41 背中にドッと冷や汗が吹き出す
その晩、ルネとジュールはベルトラン伯爵家に泊まることとなった。
時間が遅くなってしまったことも理由の一つだが、一番の理由はベロベロに酔った父がジュールを離さなかったせいだ。
お酒を飲みながらも折に触れ父は「嬉しいんですよ」「ルネをお願いします」と何度も繰り返していた。長年育ててくれた父の愛情は、改めてルネの心をじんわり温めてくれた。
とはいえ飲みすぎて酔っぱらってしまい、ジュールを離さなくなった父には困ったものだったが。
明日の朝もジュールと話をするという約束を取り付け、ようやく父を寝室に見送ることができた。
「ジュール様、今日は父がすみませんでした。ありがとうございます」
「なに。ルネの父なら俺にとっても義父だ。二人目の父親だと思って、喜んで孝行させてもらうさ」
同じ屋敷内、既に婚約しているとはいえ寝室は別だ。
案内された客室の前で、ルネとジュールは眠る前の挨拶を交わす。
ジュールはともかくルネはこの屋敷に自室があるのだが、なぜかメイドに案内されたのはジュールと隣り合う客室だった。
少々の疑問を抱きつつも、少しでもジュールの側にいれる方がルネも嬉しい。メイドが気を回してくれたのかもしれないと、ルネは深く考えることをやめた。
「おやすみなさい、ジュール様」
「おやすみルネ。いい夢を」
それぞれの扉の前で、ルネとジュールはおやすみの挨拶をして別れる。
ベルトラン伯爵家で過ごすルネにはメイドはつかない。元々メイドの数がそう多くないうえ、ルネは大体のことは自分でできる。
ルネは簡単に寝支度を済ませて、早々に寝台へ入った。
いつになくはしゃいでいた父の姿を思い出し、楽しかった今日一日を振り返って幸せを噛みしめる。
目を閉じ、夢の中へと潜ろうとした頃。
ふと耳に入った小さな音に、ルネの沈みそうになっていた意識が浮上した。
「なにかしら……」
不穏な気配を感じ、ルネは上着を羽織ると燭台を手に扉の外へ出た。
勝手知ったる自宅の廊下だが、深夜ともなれば人の気配はなく薄暗い。
だが妙に気になって、なにかに導かれるようにルネは音の鳴る方へ、一人で廊下を歩き進めた。
「私の……部屋?」
時折聞こえる音は、ルネの自室からだった。
最低限大事なものは全て持ち出しているし、今後この部屋がどうなるのかは父にまだ確認していなかった。
開けない方がいいかもしれないと、頭のどこかが警鐘を鳴らす。
だがルネの手は恐る恐るドアノブへと延び、静かに扉を開けた。
室内は暗く、だが窓から差し込む月光に照らされていた。
「……ッ!」
ルネは叫びそうになった。
思わず自分の口を手のひらで塞ぐ。
カーテンは破れ、窓が割れている。寝台のシーツもビリビリで、切り裂かれた枕からは羽根が飛び出していた。
床には花瓶だったものが割れて散らばり、クローゼットの中身が散乱している。
自室だった部屋にはもう、ルネの暮らしていたときの姿はない。
「……だれよ」
ルネの気配を察したのだろう、中から声がかけられる。
若い女の声。
ルネは唇を噛む。
髪を振り乱し、寝巻きを着た彼女の足元は素足のままだ。
姿を見せないことに安堵していたが、まさかこんな風になっていただなんて。
「……シトリー」
ルネは一歩、室内に足を踏み入れた。
客室で聞いていた音は、シトリーがこの部屋を破壊していた音だ。
だが様子から見るに、今夜が初めてということでもないのだろう。だからルネは客室に案内されていたのだと合点がいった。
ルネの姿を見たシトリーは、以前のような無邪気な笑みをみせた。
その笑顔とは裏腹に、シトリーは手に持っていた陶器の箱を壁に躊躇なく投げつける。
焼き物が割れる鋭い音が響く。
「おかえりなさいお姉様。遅かったのね」
「シトリー」
だがその顔に生気はない。肌も髪もかさついて、自分で切ったのか髪型もおかしくなっている。身に着けている寝巻きは酷く汚れていて、以前のシトリーならすぐにでも着替えただろうものだ。
ルネは父に対して、シトリーがどうなったのか確認していなかった。
聞くのが怖かっただけかもしれない。
自分を恨み、周囲を恨んで去っていったシトリーの今を知ることが恐ろしかった。
だから今日、父と会った際にもあえてシトリーの現状を聞かなかったが、まさかこんなことになっているとは。
「……シトリー、よく聞いて。私はもうすぐ結婚するのよ」
「知ってるわ。ラヴィオとでしょ? おめでとうお姉様。私は公爵様と結婚するから、気にしないで」
「違うわシトリー。公爵様……ジュール様が私の結婚相手よ。ラヴィオはトラネド伯爵家の領地で一生を過ごすそうよ」
「あら、お姉様がラヴィオのおうちに嫁入りをするの?」
「ラヴィオは罰として領地から出られないの」
シトリーの話はルネと何一つ噛み合わない。
きっともう、彼女の精神は常軌を逸脱してしまっているのだ。
フラフラと頭を揺らしながら、シトリーは時折フフフと笑う。
もう分かり合うことは無理なのかもしれない。
父はこの状態を知っていたから、ルネにシトリーの話をしなかったのだろう。
「もう行くわねシトリー」
「どこに? お姉様のお部屋はここでしょ?」
「……ここでは寝れないわ」
言ったあとに、ルネは気付いてしまった。
両手を広げるシトリーの手には、よく見れば小さなナイフが握られていた。恐らくあれで室内の布という布を破っていたのだろう。
ルネの背中にドッと冷や汗が吹き出す。
できるだけ刺激をしないよう、この部屋から出なければ――。




