33 醜い言い争い
たとえ一生独身であろうとも、ラヴィオと結婚なんて考えることはできない。
婚約中に育まれていた、穏やかな親愛の情すら今はもうどこかへ消え去り影も形もない。
思い出を失ったようで悲しくもあるが、決意したルネにとってラヴィオはもう、振り払うべき過去の記憶となった。
背筋を伸ばして顎を引き、ルネは真っ直ぐにラヴィオを見つめる。
強い意志を感じられる瞳で見つめているルネに、ラヴィオは一瞬怯んだようだった。
「僕と背が変わらないのも、きみの嫌なところだよ。でもいいよ、それくらい妥協してあげる」
言葉は一方的で、身勝手なことばかりだ。
ラヴィオは片頬を上げ、吐き捨てる。
「ルネがそのつもりなら、勝手に既成事実でも作った方が早いかな!」
言うが早いか、ラヴィオの腕がルネの身体を引き寄せる。
身長はさほど変わらないものの、力強い男の腕はルネの抵抗を許さない。
「やめ……ッ」
押しのけようにも男性であるラヴィオが両足を広げ、ルネを動かすまいとがっちりと包み込んでいるのだから抵抗も意味をなさない。
ラヴィオは声高に叫ぶ。
「そうか! 大丈夫だよルネ! もう一度愛し合おう!」
「なにを言って――」
ルネはハッと気付く。
騒ぎを聞きつけた周囲には、パラパラと生徒たちが集まってきていた。
ラヴィオは勘違いさせるようにわざと叫んでいるのだ。
「ちが……ッ」
「おっと、静かに。その唇を奪って塞いでもいいんだよ?」
キスで塞ぐですって? 私とラヴィオが?
一度は挙式を予定していた相手だというのに、想像しただけでゾワゾワとした悪寒がルネの背中を駆け上がる。
叫ぶこともできずに、どうにかラヴィオの腕から逃れようともがく。
そんな中、人垣を割って誰かが前に出てきた。
「あら! あらあらあら! お姉様! ラヴィオ! なんてこと! やっぱり二人は愛し合っていたのね!」
「シトリー……あなた……ッ」
タイミングよく現れた妹・シトリーは、芝居がかった様子でハンカチを自分の目元に当てる。
「悲しいわ……だけど、姉の幸せのために私、身を引きます! ほら見まして、ジュール様! 本当でしたでしょう!」
シトリーの後ろからゆっくりと姿を現したのは、人垣の中でも目を惹く長身の持ち主だ。
滑らかな銀の髪が風に揺れ、鋭い瞳がルネとラヴィオを射貫く。
見つめられた途端、恐怖でルネの心臓が止まるかと思った。
(違うんです……!)
そう叫びたくとも、無用なことを口にすればラヴィオにキスされかねない。それは嫌だ。ジュールの前なら尚更嫌だ。
「は、ははは。そうなんです公爵様! ルネはずっと僕を想ってくれていた……僕もやっぱりルネしかいないと、今、お互いの愛を確かていたところなんですよ」
嘘ばかりだ。ルネは必死に首を横に振り、ジュールに訴える。
そんなルネの行動に気付いたラヴィオは「キスするぞ」と耳元で小さく脅してくる。
もうどうしたらいいのか分からず、ルネはできることなら気を失いたかった。
だが――。
「離れろ」
ジュールはラヴィオの腕を捻った。呻くラヴィオの拘束が緩む。
「ルネ様、こちらに」
後ろに控えていたリュカが、ルネを招いてくれた。
「な、なにをするんですか公爵閣下! 元々僕とルネは愛し合っていたんだ。それを無理矢理奪ったのは公爵閣下じゃないですか!」
そんな事実もなければ時系列すら捻じ曲げられた主張を、ラヴィオは恥ずかしげもなく叫ぶ。
ジュールをまるで痴話喧嘩のような醜態に巻き込んでしまった。ルネは申し訳ない気持ちでいっぱいになり、消え入りたくなる。
「愛しているならなぜルネとの婚約を破棄した?」
静かで落ち着いた、ジュールの声。
だがそこには確かな怒りの色が滲む。
