2 婚約破棄をされたのか
「まさかそんな」
最悪の予想はあっさりと妹に肯定される。
「ラヴィオはお姉様にはもったいないわ。私が貰ってあげる」
擦り寄るシトリーの頬を、ラヴィオが優しい手つきで撫でた。
そんな表情は一度だってルネの前で見せたことがない。
蕩けるような甘い瞳に映るのはルネではなく、シトリーだ。
ルネは小さく息を吸い込む。
気付けば周囲には、昼食を終えた生徒たちが集まってきていた。
学生とはいえ娯楽の少ない貴族社会だ。こちらを見てヒソヒソと話し合っている様子がルネの視界に入る。
「シトリー、ラヴィオ。落ち着いて聞いて。婚約者を譲るなんてできるわけないでしょう。なにより、お互いのお父様たちが許すはずがないわ」
背筋を伸ばしたルネは両手を前で重ね、動揺する内心を隠して言葉を紡ぐ。
家のために婿をとったとて、ベルトラン伯爵家の直系はルネだ。勉強はもとよりいかなるときも貴族らしく振る舞うべしという教育を叩き込まれている。
黙っていたラヴィオが顔を歪めた。
「そういうところだよルネ。ぼやっとしてる癖に変なところで頑固で。女としての魅力がなさすぎる」
「え……」
心臓が痛いほど跳ねた。
少なくとも今まで表面上は、ルネとラヴィオはお互いを思いやれる関係だと思っていた。
「ラヴィオはね、お姉様より私が好きなんですって」
砂糖菓子のような甘い声で、シトリーはコロコロと笑う。
「僕とシトリーが愛し合ってたことにも気付かなかったとは。きみは本当に、僕に興味がない」
これからの将来を考えていた相手からの、遠慮のない不満の言葉は、ルネに深く突き刺さる。
「女のくせにいつも下手な絵ばかり描いて、地味だし可愛げがない。婚約者としてずっと恥ずかしかったよ」
「それは……ッ」
ルネは弁明しようとしたが、全て真実だったためなにも言えなかった。
確かに勉強の合間には本を読むか刺繍をするか、下手の横好きの絵を描いてばかりで、ラヴィオを気に掛けることはなかった。
いくら婿に貰う予定があるからといっても、ルネももう少し彼に歩み寄るべきだったのかもしれない。
ただ、ルネからも誘わなかったが、ラヴィオからの誘いもなかった。
これが二人の適切な距離感なのだと、勝手にルネも納得していた部分もある。
「ルネに比べてシトリーはお洒落だし愛嬌がある」
「ええ~? それだけ?」
豊かにうねるシトリーの栗毛を撫でながら、ラヴィオは蕩けた声で愛を囁く。
シトリーはわざとらしく頬を膨らませ、怒ったフリをする。
「世界一可愛い最高の女の子だよ。結婚するなら誰だって、ルネなんかよりシトリーを選ぶに決まってる」
「やだ~。お姉様の前でそんなこと。可哀想でしょ」
目の前で繰り広げられる茶番に、ルネは足元が遠くなりそうだった。
確かにシトリーはルネと比べて華やかで可愛らしい女の子だ。姉妹が並べば、やはりルネは見劣りするだろう。
それでもルネが地味なのは元々の好みもあるが、数少ないラヴィオからの希望でもあったのに。
――僕より背の高い女は目立って恥ずかしい。もっと地味にしていてくれ。
彼はどうやらそれすら忘れてしまったようだ。
ルネがラヴィオと背が変わらなくなってしまった二年前、彼が言い放った言葉だ。
未来の夫からの心ない言葉に、傷つかなかったと言えば嘘になる。それでも少しでも彼の希望に添えればと、隣に立つときには踵の低い靴を履き少し背中を丸めた。
地味なものを選びすぎて、シトリーには年寄りのようだと笑われたものだ。
ルネの胸にはぽっかりと大きな穴が空いたようだった。
二人はいつから恋仲だったのだろう。
なにも知らず順風満帆だと思っていたのは自分だけで、無自覚に彼らの幸福を踏み荒らしていたのだろうか。
徐々に俯き、黙りこくったルネの顔をシトリーが下から覗き込む。
いつもと変わらない、無邪気な瞳がルネを見た。
「お姉様、怒ってる?」
これにはさすがのルネも、どう答えたらいいのか分からなくなった。
三人を離れて取り囲む人垣は徐々に増え、見える範囲ですら見知った姿も多い。
ただでさえ狭い貴族社会だ。ルネたちの父親であるベルトラン伯爵の顔に泥を塗ることだけは避けたい。
「私も、悪いなって思ってるところもあるのよ?」
返事をしないルネに、シトリーが謙虚な言葉をかける。
「返せるものなら返したいのよ? でも彼ってば私じゃないと嫌だっていうんだもの」
ルネたちの醜聞を眺めていた周囲の学生の間から、クスクスと忍び笑いが漏れ聞こえる。シトリーは勝ち誇ったように笑みを深め、ルネは笑い者にされている自分が惨めで泣きそうになった。
まるで男女の痴話喧嘩だ。
いや事実、痴話喧嘩なのだろう。姉の婚約者を妹がほしがり、それを譲れと公の場でルネを追い詰めている。
婚約という契約を、こんな形で反故にされるなんてルネは夢にも思わなかった。
(ラヴィオ……優しい人だと思ってたけれど、恋は人を変えるのかもしれない)
シトリーの肩を抱き、今にも口づけしそうな距離で見つめる婚約者がいる。
ルネは傷ついた表情を精一杯、隠すしかない。
「分かったわ……二人とも、おめでとう」
その瞬間、周囲からワッと楽しそうな拍手が鳴る。
「ありがとうみんな、ありがとう!」
シトリーは涙ぐみ、嬉しそうに周囲の人垣へと駆け寄る。
どうやらルネに告げるより先に、根回しをしていたのだろう。学園でも可愛らしく、人気のあるシトリーだ。秘めた恋を守ろうと、周囲は応援していたのかもしれない。
シトリーの細腰を掴み、高く持ち上げるラヴィオの顔は実に晴れ晴れとしていて、やはりルネは知らない顔だった。
楽しそうにじゃれ合う恋人たちと、それを温かく見守る周囲。
一人ポツンと取り残されたルネの胸にはぽっかりと穴が空き、そこに冷たい風が吹き抜けていく。
そんな中、中庭に面した渡り廊下に、低い声が響く。
中庭の賑やかな声のせいで、誰も彼らの存在には気付かない。
「婚約破棄をされたのか」
呟いたのは背の高い男――ジュール・ペルドランだ。
身長百九十センチを超える男の癖のない銀髪が、午後の太陽を受けて煌めく。
強い意志を感じられる目と整った高い鼻梁の持ち主は、男らしいのにハッと目を奪われるほど美しい。
学園内ではよく見る制服のはずなのに、ジュールが身に纏うだけで風格が漂う。
「そのようですね。ならば都合がよろしいかと」
「ふん」
ジュールの付き人であるリュカは白いシャツとタイ、揃いのスーツを着ていた。学生ではないがジュールよりも一つ二つ若いのだろう。
なによりまるで女性と見まごう美貌の持ち主だ。
さらりとした黒髪が揺れる。
「では手配いたしますね」
「頼んだ」
二人の主従はただそれだけで通じ合うらしい。
中庭の喧噪を尻目に、ジュールたちは無言で踵を返した。




