぞ」
「もし死んだらどうするつもりだったんだ?」
「考えてなかった……」
そんな場違いな脱力的会話を平気で繰り広げる謎の人間達に身を起こされたルートヴィヒは、拘束を全て解かれ、燃え盛る単なる鉄くずと化したベンツから救出された。
1番長身の美青年に肩を借りて見上げると、そこには、スーツ姿の若者3人がいた。
唖然とする彼に、仏頂面の美男子が深々と礼をした。
「お迎えに参りました、ルートヴィヒ様……」
「え……」
さらに固まる彼に、1番背の低い渋い男が、ニコリともせずにボソリと言う。
「今度は我々に同行していただきます」
口をパクパクさせていたルートヴィヒが、ようやく声を絞り出す。
「な、何なんだ貴様ら!」
すると長身の青年が優しく笑って、胸のブローチに手を当てた。
「貴方の『古巣』からの使者ですよ、若様――」
そのブローチを何となく見て、息を呑んだ。
そこには、蝶の紋章が刻まれていた。
[Caroline]
同じ頃、カロリーネはクララを捜していた。アッシュに「料理が出来たから呼んできて」と言われたのだ。しかし彼女には自室は無いため、空き部屋をランダムに使っている。そのせいで、捜すのも一苦労だ。
しかも、どの部屋を捜してもいない。
「困ったなぁ……」
立ち往生していると、携帯電話に着信が。クララからだ。
「もしもしー、お姉様ー、ご飯出来たよー」
その返事は、どこか生気が無かった。
『……リーネ、ちょっと玄関前の広場に来てくれないか?』
カロリーネが、不審そうに眉間にしわ寄せる。
「ご飯だよ?」
『分かってる。すぐ用は済むから、とにかく来てくれ』
「え、ちょっ……」
通信は、途中でブチ切られてしまった。
「どうしたんだ?」
とにかく行かないことには何も始まらない。急いで、言われた場所に向かう。
姉は、玄関前でぼんやりと雨降る空を見上げていた。
「どうしたのよお姉様!そんなぼーっとして!」
彼女は、虚ろな表情で振り返った。
「リーネ……突然だが、ここでお別れだ……」
カロリーネが、凍りついた。
「え……。う、嘘でしょ?何冗談言ってるの?」
引きつった笑いを顔に貼り付ける妹に、姉は悲しげに微笑みかける。
「残念だが、冗談ではない。どうやら、私とリーネは、時が流れる中で相容れない者となってしまったようだ……」
「何……何なの……?」
ボロボロ涙を流すカロリーネに何か言おうとしたクララの言葉が、プロペラ音に遮られる。
グウェンの爆撃機か?と上空を見上げると、そこには小型ヘリの白い影があった。
その機体に小さく描かれた蝶の紋章を一目見るなり、カロリーネはぎょっとして顔面蒼白になった。
「ヘルメスベルガー家……!?」
そこにあったのは、姉妹の宿敵が所有するヘリコプターだった。
当然カロリーネは警戒して太刀の柄に手を掛ける。一方のクララは複雑な面持ちでたたずんでいる。
「クララ様、どうぞこちらへ――」
「ありがとう……」
「え……?」
妹が絶句する中、ヘリコプターから降りてきた女性に手を取られ、クララは機体に向かう。
その首に、カロリーネは抱きつくのではなく、抜き身の刀を突き付けた。
「裏切ったのね……!お姉様……!!」
「裏切ったとは人聞きの悪い」
女性がやんわりと刀を取り払ってクララの盾のように進み出た。
「この方は、東西戦争直後より決められた次期当主、クリストフ様の婚約者であり、数日後には正式にヘルメスベルガー夫人となる方でございます」
「嘘……!!」
ショックで呆然としてしまった妹に、姉は沈んだ顔で右手を差し出した。
「お前を悲しませるためじゃない。二家の和解のためなんだ。クリストフも私もそれを望んでいる。だから、どうか分かってほしい。そして協力してほしい。二家の争いを終わらせるために――」
「お断りよ!!!」
カロリーネは、差し出された手を乱暴に払い除け、姉に太刀の切っ先を突き付けた。
「私の家を散々に痛めつけて、滅ぼして、私の人生をめちゃくちゃにしておいて、今さら仲良くしましょう!?虫がいいにも程があるわ!!」
稲光が閃き、雷鳴が轟く。
「私は、絶対にお前達一族をブッ潰す!!邪魔する者は、例えお姉様でも許さない!!……そうあんたの当主様に伝えなさい。それに腹立てて私を倒そうっていうなら、いつでも相手になってやるわ!」
その剣幕に圧されてか、女性がクララを庇うようにして一歩下がる。
「……か、畏まりました。当主様にお伝えしましょう」
「……ふん」
カロリーネは刀を納め、背を向けてしまった。
「…………」
「さぁ、参りましょう」
「ええ……」
クララは、何度も妹を振り返りながらも、ヘリコプターに乗り込んだ。
白い機体は上空に舞い上がり、プロペラ音は徐々に遠くなり、やがては雨音と雷鳴にかき消されていった。
カロリーネは、黒雲立ち込める空をぼんやりと見上げ、雨で頬を濡らしていた。
やっと終わったぜ!何この超展開。我ながら脈絡無さ過ぎる!
さて、次の章からは、結構濃厚な仕様になる予定ですので、やっぱり長くなると思います。
あと2、3章で終わらせる見込み。




