第20話 修学旅行⑥
部屋に戻ると、スーツケースがきちんと壁際に並べられていた。
かすみが自分の荷物を閉めながら振り向く。
「ちゃんと忘れ物ない?」
「たぶん大丈夫」
ベッドの上を一応確認する。
枕元、机の下、浴室。
――問題なし。
桜はというと。
「ねえ葵ちゃん! このお土産どうやって入れたらいいと思う!?」
スーツケースを前に正座しながら格闘している。
「……それ昨日もっと余裕あったよね?」
「気のせい!」
明らかにお菓子の箱が増えている。
「ちょっと貸して」
ため息をつきながら近づき、荷物を組み直す。
空いた隙間に箱を縦に入れ、衣類で固定。
「ほら、これで閉まる」
「すごい!」
ぱちん、と無事に鍵が閉まる。
「葵ちゃん将来旅行会社で働けるよ!」
「働かない」
「即答だ!」
そんなやり取りをしているうちに、廊下から先生の声が響いた。
「各部屋、荷物持ってロビー集合!」
「はーい!」
スーツケースを引きながら廊下へ出る。
キャスターの音が一斉に鳴り、修学旅行の“終わり”を感じさせる。
⸻
ロビーに全員集合。
人数確認が終わると、バスへと移動する。
外の空気は昨日より少しだけ暖かい。
「もう帰るんだね」
桜がぽつりと言う。
「早かったね」
「まだ帰りたくないなぁ」
少しだけ寂しそうな横顔。
「また来ればいいよ」
自然にそう言うと、桜はぱっと笑った。
「じゃあ次も葵ちゃんと!」
「……予定が合えばね」
バスに乗り込み、席に座る。
エンジンがかかり、ゆっくりとホテルを離れる。
窓の外に流れる京都の街並み。
昨日歩いた道。
遠くに見える山並み。
朝日に照らされた屋根瓦。
(静かだ)
昨夜の異質な気配は、今は感じない。
まるで何もなかったかのように。
だが。
胸の奥の二色は、完全には沈んでいない。
微かに、警戒の色を残したまま。
「葵ちゃん、見て!」
桜が窓を指さす。
「五重塔!」
「あ、本当だ」
視線を外へ向ける。
修学旅行の最後の景色。
バスは、空港へと続く道を走り続けた。
————
やがてバスは、高速道路へと入る。
車内は最初こそ賑やかだったが、揺れの心地よさに負けたのか、次第に静かになっていった。
前の席では男子三人が小声で昨日の写真を見せ合っている。
後ろではかすみがイヤホンを片耳だけつけて、窓の外を眺めていた。
桜はというと。
「……ちょっとだけ寝る」
そう言って、こくりと頷いた直後。
こてん。
肩に重みがかかる。
「……」
寝るの早いな。
小さく息を吐きながら、そっと姿勢を整える。
起こさないように。
窓の外の景色が流れていく。
山が遠ざかり、建物が増え、やがて空港が近づいてくる。
大きな滑走路が見えた瞬間、誰かが声を上げた。
「見えた!」
「空港だ!」
ざわり、と車内の空気が再び明るくなる。
桜も目を覚ました。
「……着いた?」
「うん、もうすぐ」
「はや……」
まだ少し眠たそうだ。
バスは空港のロータリーに入り、ゆっくりと停車する。
ドアが開き、外の空気が流れ込んできた。
広い空。
行き交う人々。
遠くで響くアナウンス。
「荷物忘れないように!」
先生の声が飛ぶ。
スーツケースを引きながら、ターミナルへと歩く。
大きなガラス張りの建物の中は、旅行客で賑わっていた。
チェックインを済ませ、手荷物検査を通過。
ベルトコンベアにバッグを置き、金属探知機をくぐる。
問題なし。
搭乗口付近の椅子に座ると、ちょうど昼食の時間だった。
空港内のフードコート。
うどん、丼もの、ハンバーガー。
「何にする?」
桜がメニューを覗き込む。
「軽めにしとく。飛行機乗るし」
「えー、私はがっつり!」
結局、桜は唐揚げ丼。
俺はきつねうどん。
向かい合って座る。
「帰ったらテスト時期だね」
ぽつり—。
「やめて」
即座に桜が顔をしかめる。
笑いが起きる。
そんな何気ない時間。
やがて、搭乗開始のアナウンスが流れた。
「いよいよだね」
桜が立ち上がる。
列に並び、搭乗券を提示する。
通路を進み、機内へ。
独特の匂い。