「そ、それは……そう、ルネが僕を邪険に扱うから仕方なく……」
立ち上る怒りを察したラヴィオが、無意識に一歩後ずさりする。
その一歩を、ジュールはゆっくりと詰める。
「邪険に扱われたら婚約破棄するのか? 関係を改善しようともせずに、ルネの妹と浮気するのが当然だと?」
浮気、とはっきり告げられたことで、慌てたのは妹のシトリーだった。
「ち、違いますわ! 私はラヴィオに無理矢理……!」
シトリーはジュールの前にバッと飛び出し、悲劇のヒロインを演じようとする。
「なっ……! シトリーから迫ってきたんじゃないか! お姉様よりいいでしょ、なんて擦り寄って! 今更、僕だけ悪者にするつもりか!?」
「はあ!? そういうこと言う? ほんと、身長も低いしつまんない男!」
「し、身長は関係ないだろ! 謝れよ! お、お前だって顔だけのくせに!」
醜い言い争いをするシトリーとラヴィオの様子に、ルネは呆気に取られていた。
あれほど愛し合っているのだと、衆人環視の元で婚約破棄を告げ、ルネを辱めた人たちだというのに。
ルネの一番近くにいた二人の裏切りに傷ついたときもあったが、ある意味なんとお似合いの二人だったのかとも思う。
ジュールはため息をつき、大きく手を打った。
一瞬で周囲の空気が変わる。
シンと静まり返った庭園前で、全員がジュールへと視線を向けた。
「もう茶番は終わりだ」
冷ややかな空気に、ルネまで身体を竦ませる。
だが暖かいジュールの腕が、グイとルネを引き寄せた。
「これ以上ルネの名誉を傷つけるつもりなら、こちらもそれなりの対処をさせてもらう。侮辱されたと各家の当主に話をするか、裁判を視野に入れるつもりだ」
どうする、とジュールが睨むと、ラヴィオの身体は目に見えてブルリと震える。
「そ、そんなつもりじゃ……ああ、くそっ! シトリーのせいだからな!」
「な、なによ……ちょっと! 待ちなさいよラヴィオ! どうするのよ!」
捨て台詞を吐き、周囲の人々をかき分けるようにしてラヴィオは走り去る。
その後ろを、シトリーが慌てた様子で追いかけていく。
周囲からは「シトリー様って……」「やっぱり前回の婚約破棄劇は、あっちが悪いわよね」などという声が聞こえてくる。
きっと今回の流れは全て、前回同様二人の計画だったのだろう。
ルネとラヴィオが撚りを戻したように見せかけて、シトリーがジュールの婚約者にすげ変わる。全て解決した今となっては稚拙で、雑な作戦だ。
しかし連れて来られたジュールがシトリーの思惑通りに動かなかったせいで、未遂に終わっただけだ。
万が一、ジュールがシトリーを信じてしまっていたら――そう考えるだけでルネは胸のあたりがギュッと引き絞られるような気持ちだった。
「あ、あのジュール様。ご迷惑をおかけして――」
ルネの言葉は、ジュールに抱きしめられることで途切れた。
制服越しの胸元は厚く、先ほど抱きしめられたラヴィオよりも逞しいのに嫌ではない。
それどころか鼻先をくすぐるジュールの匂いは、ルネに安心感すら与えるのだ。
「無事でよかった」
小さく呟かれたジュールの言葉は、ルネに聞かせるというよりも思い余って零れた祈りのようなものだった。
ルネの心は震えるが、先ほどとは違って甘い疼きを抱えて切なく軋む。
この気持ちを何と呼ぶか、ルネはもう気付いていた。
トクトクと規則的に聞こえてくる心臓の音。
抱きしめる腕の中にずっと身体を預けていたい。
(私……ジュール様のことが――)
だがそれは許されない想いだ。
ジュールはリュカと愛し合っている。
この優しさを勘違いしてはいけない。
思い上がってはいけないのだ。
ルネは湧き上がりそうになる感情に、そっと蓋をした。




