3話 期待と明るい日常
午後からの仕事は、正直そわそわとして中々進まなかった。トイレに行くときにこっそり見ようかとも思ったが、まだ花にはそんな勇気はなかった。手帳型のケースに入っているスマホに時折視線を向けて、まるで愛しい人からの連絡を待つような心境の花は小さなため息を零していた。
これで、今日の仕事は終わり……!
誤字脱字のチェックをしてから、データを主任の莉世に送る。ホッとして、花はもう冷たくなり始めた珈琲を飲み干した。いつもと同じ珈琲なのに、どこか甘くて高ぶっている気分を和らげてくれた。
「有栖川さん、お疲れ様」
データを受け取った莉世はそう言って、花の仕事がもう終わったことを知らせてくれた。
「はい、お疲れ様でした!」
元気よく頭を下げた花に、優しく莉世は微笑んだ。
「お疲れ。俺は、あと少し。先に頑張れよ」
近くの席の和景が、まだパソコンに向かったままそう声をかけてくれた。二人とも、早く帰ってゲームを頑張れと言っているのだろう。
「うん、ありがとう。黒梅くん、頑張ってね。では、お疲れ様です。お先に失礼します!」
手早く帰り支度をした花は、いつものようにリュックサックを背負って一番に部屋を出た。いつもの残業仲間が、うらやましそうに彼女の背中を眺めていた。五時十分。こんな時間に会社を出るなんて、何時ぶりだろう。夏に差し掛かった七月の夕暮れは、まだ空が明るかった。
キャラクターのチェックもしたいな……。
歩きスマホはしたくなかった花は、寄り道をすることにした。今まで入ったことがない、会社近くのファストフードの店に入った。
「いらっしゃいませ」
レジにいたのは、まだ高校生くらいのバイトらしい少年だった。明るく花に対応してくれる。
「アイスコーヒーと、ポテトフライお願いします」
「今ポテトを揚げている最中なので、後でお席にお持ちしてもよろしいでしょうか?」
バイトの少年は、ちらりとキッチンの方に視線を向けた。そうして、申し訳なさげにそう花に告げる。
「構いません、お願いします」
花は代金を支払うと、アイスコーヒーと番号札の乗ったトレイを手に席を探した。店内はそんなに混雑はしていない。まだ明るい窓際の席を選んだ。
そろそろ、暑くなってくる時期だ。店内の冷房が心地よく感じる。
アイスコーヒーを一口飲んで、花は大事そうにスマホを取り出した。そうして、アプリをタップする。
「勇者様、お待たせ! お姿が出来上がりましたよ!」
ジュエルの言葉と共に、花に似たかわいらしいアバターが出来上がっていた。
「可愛い……!」
大きな声になりそうなのを、慌てて手で押さえて花は喜んだ。
「髪の色と、瞳の色を選んでください」
ジュエルの指示に従って、花は操作する。昔やったことがあるゲームのヒロインが、ピンク色の髪をしていた。その方が、可愛いよね。そう思って、髪の色はピンク。瞳は青色にした。
「じゃあ、次は勇者様の陣営を選んでください。光の加護を受けたエバンジェル王国か、闇の加護を受けたナイトレイド皇国。現在、闇陣営が栄えています」
花が触れなかった時間にも、ゲームを進めている人たちが多いのだろう。ナイトレイド有利、と表示されていた。
「私は――私は、光のエバンジェル王国!」
治癒師は、光の加護を選ぶと能力値が高くなる。これも、ずっと決めていたことだ。迷わずに、エバンジェル王国を選んだ。
「最後に、勇者様の職業を教えてくださいね!」
これを選ぶと、キャラクターが決まる。リセットしない限り、このゲームで生きる花の分身が出来上がるのだ。
「治癒師!」
花は、杖の形の武器のマークの治癒師を選んだ。
「おめでとうございます! エバンジェル王国に、治癒師の『アリス』さまが訪れました!」
ジュエルの声と共に、ラッパの音が響いて画面にアリスの名前が流れた。
「すごい」
草原が広がるフィールドに、まだ見習い装備である白い聖職者のローブに身を包んだ『アリス』が、杖を手に立っている。そうしてリリース記念のアイテムがたくさん表示されて、自動的に装備袋の中に入っていく。
「――『アルティメット・リベリオン』」
