31 一発殴ってもいいわ
「もしジュールがあなたの話を聞かないのなら、私が一発殴ってもいいわ」
「ええっ?」
拳を握り締めてフフンと笑うジャネットを、ルネは思わず凝視した。
ジャネットだったら殴ってもおかしくないかもしれない……殴られるジュールの様子を想像すると少しシュールで、ルネの口からは変な笑い声が漏れる。
「だから安心して吐き出しなさいな。誰かに言うだけですっきりすることもあるのよ」
「あ……」
目を細めるジャネットは、ルネを安心させようとしているのだ。
気遣いがありがたい反面、こんなことは誰にも聞かせられないとも思う。
ジュールの姉ならば尚更だ。
だがルネの頭はずっとこの悩みでフル回転し続けていて、疲れ切っていた。本当は誰かに聞いてもらいたいと願っていたのだ。
窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえる。
たっぷりの間を置いて、ルネはおずおずと口を開く。
「……もしも、もしもの話ですけれど。もしもジャネット様の旦那様が、他の女性から「自分の方が相応しい」とアプローチされてたら、ジャネット様はどうされます?」
「なにそれ。そんなの私の敵じゃないわ」
髪の毛を揺らし、自信たっぷりに答えるジャネットをルネは眩しく思った。
「そうですよね。ジャネット様はお美しいですし――」
「そうじゃないわ。確かにわたくしが美しいのは事実だけれど、そんな無作法な女が現れたら戦うだけよ。そして勝ってみせるわ」
ジャネットの発言は、勝ち気な彼女らしいものだった。
同じことを、ルネは言うこともできないだろう。
そんな自信はどこにもない。
曖昧な苦笑いを浮かべるルネに、ジャネットは真剣な顔を向けた。
「私は、なにもせずただ負けを受け入れるなんて嫌だもの。あなたはどうなの、ルネ。そんな無作法者に、どうぞとその座を譲ってあげたいの?」
ジャネットの言葉は、ルネの頭を殴りつけるような衝撃があった。
譲りたいか、譲りたくないか。
答えは実に単純なものだった。
「悩みがあるならいいなさい。聞いてあげるわよ」
ジャネットの柔らかい声が、ルネの心の扉を開いていく。
それからルネは「実は……」と前置きをして昨日の出来事を打ち明けた。
ジュールと共に実家へ結婚の挨拶をしに行ったこと。
妹・シトリーが公爵夫人の座を欲しがっていること。
元婚約者であるラヴィオが、ジュールに捨てられたらもう一度婚約しようと言い寄ってきたこと。
たどたどしいルネの説明に、ジャネットはただ静かに頷いて聞いてくれた。
最後まで経緯を話しきりルネは息を大きく吐くと、膝の上でスカートをギュッと握った。
「私はジュール様に相応しくないし、公爵夫人の器じゃありません」
それから大きく息を吸い、ジャネットに向かって宣言した。
「でも私、ジュール様の側を離れたくない。妹……シトリーに負けたくないんです」
ルネの声は強い意志を孕んだものだった。
その言葉の裏に隠された、ルネすらまだ言葉にできないジュールへの想いは、真っ直ぐジャネットの心に伝播する。
自分のやるべきことが分かったルネの瞳は、強く輝く。
平凡なルネの顔立ちは、ジャネットが見惚れるほど美しかった。
「ジャネット様。話をきいてくださってありがとうございます。私、自分でなんとかしてみせます」
「頼ることも強さだと思うけれど?」
柔らかなジャネットの言葉に、ルネも笑顔でゆっくりと首を横に振った。
「でもこれは、私の戦いだと思うんです」
言い切るルネの眩しさに、ジャネットは目を細める。
「ジュール様には、内緒にしていてくださいね」
「あら、どうしようかしら?」
「えっ」
「ふふふ。お姉様と呼んでくれたら考えようかしら」
茶目っ気たっぷりのジャネットだ。ルネも本気でないことくらいは察していたが、それでも万が一がある。
どうしたものかとルネは考え、頭をフル回転させた。
楽しそうにこちらを見つめるジャネットに、おずおずと視線を合わせる。
「お、お願いします……ジャネットお義姉様……」
「んっ!」
不躾な言い方だっただろうか。ルネは内心自分の大胆な言葉にドキドキした。
ジャネットは自分の胸を押さえ、はあはあと呼吸を荒くする。
「いいわね。お義姉様呼び……ジュールがまだ可愛かったあの頃を思い出すわ。ルネ、今度からはわたくしをそう呼びなさい。許します」
「は、はいっ、お義姉様!」
扇をぴしっと向けられ、思わずルネの背筋が伸びた。ジャネットは「ふ、ふふ……いいわねえ」と悦に入っている。
「ジュール様には内緒にしていてくださいね」
「分かったわ。この義姉が、義姉が。可愛い義妹のために黙っていてあげましょう」
ようやく言質をとれたことにルネは安堵した。
ジャネットが小さな声で「こんなにいい子なんだから、安心させてあげなさいよね」とこの場にいないジュールに毒づく。
遠くでジュールのくしゃみが聞こえた気がした。
