7 僕は正気ですしジュール様がおかしいんです
公爵当主の執務室からは、中庭を挟んだ向かいの部屋がよく見える。
ジュールが見つめる窓の外には、バルコニーで絵を描くルネの姿があった。
スケッチブックを手に取って、鉛筆を走らせている。
「尊い……」
窓を眺め、うっとりとしたジュールの声音が室内に響く。
書類を揃え終えたリュカは、うんざりとした態度で主を諫めた。
「ジュール様、それストーカーってやつですよ。つきまとい。分かります?」
窓から離れないジュールの隣に立ちながら、リュカは大きな欠伸をした。
そもそも昨夜は結局一晩中、ルネの素晴らしさを語られて寝不足なのだ。その上早朝から「ルネがいる幸運を感じたい」と昨日ルネと歩いた廊下をなぞって歩かされた。
まさか早朝からルネと会えるとは思っていなかったジュールが、取り繕った態度をしていたのは面白かったが。
浮かれきったジュールに付き合うのも従者の務めではあるものの、いかんせん眠い。
「お前はこの美しい光景をなんとも思わないのか? いや思うな。見るな。ルネが減る」
「減りませんし。邸内でストーカーをするなら、直接お話をしたらどうですか。お迎えしてから、ろくに話もしてないでしょう」
「女神と……話を……?」
ジュールにとってルネはいったい、なんなのだろう。
リュカは何度目かの疑問を吐き出しそうになり、飲み込んだ。絶対話が長くなると分かっているからだ。
「今朝偶然に言葉を交わした幸運だけで俺は残りの人生を過ごせると思っているのに、さらに話せと? お前……正気か?」
「僕は正気ですしジュール様がおかしいんです」
部屋に奇妙な沈黙が落ちる。
十人が十人見れば、ジュールがおかしいと思うだろう。
ルネは確かに可愛らしいものの、ジュールはまるで女神のごとく崇拝している。
一般的に見れば、失礼ながらジュールの方が人離れした美貌の持ち主だというのに。
「ジュール様は公爵閣下、そのうえ見目麗しい。自信を持ってください」
「リュカ……」
微笑みを浮かべ、主を励ますリュカの言葉に嘘はない。
「てか早くちゃんと会話したほうがいいです。そうじゃなきゃ、いくらジュール様とはいえただの気持ち悪いストーカーですよ」
「うぐ……!」
嘘偽りない真実を告げる鋭い言葉は、ジュールの胸に突き刺さる。自覚はあるのだろう。
リュカは再び大あくびをする。
「お願いしますよ? 僕、今夜は早めに寝ますからね」
もう話を聞かないぞと先に釘を刺しておくと、こと恋愛には不慣れなジュールは低く唸る。
「……善処、する」
項垂れるジュールの頭を、リュカは手を伸ばしてポンポンと叩く。
まったく、不器用な主だ。ジュールに拾われて十年、リュカにとってのジュールは手のかかる弟のようでもあった。
◇
顔を寄せ合う麗しい主従の姿を、窓の外から見つめる人がいるとは当人たちは気付かない。
「あ、あらっ」
バルコニーで中庭の花を描いていたルネだったが、ふと顔を上げると反対側の棟にいる人影に気がついた。
それはジュールとリュカの二人だ。
勝手に見てはいけないと思いつつ思わず見つめていると、次第に二人の距離は近づいていった。
それからなんと、ジュールの頭をリュカが撫でていたのだ。普通の従者では許されないだろうが、恋人同士であれば当たり前のことだろう。
今にも口づけを交わしそうな親密な雰囲気を察知して、ルネは慌てて視線を逸らした。
「恋人同士ですものね」
ルネは赤くなった顔で、目の前のキャンパスに集中した。
◆ ◆ ◆
公爵邸の暮らしが始まり、五日が経った。
ルネも、常にメイドのいる生活に随分慣れてきたように思う。
ベルトラン伯爵家はあまり裕福ではなかったため、最低限のメイドしかいなかった。そのため手のかかる妹にメイドがつき、ルネは自分の身の回りのことはほとんど自分でするようになっていたのだ。
だから髪の毛を整えて貰うなんて、滅多にないパーティーのときくらいだった。
公爵邸に来てからというもの朝と晩、丁寧にメイドが梳いてくれるのだから、最初の方は恐縮しきりだった。
今朝も上品な鏡台の前に座るルネの後ろには、何人かいる専属メイドのうち一人が立っていた。うやうやしい手つきで髪の毛を梳いてくれている。
その途中で、後ろ髪がクンと後ろに強く引っ張られる。
「あっ……! も、申し訳ありません!」
ルネの髪の毛が櫛に少しだけ、絡まってしまったのだ。
大した痛みもなかったのに、メイドはこの世の終わりかのように真っ青な顔をして謝っている。ルネはメイドの手を握り、安心させるように微笑む。
「大丈夫。ぼさぼさの髪だから梳きにくいでしょう? ここに来てから随分綺麗にしてもらってるから嬉しいわ。いつもありがとうヒナリー」
「私の名前……」
「覚えているわ。当たり前でしょう」
震えるメイドの手が温かくなる。緊張させてしまっていたのかと、ルネは申し訳ない気持ちになった。
「堅苦しくなくていいのよ。私は伯爵家から来たし、公爵家の作法はまだなにも知らないの。ヒナリーも頼りにしてるわ」
「も、もちろんですルネ様! ありがとうございます……私、精一杯お仕えします!」
「嬉しいわ。でも、無理しないでね」
手入れが疎かだったルネの髪の毛は、この数日で天使の輪ができるほどになった。それはひとえにメイドたちの努力の結晶だ。
感謝こそすれ、なじることなどできるはずがない。
だがメイドは気合いを入れてくれたのか、普段よりも念入りにセットしてくれた。細かな編み込みをしたハーフアップの髪の毛に、銀色の絹リボンが巻かれる。
地味なルネには似合わない気がしたが、メイドは嬉しそうだ。
「素敵ですルネ様!」
「ありがとう」
頑張ってくれているメイドにこれ以上なにか言うのも無粋な気がして、ルネはただそれを受け入れていた。




