18 ピクニック
せっかくの筆が乗ってきたところで、朝から怪しかった空模様は本格的に雲が黒く立ち込めてきた。
そろそろ馬車に戻ろうかとスケッチブックを閉じると、隣に座っていたジュールが立ち上がる。
「ルネ、雨の匂いがする」
ジュールはクンと鼻を鳴らしてから、ルネに手を差し出してきた。
ルネは慌ててその手を取って立ち上がると、手の甲にポツンと雨が落ちる。
パラパラと振り始めたかと思ったとたん雨脚は強まり、草を濡らして足元に跳ねた。
「これを被れ」
ジュールは上着を脱ぐと、ジャネットの頭からすっぽりと被せた。
上着からは体温の残滓に混じって、ジュールの香水の匂いがする。
「それではジュール様が」
「絵が濡れてしまうだろう。どちらも濡れては問題だ」
ルネは驚いた。
さも当たり前のように、ジュールはルネの絵を尊重してくれているのだ。
胸元に抱えたスケッチブックを、ルネはギュッと抱きしめた。
「少し走れるか」
繋いだままの手を引かれて、ルネはジュールと共に待機していた馬車まで駆けだした。
そう遠くない場所に待機していたが、足元は随分濡れてしまった。
御者が差し出したタオルを、ジュールがルネへと渡す。
「私より先にジュール様でしょう? 私の代わりに、随分濡れてしまいました」
ルネはジュールの上着を被っていたおかげで、濡れたのは靴とスカートの裾くらいだ。それも内側はパニエに守られているおかげで、肌はどこも殆ど濡れていない。
一方でジュールはといえば、銀の毛先からぽたぽたと雫が落ちている。
シャツもズボンもぐっしょりと雨に濡れ、肌にぴたりと張り付いていた。見ようによっては随分煽情的な姿である。ルネの顔は赤くなる。
「俺なんかよりルネが先だ」
ジュールはそう言って、ルネにズイとタオルを押し付ける。
「ほら」
びしゃびしゃのジュールの手が、ルネにタオルを渡す。その様子がおかしくて、しかし思いやりのある少し不器用な人なのだと思った。
ルネはタオルを受け取って素早くポンポンと自分のスカートを叩き、すぐにジュールの頭に被せた。
「俺は別に――」
「ほら、私はもう拭きました。次はジュール様の番です」
そうはっきり言われてしまえば、ジュールも返す言葉がないようだ。
ガシガシと乱暴な仕草で頭を拭く、その様子すら絵になる。
「すまなかったな」
ジュールはポツリと零す。
なんのことか分からずに、ルネが首を横に傾げる。
「せっかくのピクニックが雨になってしまっただろう」
「雨はジュール様のせいじゃないでしょう?」
「なんとしてでも雨を阻止したかった。昨晩もよくよく祈ったのだが」
どうやら冗談ではなく、本気で言っていたらしい。
雨になってしまったのは、ジュールの祈り不足だったと詫びているのだ。
いよいよルネは込み上げるおかしさを止められず、「あははっ」と声を出して笑った。
「おかしいか」
「おかしいです」
笑い止まないルネにジュールは気を悪くする様子もなく、やはり神妙な顔をして返事をするのだから面白い。
思えばルネがこんな風に笑うのは、随分久しぶりの気がした。
心がフッと軽くなる。
「明日から学園だが、大丈夫か」
ジュールはルネに問いかける。
もちろんだ。
「大丈夫ですよ」
ジュールとリュカ、二人の恋の隠れ蓑として、偽りの婚約者の仕事を全うしてみせます。ルネは己の使命を胸に、力強く答えた。
「そうか。無理はしないでくれ」
ジュールの目元がフッと和らぐ。
時々、こうだ。ジュールはルネを、必要以上に優しく見つめてくるときがある。
そのせいでルネの心臓は時折、誤作動を起こす。
(美形の笑顔は心臓に悪いのね)
免疫がないせいで胸がドキドキするのだ。
ルネは抱えていたスケッチブックを横に置いた。
「そういえばルネはスケッチばかりだな。着色はしないのか」
「その……お恥ずかしい話ですがうちはあまり余裕がなくて。趣味の絵の具は難しかったんです」
伯爵家とはいえ裕福な家庭ではない。かといって困窮しているわけではないものの、高価で消耗品の絵の具を買ってくれとはなかなか言えなかった。
ジュールは顎に手を添え「ふむ」と呟く。
「父が遺した絵の具がある。死蔵するよりは使ってもらえないか」
「えっ、いいんですか!」
思わず前のめりで食いついてしまった。
はしたないことをしたとルネの顔にジワジワと赤みがさしていく。
そんなルネをからかうでもなく、ジュールはまた温かみのある笑みを浮かべるのだ。
「もちろん、こちらこそ助かる」
ああまた、ルネの心臓は誤作動を起こしてしまっている。
今日は普段よりもジュールと距離が近いせいかもしれない。
外からは雨の音しか聞こえず、馬車の中は二人きりだ。
「そろそろ出そうか。リュカが心配しているだろう」
「ええ」
ゆっくりと動き出す馬車の中、ルネは最後の穏やかな時間を楽しんだ。
公爵家に来てから、忙しいジュールとは食事の時間以外に顔を合わせることはなかったため、この機会にポツリポツリと話をすることができた。
ジュールからはルネを対等な相手として尊重してくれているのが伝わってくる。
言葉数が多い人ではないが、ジュールから伝わる気遣いはルネの心を温かくしてくれる。
ルネは、明日からの学園生活に向けて気合いを入れなおしたのであった。




