第二話 速いコードと、遅い朝
第二話 速いコードと、遅い朝
午前九時四十七分。
ブランディング・東京株式会社の情報システム部で、森野ジュンコは三台目のモニターを起動していた。
「琴野先輩」
「なに?」
「この会社の社内システム、ずいぶん複雑ですね」
琴野ソノコは、マグカップを口元で止めた。
「入社して三十七分で、それを言う?」
「三十七分もあれば、構造くらい分かります」
「じゃあ、三十八分目には、社員全員の昼食の好みまで分かるのかしら」
「それはデータがあれば」
「……あら、嫌な新人」
ジュンコは涼しい顔でキーボードを叩いた。
「冗談ですよ、先輩」
「その顔で言われても、冗談に聞こえないのよ」
ソノコは椅子を回し、ジュンコの画面をのぞいた。
画面には、社内の広告案件管理システムから取得したデータを集計するコードが表示されていた。
「それ、何をしてるの?」
「案件一覧の処理速度を測っています。古い処理がボトルネックになっているので、書き直せば改善できます」
「勝手に本番データを使ってないでしょうね?」
「読み取りだけです」
「それは答えになってないわ。許可は取ったの?」
ジュンコの指が止まった。
「……まだです」
「じゃあ、止めて」
「でも、読み取りだけですよ?」
「読み取りだけでも、負荷はかかるの。広告の入稿締め切り直前にシステムが重くなったら、誰が謝ると思う?」
「情報システム部です」
「正解。で、誰が怒られると思う?」
「情報システム部です」
「よくできました」
ソノコは満足そうにうなずいた。
ジュンコは、少しだけ唇を尖らせた。
「でも、遅いシステムを放置するのも、問題ですよね」
「そうね」
「なら、改善すべきです」
「そうね」
「……反対しないんですか?」
「改善には賛成。でも、あなたのやり方には、まだ賛成してないの」
ソノコは自分の机から、薄いファイルを取り出した。
中には、過去三か月分の障害記録が挟まっていた。
「この会社はね、去年、広告案件の集計処理が暴走して、営業部のシステムを二時間止めたの」
「二時間?」
「その間に、取引先への提案書が出せなくなった。原因は、処理が遅かったことじゃない。データ量が増えたときの挙動を、誰も確認していなかったこと」
ジュンコは記録に目を落とした。
「……なるほど」
「分かった?」
「はい。だから、もっと速い言語で書き直すべきです」
「なんでそうなるのよ!」
情報システム部に、ソノコの声が響いた。
そのときだった。
ピロン。
二人のモニターに、同時に警告が表示された。
**【警告】広告案件管理システム:通常と異なるアクセスを検知**
ジュンコの表情が変わった。
「これは……」
ソノコはすでに椅子を回し、管理画面を開いていた。
「森野さん、さっきの処理は?」
「止めました。実行していません」
「よし」
ソノコはアクセスログを表示した。
見慣れない接続元。短時間に繰り返される認証要求。普段の業務では見られないアクセスの集中。
ジュンコが身を乗り出した。
「自動化されたアクセスかもしれません」
「可能性はある。でも、まだ攻撃とは決めつけない」
「認証要求が、こんな頻度で?」
「だから調べるの。まず、何が起きたかを確認する」
ソノコは時刻を記録し、関連ログの保全を始めた。
ジュンコは別の画面で、アクセスの間隔と失敗率を分析し始める。
二人の指が、それぞれのキーボードの上を走った。
しばらくして、ジュンコが声を上げた。
「琴野先輩。このパターン、人間が手作業で試しているとは考えにくいです」
「私もそう思う」
「AIを使った自動化の可能性があります」
「可能性ね。断定はしない」
「分かっています」
ジュンコは一瞬だけ、ソノコを見た。
「……先輩、こういうときは、ずいぶん判断が速いんですね」
「そりゃそうよ」
ソノコは画面から目を離さなかった。
「速いコードを書くのと、事故を起こさずにシステムを動かすのは、別の仕事だから」
「私は、コードなら誰にも負けません」
「いいじゃない」
「先輩は、私の技術を疑っているんですか?」
「いいえ」
ソノコは、初めてジュンコの目を見た。
「あなたが、まだ知らないことがあると思っているだけ」
その言葉に、ジュンコは何も返さなかった。
警告は、まだ消えていない。
そして、アクセスの間隔は、さらに短くなっていた。
午前十時二分。
ブランディング・東京株式会社の情報システム部は、ようやく気づき始めていた。
今日の仕事は、新人教育だけでは済みそうにない。