静かな空調音。
自分の座席を探し、荷物を上の棚へ。
窓側。
シートベルトを締める。
隣にいる桜が聞いてくる。
「葵ちゃん、飛行機大丈夫?」
「...大丈夫」
たぶん。
やがてドアが閉まり、機体がゆっくりと動き出す。
滑走路へ向かう。
エンジン音が徐々に高まる。
加速。
身体がシートに押しつけられる感覚。
そして——
ふわり。
地面が、離れる。
街が小さくなっていく。
建物も、道路も、川も。
全部が模型みたいに遠ざかる。
「……本当に帰るんだ」
桜が小さく呟く。
白い雲の層へと機体が入る。
光に包まれ、世界が一瞬だけ真っ白になる。
その向こうは、澄んだ青空。
静かな空の上。
修学旅行は、終わりへ向かって進んでいく。
俺は小さく息を吐き、窓の外を見つめた。
⸻
手荷物受取所で、ターンテーブルがゆっくりと回り始める。
黒や赤のスーツケースが次々と流れてくる。
「これ葵ちゃんのじゃない?」
「違う。似てるだけ」
同じような形ばかりで紛らわしい。
やがて見慣れた色のケースが視界に入る。
「あれ」
タイミングを見て持ち上げる。
少し重い。
「お土産のせいだね」
横から桜がにやにやする。
「誰のせい?」
⸻
「……私です」
観念したように桜が肩をすくめる。
そう、桜は既にお土産が沢山あるのにも関わらず、空港で衝動的に買ったのだ。
八ツ橋の箱。
抹茶クッキー。
限定キーホルダー。
当然、キャリーケースに入るはずもなく。
「入らない……」
と半泣きになり。
結局、俺のキャリーケースに収まることになったのだ。
「ほんとごめんね?」
「次からは計画的に」
「はーい……たぶん」
たぶんは信用ならない。
全員が荷物を受け取ると、先生の指示で出口付近に集合する。
「これで修学旅行全日程終了です」
周囲がすっと静まる。
「家に帰るまでが修学旅行です。気を抜かないように」
聞き慣れた台詞に、あちこちから小さな笑いが起きる。
「二日間、お疲れさまでした」
拍手が広がる。
それは大きくはないけれど、確かにこの時間の終わりを告げる音だった。
⸻
空港の外に出ると、見慣れた空気が肌に触れる。
京都とは違う、少しだけ乾いた風。
「帰ってきたって感じするね」
桜が空を見上げる。
「そうだね」
この後はバスで学校へ戻り、到着次第各自帰宅となる。
それぞれの方向へ散っていく前の、最後のまとまった移動。
学校行きのバスに乗り込む。
もちろん隣には桜。
スーツケースを足元に置き、窓の外を見る。
見慣れた街並み。
コンビニ。
信号機。
住宅街。
日常が、ゆっくりと戻ってくる。
「なんかさ」
桜が小さく言う。
「うん?」
「ちょっと寂しい」
「終わっちゃったから?」
「それもあるけど……またみんなで泊まったりできないのかなって」
声が、ほんの少しだけ弱い。
「できるよ」
自然に口から出た。
「機会があれば、また」
「ほんと?」
「うん」
未来の保証なんてない。
でも。
今ここで否定する理由もない。
桜は満足そうに笑った。
「じゃあ次はもっといっぱい写真撮ろ!」
「お土産の量も気をつけないとね」
「そこ気にしすぎ!」
くすくすと笑い合う。
バスはやがて学校へと滑り込んだ。
⸻
学校に着く。
見慣れた校門。
グラウンド。
昇降口。
エンジンが止まり、扉が開く。
「忘れ物ないように!」
先生の声を背に、バスを降りる。
そのとき、視界の端に見慣れた姿が映った。
校門前。
両親が立っている。
桜がそれに気づき、にこっと笑う。
「じゃあまた学校で!」
「うん、またね」
手を振る。
桜の姿が人混みの中へ消えていく。
その背中を見送ってから、俺は両親のもとへ歩いた。
「おかえり、葵」
「楽しかったかい?」
優しい声。
少しだけ、胸があたたかくなる。
「うん」
自然と出た言葉だった。
嘘じゃない。
確かに、楽しかった。
非日常も。
仲間との時間も。
そして——
まだ終わっていない何かの予感も。
夕方の光が校門を染める。
初めての修学旅行は終わりを迎えた。




