第19話 修学旅行⑤
修学旅行二日目の朝は、桜の声で始まった。
「葵ちゃーん!!」
「起きてー!!」
「朝だよー!!」
まぶたの裏に、白い光がじわりと滲む。
「……あと五分」
頼む。もう少しだけ。
昨日は、本当にいろいろあったんだ。
体よりも、神経が疲れている。
「だーめ!」
「早く起きてー!!」
「んー……」
布団を頭まで引き上げる。
起きないという、ささやかな抵抗。
だが。
「早く起きてー!!」
ハイテンションな桜には、まったく通用しなかった。
ばさっ、と布団を剥がされる。
朝日が容赦なく差し込んできた。
「まぶし……」
観念して、ゆっくりと身を起こす。
「……おはよう、桜」
「おはよう!!」
満面の笑み。
どうして朝からそんなに元気なんだ。
「今日は一段と元気だね」
「もちろん!!」
胸を張る。
「起きてすぐ葵ちゃんと遊べるんだもん!」
「……全く、桜は」
呆れたように言いながらも、悪い気はしない。
むしろ、少しだけ救われる。
「かすみと他の子は?」
「ん? もうみんなご飯食べに行ってるよ」
「えっ?」
反射的に時計を見る。
針は、九時を指していた。
「……少し寝すぎたか」
夜のことを思い出す。
外へ出たこと。
あの淀んだ気配。
鎮めた後の、わずかな疲労。
(そりゃあ、起きられないか)
「私は葵ちゃんの寝顔見れて幸せだったけど!」
「なんだそれ……」
意味が分からない。
だが、桜は本気で言っている顔だ。
「まぁ、いいや」
「確か朝食はバイキング形式で、各自で食べるんでしょ?」
「そう!」
こくこくと頷く。
「まだ時間あるから、一緒に食べにいこ!」
「わかったから、少し待ってて」
ベッドから降り、洗面所へ向かう。
冷たい水で顔を洗う。
一気に意識がはっきりする。
鏡に映る自分。
寝癖が少し跳ねている。
櫛で整えながら、ふと苦笑する。
(らしくないな)
前世では——
血にまみれたまま、人前に立つこともあった。
身だしなみよりも、生き残ることが優先だった。
それが今は。
寝癖を気にして、制服の襟を整えている。
皮肉なものだ。
けれど。
嫌ではない。
むしろ、こういう時間を守りたかったのかもしれない。
制服を着替え終えた頃、背後から声が飛んできた。
「葵ちゃーん!!」
「早く! ご飯!」
痺れを切らしたらしい。
「わかった、わかった」
「今行く」
ドアを開けると、桜が腕を組んで待っていた。
「遅い!」
「五分も経ってない」
「体感十分!」
「主観が強すぎる」
軽く笑い合いながら、廊下へ出る。
朝のホテルは、昨日の夜とはまるで違う。
明るく、ざわめきがあり、生活の音がする。
エレベーターの前で、桜がふと横を見る。
「葵ちゃん、なんか眠そう」
「少しだけ」
「昨日夜更かしした?」
一瞬だけ、間が空く。
「……考えごとしてただけ」
嘘ではない。
全部を言っていないだけだ。
「ふーん?」
桜はじっとこちらを見つめるが、それ以上は追及しなかった。
やがて扉が開く。
朝食会場へ向かう。
二日目が、始まる。
京都の空気は、昨日より少し澄んでいる気がした。
⸻
朝食会場の扉が開いた瞬間、ふわりと温かな匂いが流れ込んできた。
焼きたてのパンの香ばしさ。
出汁のやさしい香り。
湯気の立つスープ。
ざわざわとした話し声と、食器の触れ合う音が混ざり合う。
窓から差し込む朝日が、白いテーブルクロスをやわらかく照らしている。
グラスに注がれたオレンジジュースがきらりと光った。
「うわぁ……!」
隣で、桜が小さく息を呑む。
「すごいよ葵ちゃん! いっぱいある!」
目を輝かせたまま、料理台へ駆け出しそうな勢いだ。
長いテーブルに並ぶ料理の数々。
スクランブルエッグにベーコン。
ウインナー、サラダ、ヨーグルト。
和食コーナーには焼き魚、だし巻き卵、煮物。
湯気を立てる味噌汁の鍋の前では、数人が列を作っている。
「食べられる量だけね」
「えー? だって全部美味しそうなんだもん!」
桜はもうトングを握りしめている。
少し背伸びしながらパンを取る姿に、思わず苦笑が漏れた。
俺もトレイを手に取る。
焼き魚を一切れ。
少なめの白米。
味噌汁。
サラダを少し。
必要十分。
桜は——
「パン三つ! あ、クロワッサンも!」
「え、それ四つ目じゃない?」
「えっ」
「ウインナーも結構多いよ?」
「いいの!」
満面の笑み。
その無邪気さに、もう何も言えなくなる。
席を見つけて向かうと、すでにかすみたちが手を振っていた。
「おはよう、葵ちゃん」
「おはよう」
椅子を引いて座る。
「寝坊してたよね?」
「……ちょっとだけ」
視線を逸らしつつ答えると、かすみがくすっと笑う。
「桜がずっと見張ってたよ?」
「見張ってないよ!? 見守ってただけ!」
「言い方の問題じゃないと思うけど」
思わず小さく突っ込むと、また笑いが広がる。
味噌汁を一口。
やわらかな湯気が頬を撫でる。
出汁の旨みが、じんわりと身体に染みていく。
昨夜のわずかな緊張が、少しだけほどける。
「……美味しい」
ぽつりと漏らす。
桜がすぐ反応する。
「でしょ!? 私のパンも一口いる?」
「ううん、大丈夫」
「即答!?」
「お腹いっぱいになる前に後悔するよ?」
「ならないもん!」
朝の会話は他愛もなくて、温かい。
皿の上の料理が少しずつ減っていく。
時間はあっという間に過ぎていった。
⸻
食後。
クラス全員でホテルの広場へ移動する。
外に出ると、ひんやりとした朝の空気が頬に触れた。
建物の壁を照らす光が、石畳を淡く輝かせている。
観光客の姿もちらほら見える。
クラスごとに整列。
まだ少し眠たそうな顔。
朝から元気に話しているグループ。
その前に、先生が立つ。
「はい、静かにー」
ざわめきがゆっくりと落ち着いていく。
「本日の予定を確認します」
先生がプリントを見ながら説明する。
今日は午前中に、バスで空港に向かう。
その後、空港で昼食。
十四時には飛行機の中。
「時間厳守でお願いします」
周囲から「はーい」と気の抜けた返事が返る。
「体調不良の人はいませんか?」
数秒の沈黙。
誰も手を挙げない。
少しだけ安心したように先生が頷く。
「よし。では安全第一で行動すること。無理はしないように」
朝の会は簡潔に終わった。
ざわ、と列が崩れる。
その瞬間、胸の奥がわずかに揺れる。
(……まだ、遠い)
昨夜の気配。
今は感じない。
だが、完全に消えたわけでもない。
ほんの微かに、街の奥に沈んでいる。
「葵ちゃん!」
思考が現実に引き戻される。
桜が袖を軽く引いた。
「早く部屋に戻ろ!」
「うん、そうだね」
自然な声で答える。
今は——修学旅行の最終日。
石畳を踏みしめながら、ホテルの入口へ向かった。
朝の光が、背中を静かに照らしていた。




