17 出会い②
白いハンカチに包まれたものを手のひらの上で広げると、数枚のクッキーが出てきた。端が欠けていたが、その香ばしい色合いに反応したのか、ジュールの腹が勝手に鳴る。
赤くなるジュールの顔を見て、ルネはただ静かに微笑んだ。
「会場から少し貰ってきたの。よかったらどうぞ」
「……いいのか。お前が食べようと思ってたんじゃないか」
「そこまでお腹が空いてないもの。本当よ」
ズイとクッキーが差し出される。
ジュールはプライドと空腹を天秤にかけて少し迷ったが、だがグウグウと鳴る腹と気持ち悪さには勝てなかった。
差し出されたクッキーをつまみ、サクッと噛んだ。
たっぷりと使われた砂糖とバターのおいしさが、口いっぱいに広がる。次々と手に取り、あっという間に半分平らげてしまった。
少し腹が満たされると、自分の身勝手さに気付き恥ずかしくなる。
「あ、ありがとう……それから、酷い言い方をしてすまなかった」
「心が弱ってるときはだれでも余裕がなくなるものよ。普段なら言わない言葉も、ついつい出ちゃう……私のお父様も、そう」
フッと少女の表情が陰った。
彼女にもなにか抱えているものがあるのかもしれない。
「お前は僕が誰か、知ってて優しくしてるのか」
同じ年齢の子供たちはジュールを馬鹿にするかへりくだるか、取り入ろうとする者はあからさまだ。公爵子息であるジュールと対等に話している少女に、ジュールは興味を惹かれたのかもしれない。
ジュールの疑問が口から零れた。
だが少女はキョトンとして、ゆっくりと首を横に傾げる。
嘘をついている様子でもない。
多くの人間に囲まれるジュールだ、それくらいは判別できる。
(打算もなく、ただ俺を助けた? そんな人間……)
頭では理解できるが今まで身近にいなさすぎた。
醜いジュールを、損得なしに助ける者などいるのだろうか。
少女にしたらほんの気紛れだったのかもしれない。それとも心から当たり前のことをしただけかもしれない。
ただその優しさが、乾いていたジュールの心をひたひたと満たす。
ジュールは指先でつまんだクッキーを、サクッと噛みしめる。
「俺は、お茶会なんて嫌いだ」
「そうなの」
ジュールが零した弱音を、少女はただ受け止めた。
「私は好きよ。だって美味しいお菓子が食べれるもの。それにあなたとも知り合えた」
眩しい少女の笑顔に、ジュールの胸がドキリと高鳴った。
ジュールにおもねるでもなく、自分の意見を言うルネがとても眩しく見えた。
「お、俺もお菓子は好きだ。でも周りの人間はみんな俺を馬鹿にするから嫌いだ。豚だって、不細工だって」
「なあにそれ、みんな見る目がないわ」
家族にも言えない弱音を、会ったばかりの少女に零す。そのことにジュールが自分で一番驚いていた。
うつむくジュールの顔を、少女は覗き込む。
少女の茶色い瞳が、まるでちかちかと光を放つかのようにまぶしかった。
「あなたの瞳はすごく綺麗。睫も女の子より長くて羨ましいくらい。鼻の形も口元も整っているし、ご両親もきっと素敵な方なんでしょうね」
髪の色こそそっくりだと褒められるが、家族に似ているなんて初めて言われたかもしれない。
太っているせいか手も顔もぱんぱんで、美しい家族の誰にも似ていない気がしていた。
少女はどうして、ジュールがほしい言葉を知っているのだろうか。
ジュールはどうして、こうにも少女の言葉を素直に受け止められるのか。
戸惑いつつも、ジュールの心は温かい気持ちで満たされていく。
「あなたは太ってることを気にしてるみたいだけど、私は好きよ」
今度こそジュールの顔は真っ赤に染まる。
好き? 好きだって?
