第15話 修学旅行①
空港まではバスで向かうことになっている。
校庭に停まっていた大型バスは、いつもより少し特別に見えた。
フロントガラスに貼られた「修学旅行」の紙が貼られている。
出発式と朝の会が終わると、先生の指示により順番に乗り込んでいく。
「葵ちゃん!隣いい?」
「もう座る気でしょ」
「うん」
桜は当然のように葵の隣に腰を下ろした。
バスがゆっくりと動き出す。
窓の外で、先生たちや保護者の姿が小さくなっていく。
その中に、父と母の姿も見えた。
父がやたら大きく手を振っている。
……目立つ。
「手振らなくていいの?」
桜が肘でつつく。
「もう振った」
そう言いながらも、ほんの少しだけ窓に手を上げた。
バスが角を曲がると、家族の姿は見えなくなった。
胸の奥が、少しだけ静かになる。
背もたれに身体を任せると車内はすでににぎやかだった。
桜も同様。
「葵ちゃん!」
「お菓子持ってきたから一緒に食べよ!」
「まだバス乗ったばっかだよ?」
「はやくない?」
「いーの!いーの!」
「ね?食べよ!」
桜の勢いに負け、俺も周りの熱に浮かされる。
「まぁ、いいか」
小袋を開ける音が重なる。
甘い匂いが広がる。
窓の外の景色はどんどん流れていくのに、車内だけは時間が早送りみたいに騒がしい。
笑い声、写真を撮るシャッター音、誰かの「まだ着かないのー?」という声。
その全部が、今日が特別な日だと教えていた。
やがてバスは減速し、大きな建物の前で止まった。
胸が、ひとつ強く鳴る。
—————
——空港
「葵ちゃん!空港見えたよ!」
桜が窓に張りつく。
「……うん」
自分でも分かるくらい、声が低い。
「……? どうしたの?」
「いや……」
視線の先。
ガラス越しに見える白い機体。
大きい。
想像以上に。
「……もしかして飛行機怖い?」
図星だった。
「鉄の塊が空を飛ぶとか……」
無意識に理屈が口をつく。
「それに身を任せる神経が分からない」
桜がじっと見ている。
「私だったら桜も安全に連れてけるのに……」
ぽろっと本音が漏れる。
自分で飛べるのに。
自分なら守れるのに。
なのに今は、ただ乗るしかない。
「ちょっと!葵ちゃん!」
桜が両手で俺の頬を挟む。
「目にハイライトないよ!」
「っあ、あぁ、ごめん」
現実に引き戻される。
桜はふっと笑った。
「大丈夫だよ!」
力強い声。
「飛行機乗る時、手繋いであげる!」
子どもみたいな宣言。
だけど、その言葉が思った以上に救いだった。
バスのドアが開く。
先生の声が響く。
「忘れ物ないかー? 順番に降りろー!」
立ち上がると、足が少しだけ重い。
それでも。
桜が先に降り、振り返る。
「ほら、行こ」
手を差し出してくる。
一瞬迷って、そして——
そっと、その手を取った。
空港の自動ドアが開く。
冷たい空気と、独特の匂い。
高い天井。
行き交う人。
そして、ガラス越しに見える巨大な飛行機。
心臓が、また大きく鳴る。
それでも。
隣のぬくもりは、ちゃんとある。
「……離陸のときだけだからね」
小さく呟くと、
桜はにやっと笑った。
「うん。怖くなったら、ずっと繋いでてあげる」
その笑顔を見て、
ほんの少しだけ、恐怖の輪郭がぼやけた。
先生の指示に従い、列になって空港の中へ入る。
床はつやつやしていて、足音がやけに響く。
周囲には旅行客らしい人たちが行き交い、キャリーケースの車輪の音が絶えず聞こえていた。
「うわぁ……広……」
桜がきょろきょろと見回す。
その横で、葵はガラス越しの滑走路から目を離せなかった。
ゆっくりと移動する飛行機。
あの巨体が、空へ上がる。
胸がざわつく。
「葵ちゃん?」
「……見てるだけで心臓に悪い」
「まだ乗ってもないのに?」
「だから怖いんだよ」
桜がくすっと笑う。
チェックインを済ませ、手荷物検査へ進む。
