29 軽薄な男の声
ルネは一旦、かつての自室へ向かうことにした。
公爵家ほどではないものの、ベルトラン伯爵家の庭園も狭いわけではない。庭師が丹念に手入れをしている庭は今、東の一角に植えられた薔薇が見ごろだろう。
亡き母に薔薇をあげたくて、庭師に泣きついていたかつての自分の姿が頭に浮かんだ。
廊下を歩くたびに小さな音が耳に響いた。
懐かしい壁、見慣れた絵画。窓からは母と共に駆け回った庭が見える。
父を見送ることが多かった玄関ホールを抜け、自室へ繋がる二階へルネが上ろうとした瞬間、声がかかった。
「やあ、久しぶりだねルネ」
軽薄な男の声は、聞き覚えがありすぎた。
ゆっくり振り返るとそこには案の定、元婚約者であるラヴィオが立っていた。縦縞の洒落たジャケットを身に纏い、ルネに向かって手を上げている。
「どうしてここに」
「シトリーに聞いたんだ。今日ルネが戻ってくるって」
ラヴィオの革靴が一歩ずつ床を踏み込み、ルネへと近づく。
「なにが目的なの?」
「そんな他人行儀は酷いよ。一度は愛しあった仲じゃあないか」
確かにかつては婚約者だった相手だ。
まちがいなく親愛の気持ちはあったが、それは愛ではなかったはずだ。
子供の頃に手を握ったり、エスコートをする以上の触れ合いもなく、特別な手紙を交換したことすらない。誕生日にお互いプレゼントを贈りあう程度の、今思えば婚約者としての体裁を最低限保っていただけだ。
それはもちろんラヴィオだけではなく、ルネにもいえることだ。
ルネは静かにゆっくりと息を吸い、それから同じ時間をかけて吐いた。
「それで、なんの用事なの? シトリーなら今はお客様を案内するために庭園にいるわ」
相手のペースに乗るつもりはない。
私にはあなたと話す用事などない、ラヴィオに対してルネは明確に線を引いた。
一瞬鼻白んだラヴィオだったが、すぐに表情を取り繕う。
「そういうところだよね。ルネは見た目も中身も地味で面白みがなさすぎる。もっとユーモラスで大らかにならなくちゃ」
笑顔を作るラヴィオだが、その目の中にはルネを見下す色が潜む。
そもそも隠す気もないのだろう。
「その点やっぱり、シトリーは最高だよ。可愛くて愛らしくて明るい、花の妖精みたいに魅力的だ」
「なにが言いたいの」
もはや他人となったラヴィオから、これほど近くまで迫られるのも怖い。
思わずルネが後ずさりすると、下がった分ラヴィオが距離を詰めてくる。
「もう一度、婚約しないか?」
ありえない提案を耳にした気がした。
にやにやとした表情のラヴィオを見ながら、視線の高さが殆ど変わらないなと、そんなどうでもいいことに意識が向いていた。
そうだ、最近はずっと、背の高いジュールの隣で背筋を伸ばしていたせいだ。ラヴィオの劣等感を刺激しないようにと、隣に立つ際ルネは常に背中を丸めていた。
ラヴィオの言葉を咀嚼し、理解するまで時間がかかった。理解が追いつくと同時に、ラヴィオは懇々と言葉を連ねていく。
「僕に捨てられてから、ルネはジュール・フォーレ公爵閣下と婚約したんだろ? そのせいでシトリーが自分にもチャンスがあるって躍起になっちゃって、困っちゃったよ」
肩を竦め、ラヴィオはやれやれとため息をつく。
それからルネに向かってウインクを投げる。
「シトリーが本気になったら、ルネはまた公爵閣下に捨てられるに決まってるだろ? さすがに二回も妹に婚約者を奪われたなんて、醜聞すぎて嫁ぎ先もない。そこでだ。僕ともう一度婚約すれば、全部丸く収まると思わないか」
悪びれる様子一つなく、ラヴィオは身勝手な提案を告げてくる。
一本ずつ指を折り曲げ、算段しているようだ。
「シトリーは公爵夫人になれるし、公爵様は可愛い妻を手に入れられる。きみも僕と結婚できて、僕もベルトラン伯爵の跡継ぎのままだ。ほーら、みんな幸せじゃないか。いい案だろ?」
「……なにを言っているの」
ルネの声は掠れていた。
怒りと情けなさが沸き上がり、ルネの足元を揺らすようだった。
こんな男にルネは捨てられたのだ。
この数週間、ジュールという人物と共に過ごしたからこそ、改めてラヴィオの人間性を嫌悪した。




