12 身の程知らずな人間が。
「ルネ様、ですか?」
「ええ。なんでもいいわ。色々、思うことがあるでしょう?」
名前を聞くことすら忌ま忌ましいが、ここは仕方がない。
フォーレ公爵家に押しかけてきた悪女だ。さぞ悪口が飛び出すだろうと内心ほくそ笑む。
だがメイドは両手を合わせると、パアッと明るい表情をみせた。
「素晴らしいお方です! お優しくて謙虚で」
「は……?」
「先日卓上でティーポットを零してしまったのですが、許すどころか一緒になって拭いてくださって。私の火傷の心配までしてくださったんです!」
ジャネットは一瞬、なんの話をされているのか分からなくなった。
それから、メイドは誰かと勘違いしているのだろうという結論に達した。
「……ルネの話よ?」
「はいもちろん、ルネ様のお話です」
メイドは笑顔で答える。
私の知るルネとは別のルネが存在しているのだろうか? いやそんなわけはない。
「……下がってよろしくてよ」
こめかみに美しい指を添え、ジャネットは細く長くため息をついた。
どういうことだろうか。
「ええ、ええ。ルネ様は本当に人格者でらっしゃいます」
「初日に下膳を手伝おうとしたので慌てて止めました。ご実家でもされていたそうですが、令嬢らしくないですね」
「優しい方です。ジュール様も、遠くからでもルネ様を見守ってらっしゃる溺愛ぶりですよ」
「使用人は皆ルネ様をいい主人だと思っておるようですぞ。特に近いメイドたちからの支持は絶大のようですなあ」
屋敷を歩き回り、ジャネット自ら目に付いた使用人たちに話を聞いてみたが、概ね良い意見しか出てこなかった。
学園の生徒たちから聴き取った話と、まったく真逆の反応だ。
箝口令でも敷いているのか、はたまた結婚式を挙げるまではと猫を被っている可能性もある。
「なんという悪女なの……!」
ジャネットは手摺りを強く掴んだ。
午後の渡り廊下は静かで、通りかかる者は誰もいない。
弟を誑かすだけではなく、自分に都合のいいように周囲を騙している。
いやむしろ、ジュールのことも自分本位の嘘で騙しているのではないか。
こみ上げる怒りでジャネットの肩が震えた。
ジャネットはゆっくりと息を吸い、コルセットで細く締め上げた腹の底から全ての息を吐ききった。
「落ち着きなさいジャネット。ああいう手合いは一枚ずつ、化けの皮を剥がしていかなくてはね」
ジャネットは社交界デビューをしたときから、常に社交界の中心にいる。
流行を作るのはジャネットだと言われるほど、令嬢や夫人はジャネットに一目置いている。実家がフォーレ公爵家という背後に加え、この国の三公爵であるリュンカール公爵家に嫁ぎ、生まれも育ちも一流だ。
美貌、知性、それらは生来のものに加え、ジャネット自身が磨いてきたものである。
蹴落とそうと画策してくる女性も少なくなかったが、ジャネットはその危機を何度も乗り越えてきたのだ。
「本当の姿を暴いてやるわ」
ルネの腐った性根を明らかにしてやれば、ジュールも目を覚ますだろう。
ジャネットは渡り廊下の手摺りを握りながら、そう誓うのだった。
◇
邸内を移動していたルネが渡り廊下に差し掛かると、そこにはジャネットが立っていた。
手摺りを強く握りながら、鋭い眼差しで庭園を見つめている。
ジャネットはゴージャスな美貌の持ち主だ。普段以上に近寄りがたい雰囲気があるものの、素通りはできない。
ルネは持っていたスケッチブックを握り締め、ジャネットに声を掛けた。
「ジャネット様、ごきげんよう」
ルネの挨拶にジャネットは一瞬の間を置いてゆっくりと振り向いた。
「渡りに船ね……。ごきげんようルネ。お一人かしら」
ルネに身体を向けたジャネットは、ニッコリと微笑む。
今までなら取り付く島もない対応だったジャネットが、ルネに挨拶を返してくれたのだ。
軟化した態度にルネの声は弾む。
「はい。庭園に絵を描きに行く予定です。ジャネット様は」
お一人では退屈だろうが、絵を描くルネと一緒に来ても楽しませることができない。
よかったらお喋りにでもお付き合いできたら――そう思いルネが水を向けるが、ジャネットは意味深な笑みを浮かべた。
「わたくし、貴族たるもの愛や恋などより家を優先するべきだと思ってるの。恋に溺れて家を傾ける……わたくしはジュールを、愚かな寓話の主人公にするつもりはないわ」
「え……」
ルネはギクリと身体を強ばらせた。
二人の間に大きな風が通り抜ける。
ルネはこの一言で完全に理解してしまった。
ジャネットは、知ってしまったのだ。
「立場をわきまえないような人間は、我が家に相応しくないと思わない?」
公爵当主であるジュールが、従者と恋をしていることを知ってしまったのだ――!