カゴに荷物を入れ、ベルトコンベアへ。
金属探知機のゲートをくぐる瞬間、なぜか変に緊張する。
——ピッ
鳴らない。
「セーフ」
「何と戦ってるの?」
「自分」
桜は楽しそうだ。
搭乗口前の椅子に座る。
大きな窓の向こうに、これから乗る機体が止まっている。
近くで見ると、本当に大きい。
「……あれが飛ぶの?」
「飛ぶよ」
「本当に?」
「うん」
即答だった。
桜は立ち上がると、窓際まで歩いていく。
「ほら見て、翼。あれで浮くんだよ」
「理屈は分かる」
「じゃあ大丈夫」
「理屈と感情は別」
桜は少しだけ真面目な顔になった。
そして、葵の隣に戻ってくる。
「怖くなったらさ」
「うん」
「目、閉じてていいよ」
「それはそれで怖い」
「じゃあ、わたし見てな」
一瞬、意味が分からず桜を見る。
「わたし見てたら怖くないでしょ?」
自信満々に言う。
思わず小さく笑ってしまう。
「……そうかも」
搭乗アナウンスが流れる。
「〇〇便、ご搭乗を開始いたします——」
その声だけで、心臓が跳ねた。
「来たね」
桜が立ち上がる。
列がゆっくり進む。
ボーディングブリッジへ足を踏み入れた瞬間、外の機体がすぐ横に見えた。
近い。
白い胴体が視界いっぱいに広がる。
「でか……」
思わず呟く。
「でしょー?」
桜は楽しそうだ。
機内の入口。
客室乗務員の穏やかな声。
「いってらっしゃいませ」
一歩、中へ入る。
独特の匂い。
少しひんやりした空気。
細い通路を進み、自分たちの座席を探す。
「ここだ」
桜が窓側を指す。
「え、わたし?」
「初飛行でしょ?」
「だからって」
「景色見た方が楽しいよ」
半ば押される形で窓側に座る。
シートに身体を沈める。
シートベルトを引き寄せ、カチリと音が鳴る。
その音がやけに重く感じた。
隣に桜が座る。
「手」
差し出される。
少しだけ迷ってから、そっと握る。
温かい。
エンジン音が低く響き始める。
機体がゆっくり動き出す。
胸の奥が強く鳴る。
「葵ちゃん」
「……なに」
「大丈夫だよ」
その一言が、静かに心へ落ちた。
滑走路へ向かって進む機体。
窓の外の景色が、ゆっくりと流れていく。
葵は、桜の手を少しだけ強く握り返した。
いよいよ——離陸だ。
機体はゆっくりと滑走路へ向かう。
窓の外を、空港の建物が静かに後ろへ流れていく。
「もうすぐだね」
桜が小さく言う。
「……うん」
短い返事。
手は、まだ繋いだまま。
滑走路で一度止まる。
低く、重いエンジン音が機体の奥から響いてくる。
胸の鼓動と、音が重なる。
次の瞬間——
ぐっと身体がシートに押しつけられた。
「っ……!」
加速。
景色が一気に流れ出す。
建物が、地面が、線みたいに後ろへ消えていく。
速い。
思ったより、ずっと。
桜の手を強く握る。
「大丈夫、大丈夫」
隣から声がする。
そして——
ふわり。
一瞬、身体が軽くなる。
振動が変わる。
地面の感触が、消えた。
「……え」
思わず窓を見る。
滑走路が、遠ざかっている。
建物が小さくなる。
道路が、ミニチュアみたいに見える。
飛んでる。
本当に。
鉄の塊が、空を。
「……飛んだ」
呆然と呟く。
胸の奥にあった重たい塊が、少しずつ溶けていく。
怖いよりも先に、
「……すご」
その言葉が出た。
桜が嬉しそうに笑う。
「でしょ?」
雲が近づいてくる。
太陽の光が翼に反射して、きらりと光る。
葵は、まだ繋いだままの手に気づいて、
少しだけ力を緩めた。
「……思ってたより、大丈夫かも」
そう言うと、
桜は誇らしげに胸を張った。
「だから言ったでしょ?」
機体はさらに高度を上げ、
街はもう、小さな模様になっていた。
葵は窓の外を見つめたまま、
静かに息を吐く。
未知は、まだ少し怖い。
でも今は——
それ以上に、きれいだった。