一生懸命画面を見ていた花の後ろで、声がした。花が振り返ると、ポテトが乗ったトレイを手にしたさっきのバイトの少年が立って、花のスマホを見ていた。
「あ! し、失礼しました! これで、注文の品はお揃いでしょうか?」
花と目が合った少年は、慌ててポテトをテーブルに置くと代わりに番号札を手にして、深々と頭を下げた。
「はい、揃いました。ありがとうございます」
スマホの画面が見られていたことに、花は少し恥ずかしくなって赤い顔になった。
「あはは、ゲームなんて恥ずかしいよね」
「いえ!」
花の言葉に、少年はあわてて首を横に振った。
「実は、俺も登録していて――楽しみです。では、ごゆっくりどうぞ」
頭を下げてレジの方に向かう少年の名札が、花の視界に残った。『藍葉』くん――ゲームの中で、彼とも会えるのかな? 高校生くらいなのかな。私と、あまり身長変わらない。
花はまたゲームで知り合える人が増えた楽しみが出来て、思わずにっこりと笑った。
ゲームのアリスは、しばらくレベル上げをしなければ他の機能が解放されないらしい。熱々のポテトとアイスコーヒーを片手に、しばらくまだ簡単な魔獣を倒しながら店内で過ごしていた。
そろそろ、店内がにぎやかになってきた。もうポテトもアイスコーヒーもなくなった花は、邪魔にならないように店を出る事にした。リュックを背負うとトレイを返却口に返して、自動ドアの方へと向かう。
「ありがとうございました!」
聞こえた声に、花は振り返る。さっきのバイトの少年――藍葉が、レジの向こうで花に向かってそう声をかけてくれたのだ。
「ごちそうさまでした」
花は軽く頭を下げて、ファストフード店を出た。
『アルティメット・リベリオン』を始めてから、なんだかいい事ばかりが続く。藍葉が花に声をかけてくれたのは店の方針だっただろうが、それでも花はなんだか嬉しくなった。
これまでなんとなく生きて来た花には、今まで見て来た景色が新しくきらきらと輝いて見えた。何かを頑張ろうとすると、こんなにも楽しくなるんだ。
弾んだ気持ちの花は、駅へと向かう。そう言えば、夕食を決めていない。さすがにポテトだけでは、お腹がすきそうだ。
「今日は、パスタでも食べようかな」
と言っても、冷凍食品だ。家の近くのスーパーのネット広告で、今日は冷凍食品が5%値引きになっていると電車の中で調べていた。
働いているといっても、まだ一年目だ。給与はそう多くない。貯蓄がそう多くある訳でもない。一人暮らしでは、何かと節約しなければならなかった。
最寄り駅で降りると、よく来ている安売りで人気のスーパーに入った。
「いらっしゃいませ――あら、今日はえらく早いのね」
レジにいるおばちゃんの中には、休みの昼間に買い物に来ている花の顔を覚えてくれている人も多い。仕事の日に訪れても遅い時間なので、その時間に入っているパートさんがちょうど出勤してきたのだろう。少し驚いた顔をしたのが、なんだか楽しい。
「なるべく、残業はしないことにしたんです」
冷凍のパスタは、二つで五百円。バジルソースパスタとほうれん草のクリームパスタをかごに入れて、知った顔のパートさんのレジに並んだ。
「夜遅くまで若い女の子が働いてるのは、物騒だからね。よかったよ」
パートさんがそう言ってくれたので、花は「はい」と返事をしてリュックの中に買ったばかりの冷凍食品を入れて、足取り軽くアパートに帰ってきた。
「さて、明日には新しい機能が解放されるかな?」
ご飯を食べてお風呂に入って、歯磨きも終えた。ベッドに横になると、再びゲームの画面を開く。今はまだ、チャットやフレンド登録も解放されていない。それに――重要な、PT機能。これを開放しないと、強い敵と戦えない。五人編成で、脱退しない限り五人で同じ敵と戦う。PTで戦いトップ成績を収めたプレーヤーが、王国や皇国の幹部という役職になる。エバンジェル王国の王座も、今はまだ空席だ。
まだまだ、楽しくなる『アルティメット・リベリオン』。花はその日遅くまで、レベル上げに励んで寝落ちしてしまっていた。