ルネの表情から色が抜け落ちる。
それをどう受け取ったのか、ジャネットは泰然とした様子でゆっくりとルネの周囲を歩いた。カツンとヒールの音が鳴る。
「どんな手を使って弟を誑かしたのかしらね?」
渡り廊下には、カツンカツンと硬質な音が響く。
ルネの背中には、いやな汗が噴き出すようだ。
笑顔を見せてくれていたジャネットだが、今彼女から立ち上るのは怒りの気配だと気がつく。
ジャネットは淑女の表情を被り、ただ怒りを押し殺していただけだったのだ。
ルネは下唇を噛みしめる。
「ねえ、あなたはどう思う?」
真横に立ったジャネットは、震えるルネの顎を手元の扇でついと持ち上げた。
完璧な形をした赤い唇が、弧を描く。
これは獲物をいたぶる捕食者の笑みだ。恐ろしくて、ルネの視線はうろうろと彷徨う。
「身の程知らずな人間が。弟を騙して公爵家を乗っ取るつもりなのかしら」
その一言で、ルネは思わず至近距離のジャネットと視線を合わせた。
ジャネットの強い視線と同じくらい、ルネの瞳には力が溢れていた。
一瞬、ジャネットが怯む。
「そんなわけありません!」
ルネは大きな声を出した。
こんな大声を出したのは生まれて初めてかもしれない。
夫となる相手の家族に向かって、貴族令嬢らしからぬ声を出してしまったが、ルネは後悔などしていない。
(リュカは公爵家を乗っ取るつもりも、騙すつもりもない。それくらい、私だって分かる)
もちろんルネはただのお飾りの妻になる、それは分かっている。
露払いの人間のつもりで、ジュールはルネを選んだのだろう。
全てを理解したうえで、それでもルネはリュカとジュールを助けたいと、ただ与えられた役割ではなく友人としてそう思っていた。
だからその友人であるリュカを悪く言われることは、大人しいルネにとって思わず叫んでしまうほどの出来事だったのだ。
ルネは居住まいを正し、改めてジャネットに向き直る。
「ジャネット様はご存じでしょう? 公爵として過ごすジュール様がどれだけ重圧を抱えているのか。隣で癒やす相手が必要なのではありませんか」
ジャネットが明らかに気分を害した表情をした。
眉間に皺を寄せ、目じりを吊り上げる。
「なに知った口を。わたくしはこのフォーレ公爵家の娘よ。それくらい分かってるわ」
「でしたら! どうしてジュール様の味方になってくださらないのですか。どうしてジュール様の恋を応援してくださらないのですか」
「応援? するわよ、真っ当な相手ならね。でも残念、今回ばかりは相手が悪すぎるわ。娼婦にいれあげた方がマシだったでしょうね」
フンとそっぽを向くジャネットは、やはりリュカを受け入れがたい様子だった。
「認めたくない気持ちは、十分分かります。それでも、愛し合っているんです。ジュール様を支えたいという気持ちは、嫁いでしまわれたジャネット様よりも強い」
「生意気よ……! 伯爵令嬢風情が!」
「申し訳ありません」
言い過ぎたルネが頭を下げると、その隙にジャネットはフイと踵を返して去っていく。
どうしたら分かってもらえるのだろうか。
ルネはフウとため息をついた。