安心したルネが腕を移動させた動作で、手元にあった刺繍枠に指先が当たって床に落ちた。
今日は何度も刺しては滞っていた刺繍だ。
「あら、それはルネが刺したの? 見せてみなさい」
ルネが拾った刺繍に、ジャネットが興味を持ったようで手を伸ばしてくる。
「図案を自分で考えるのが好きで……下手の横好きですが」
絵が好きだが上手ではない。自覚のあるルネがそう告げるが、刺繍を見つめるジャネットの瞳は大きく見開いていく。
「なによこれ……」
「す、すみません。お目汚しで――」
震えるジャネットの声に、不興を買ってしまったとルネは慌てた。
だが。
「素晴らしい出来栄えだわ。この間見せてもらった絵が、どうして刺繍にすることでこんなに素晴らしく調和しているのかしら。なんなの、この刺繍技法は。初めて見たわ」
ジャネットはルネの刺繍を食い入るように見つめる。
思ってもいなかった賛辞の言葉に、今度はルネが驚く番だ。
「よく見たら一般的なステッチとも違うのね。それにこの糸の柔らかさはなに? 不思議なこの生き物は鳥かしら。鳥の羽がまるで絵画のように滑らかだわ」
刺繍から全く視線を外さず、ジャネットは刺繍について賛辞を述べている。
ルネは胸が熱くなった。
こんな風に褒められたのは初めてだ。
「こ、これは撚る前の糸を遣っているんですよ。糸撚機を使わず、刺繍する前に手作業で撚りを甘くしているんです。そのため艶があって、フワッとした立体感が増します」
ルネの実家であるベルトラン伯爵家の領地では、農民が養蚕業もしている。絹糸や生地はこの辺よりも安く手に入るのだ。
「より……?」
「糸はよく見ると二本の細い糸が合わさって作られているんです。それを甘い撚りの糸一本だけにしてます。これは綿生地ですが、絹の生地に刺したものはもっと華やかですよ」
貴婦人の刺繍はあくまでたしなみであり、手慰みのようなものだ。男性の洋服に施されるような刺繍は、同じく男性の職人たちの仕事である。
そのため女性の刺繍はあまり発展性がない。暇つぶしなのだから当然といえば当然だが、ルネはそこに工夫を施すのが好きだった。
自分のやってきたことに興味を持ってもらったことが嬉しくて、ルネはいつになく饒舌になる。
細かなタッチで描かれた絵画を見ていたときに、着想を得た技術だ。領地の特産である絹糸も、ルネの発想を後押ししてくれた。
ルネの説明に、ジャネットは目を輝かせて耳を傾ける。
「見たいわ。是非見せてちょうだい。他にもあるの?」
「はい……っ! ええっと、お待ちくださいね」
実家から持ってきた作品を、キャビネットから取り出して広げた。
実用的なハンカチは綿生地で、絹のストールに刺繍したものもある。飾り用に作った大きい刺繍は使うことすらないが、刺繍の中に綿を入れ立体感を出したものなどがあり、ルネは気に入っている。
「まあ、この絹はどちらのもの? こんなにしなやかな絹、初めて見たわ。こちらも、向こうが透けるほど薄い……なんて綺麗なの」
ジャネットは生地にも注目したようだ。
褒められて、ルネは自分のことのように誇らしい。
「うちの領地で作っている絹です。近年は蚕の病気で不作でしたが、去年から品種改良にも成功したんですよ。織り方も工夫しているそうで、これは試作品の一つです」
「素晴らしいわ。これでドレスを作ってみたらどうかしら」
ジャネットが気に入った生地をルネはマジマジと見る。確かに今まで社交界では見なかった生地だ。ファッションに疎いルネにはこれをどう使うのか想像もできなかったが、ジャネットが言うなら作らせてみるのもいいかもしれない。
「父に伝えておきます」
「そうして。もしいい買い取り先がなかったら、うちで買ってもいいわ。いえ、その方が手っ取り早いかしら。そうね、うちで買い取ります。今度ベルトラン伯爵に手紙を出すわ」
助言か、ただの社交辞令だと思っていたのだが、ジャネットはトントン拍子にとんでもない話を進めていく。
目の前にいるのはただの貴族ではない、この国の三大公爵の一つであるリュンカール公爵夫人なのだった。
「え、ええ?」
「待って、こちらの刺繍はどうなっているの。図案はルネが?」
また別の布を手に取って、ジャネットは食い入るように見つめている。
「あっ、そうです。これは古典柄と花を合わせて――」
テーブルの上に所せましと並べられた刺繍を、ジャネットは丁寧な手つきでじっくりと眺めてくれた。時々解説を求められ、ルネは喜んで隣であれこれ工夫を話す。
いくつか持って行ってもいいかというジャネットに、全部どうぞと押し付けた。
刺繍はまた作ればいい。
ほしがってくれる人がいたこと自体が嬉しかった。
そうして楽しい時間を過ごした後ジャネットが帰っていくと、部屋は途端に普段より広く感じる。
だがルネの胸はホワリと温かさが広がり、朝とは違う、すっきりとした気分になっていたのだった。