心臓が早鐘を打つ。
「ごはんをいっぱい食べれるんだろうなって、羨ましいくらい」
「そ、そうか……」
屈託ない笑顔は、ジュールの胸を締め付ける。
好きだ。
ジュールは少女への初恋を自覚した。
「あ、あの、きみの名前は――」
勇気を振り絞って少女に名前を聞こうとした。
しかしそれは、突然木の陰から現れた侵入者によって阻まれる。
「グルルルル……」
真っ黒で、幼い二人にとっては身の丈ほどもあるような大きな野犬だった。
飢えている野犬が、どこからか忍び込んだのだ。あばらが浮いた細い体つき、なのに目だけはギラギラとジュールたちを見ていた。
「わ、うわあ!」
ジュールは驚いて、思わず立ち上がろうとして腰が抜けた。
膝から崩れ落ちて手足が土で汚れる。
「逃げて!」
叫んだのは少女だった。両手を広げてジュールの前に立ちはだかる。
「で、でも……」
動けない。
それに、女の子に守られて逃げるなんて紳士らしくない。
「いいから!」
少女は気丈に叫ぶ。
ジュールの前にいるのは同じ年頃の、ただの令嬢だ。
スカートから覗く二本の脚は、がくがくと震えている。
恐ろしいのだ。ジュールと同じように、怖いのだ。
当たり前だ。
「この……っ!」
動けないでいるジュールを守ろうと、ルネは近くにあった木の棒を掴むと必死に振り回す。
「こないで!」
「グウ、ウウウ……」
「こないで! 叩くわよ! い、痛いんだから!」
少女の振り回す棒はめちゃくちゃな動きだ。
ジュールは無我夢中で近くにあった木の枝を掴み、勢いをつけて少女の前に飛び出した。
「このっ! あっちへいけ!」
ガツンガツンと地面に棒を叩きつける。その拍子に地面に埋まっていた小石が、丁度犬の目に飛んでぶつかった。
「キャウン!」
野犬は情けなく叫ぶと、ヨタヨタと来た道を戻っていった。
少しして遠くから「おい、野犬が紛れ込んでるぞ! 捕まえろ」と叫ぶ大人の声が聞こえた。
(よかった……)
ジュールの身体からはへなへなと力が抜けた。
「ああ、びっくりした。ありがとう。あなた、勇気があるのね」
少女がジュールを見た。それだけでジュールの胸はドキドキと高鳴る。
野犬と対峙したときの鼓動とは違う、甘酸っぱい恋の音色だ。
慣れないことをしたジュールの柔らかい手のひらは、気付けば薄皮が擦り切れていた。
それに気付いた少女は、ジュールの手のひらにハンカチを巻く。
「汚してしまう」
「図柄の研究をしてて、たくさん刺繍してるの。減らないなら増やすなってお父様に言われてるから、貰ってくれると嬉しいわ」
そういえば先ほどから何枚もハンカチを出している。
なるほど、たくさん使って早く消費しようとしているのか。なんとも強かというか、面白い子だとジュールは思った。
もっと知りたい。仲良くなりたい。
それからよかったら結婚してくれないか。そんな突飛ともいえる発想が今、ジュールの胸の中を駆け巡る。
「ルネー! どこにいるんだ」
遠くから男性の声がした。
途端に少女はしまった、という顔をする。
「ごめんなさい、行かなくちゃ。また会えたらおしゃべりしましょう」
「あ……!」
どうやら親に呼ばれたようだ。去っていく栗色の髪の毛を見送りながらジュールは、自分の胸をギュッと押さえた。
「ルネ……」
ただの名前であろうと、口にするだけで愛おしさが増す。
彼女に相応しい男になりたい。守れる強さを手に入れたい。
ジュールの願いは誓いへと変わる。
◆ ◆ ◆
恍惚とした表情で愛するルネとの出会いを語る弟の姿に、ジャネットは若干驚いていた。率直に言うならば、その重すぎる愛情にやや引いている。
「ルネという名前を頼りに彼女を探し当てた頃には、既にルネには婚約者が決まっていた。だが俺にはルネ以外考えられないと、この気持ちを抱えて生涯を終えるつもりだったんだ」
「ちょっとルネ様への執着がキモイですよね。当時もらったハンカチを、こうして額縁に入れて飾ってるくらいだし」
ずけずけと言うリュカだが、それが許されるほどの関係性を二人は築いている。
ジュールは気を悪くした様子もなく、鷹揚に笑みを浮かべた。
「ふん、なんとでもいえ。今は俺が婚約者だ」
子供らしい初恋を忘れられず、独身を貫く気持ちでずっと想いを秘めていた。
我が弟にこんな一面があったということにジャネットは驚きながらも、内心「この物語は社交界で絶対にウケるわ」とガッツポーズを決めていた。
近寄りがたい美貌の若き公爵当主、その一途な初恋。
妹に陥れられ婚約者を奪われた挙げ句、悪評を流されたルネを守ろうとするジュールの恋心は、貴婦人なら悶絶するだろう。
女性は皆、ゴシップと恋の話が大好きなのだ。
この手でルネの悪名を濯いでいこうとジャネットが算段をたてていると、ふと気付いた。
(ジュールがどうしてルネを好きになったのかは分かったわ。でもルネはいったい、どのタイミングでジュールを?)
ルネが婚約破棄をされるまで、話を聞く限りジュールとルネの間には一切の交流がない。
疑問に思うジャネットだったが、その考えを振り払う。
そうやって自分の考えを押し付けて、つい先日ルネを悪女だと誤解してしまったのだ。
(あんなに「愛し合っているんです」と熱弁したルネだもの)
根掘り葉掘り聞くのも野暮というものだ。ジャネットはうんうんと頷く。
ジャネットが自分の思考に耽っている間、弟と従者はまたヤイヤイと楽しそうな話をしていた。
「というわけで、そろそろ婚約者として一歩踏み出しましょう! 食事のときにしか交流をしていないなんて勿体ない! ルネ様が明日、スケッチがてらピクニックに行くそうですので、ご一緒させてもらいましょう」
「な……ッ! 俺などが!? 恐れ多いだろう!」
「森の中は危険が多い……ジュール様、ルネ様を守るんですよ」
「ハッ……なるほど」
氷の公爵と呼ばれる弟が、表情豊かに随分頓珍漢な会話を繰り広げている。
(愛し合ってる……のよね?)
相変わらずジュールはルネのこととなると様子がおかしい。
それでも楽しそうな表情をしているのだから、ジャネットは姉として、弟の結婚を喜ぶことにした。
弟の結婚に横やりを入れる気は、もはやジャネットから消え失せていた。
明日の朝には帰ろう、もう大丈夫だ。ジュールの幸せそうな様子にジャネットは嬉しさを感じつつ、ほんの少しだけ弟離れをする寂しさに微笑んだ。




