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婚約破棄された書記官令嬢、私の帳簿一冊で貴族家の不正がまる見えだった

作者: 百鬼清風

 白亜の大広間には、夜会のざわめきが満ちていた。天井から吊られた水晶灯が、雲のように揺れながら光を散らし、磨き上げられた大理石の床に星のような反射を落としてゆく。その美しさに、人々は息を飲む。けれど私は、その煌めきのどこにも心を奪われていなかった。


 視線の先に立つのは、私の――元婚約者となる男、ルーカス・ヴァルデン子爵家嫡男。その横に寄り添うのは、噂の中心にいる令嬢マリアンヌ・ロートナー。二人は舞踏会の中央で人々に囲まれながら、まるで舞台役者のように笑っていた。


「本日、私はマリアンヌ・ロートナー嬢と婚約することを、ここに宣言する!」


 ルーカスの声が高く響いた瞬間、会場の空気が一斉に揺れた。歓声。拍手。驚き。さまざまな感情が渦のように混ざり、光の粒子を巻き込んで広がっていく。


 けれど、その中心で私は――ただ、静かに呼吸を整えていた。


「では、エレオノーラ・ハルトマン嬢。これまでの婚約は……破棄ということで」


 周囲の空気が、またざわめき立つ。

 そのざわめきを切り裂くように、マリアンヌが涼やかに微笑みを添えた。


「ごめんなさいね、エレオノーラ様。あなたは……少し、地味ですもの。社交界には、もっとふさわしい方が必要でしょう?」


 私は、少しだけ視線を伏せた。


 怒りは、なかった。

 悲しみも、ほとんどなかった。

 あるのはただ――静かな確信だけ。


 帳簿は嘘をつかない。

 嘘をつくのは人間だ。


「承知しました、ルーカス様」


 そう告げた私の声は、思った以上に穏やかに響いた。震えてもいなかった。


「……あっさりしているな。まあ、君のような成り上がり商家の娘には、この場は荷が重かったかもしれない」


 また一段とざわめきが起きる。


 成り上がり。

 野暮ったい。

 地味。


 彼らが口にする言葉はどれも薄っぺらく、虚飾のようだった。貴族家の当主であるクラウス子爵も、向こうで満足そうに腕を組んでいる。


 ――あなた方の帳簿にあった不自然な支出。

 ――虚偽報告と思われる数字の改変。

 ――軍需物資の“欠品”と“過剰計上”。


 すべて、私は記録している。

 書記官として淡々と“数字の嘘”を見つけ、その理由を探り続けてきた。婚約者の家の仕事だからではない。

 私は仕事に誇りを持っている。ただ、それだけだった。


「それでは、失礼いたします」


 軽く一礼すると、マリアンヌが唇を歪めた。


「去るのね? よかったわ、あなたが場にいると空気が重くなるもの」


 私は反論しない。

 反論する必要がなかった。


 静かな夜会の端を通り抜けながら、胸の内を整理する。


 ――婚約破棄。

 ――侮辱。

 ――そして、不正の痕跡。


 私が決別したのは婚約だけではない。

 私は今日、この華やかに見える世界そのものに別れを告げたのだ。


 外へ出ると、夜気が肌を撫でた。

 月の光は淡い銀を落とし、街路樹の影が揺れている。


 馬車乗り場へ向かう途中、背後から声がした。


「……エレオノーラ・ハルトマン嬢。少しよろしいか?」


 その声は、静かで深い響きを持っていた。

 振り返ると、黒い外套を羽織った男が立っていた。鋭い眼差しと落ち着いた佇まい――王宮監査局次官、グラハム・ラインベルク。


「舞踏会での件、拝見した」


「ご覧になっていたのですね。お恥ずかしい限りです」


「恥じる必要はない。恥じるべきは、嘘を吐いた者のほうだ」


 その言葉に、胸の奥がわずかに動いた。

 誰かにそう言われるのは、いつぶりだろう。


「ハルトマン嬢。あなたがヴァルデン子爵家の帳簿を整理していたのは、私も知っている。あなたの記述した注記は……興味深いものだ」


 胸の奥で、緊張が静かに締めつける。


 ――やはり、気づかれていた。


「監査局の目に留まるほどのものではありません。ただ、気づいたことを記しただけです」


「その“気づいたこと”が重要なのだ。数字は誤魔化せるが、矛盾は必ず残る。あなたはそれを見抜いた」


 グラハムは一歩近づき、声を落とした。


「あなたを正式に監査局書記官として迎え入れたい。……興味はあるか?」


 その言葉に、胸の奥で何かが静かに灯った。

 これまで曖昧な影の中にあった自分の価値が、初めて形を持って示された気がした。


「……私に務まるでしょうか」


「務まる。君の記録は、私が保証する」


 遠くで、夜会の音がまだ微かに響いていた。笑い声と音楽。華やかさの裏にある虚飾。その上に乗っていた自分が、今まさにそこから離れていく。


「承知しました。お受けします」


 グラハムは静かに頷いた。その目はただの上司のものではなく、ひとりの人間として私を評価する誠実な色を帯びていた。


「では、明日。監査局へ来てくれ」


「はい、ラインベルク次官」


 夜風が通り抜け、舞踏会の喧騒が遠ざかっていく。


 私は思う。

 今日、失ったものは確かに大きい。けれど――


 帳簿は嘘をつかない。

 嘘をつくのは、人間だ。


 記録を残したこの手が、必ず真実を証明する。


 そう、静かに確信していた。



 朝の王都は、昨夜の華やぎが嘘のように静かだった。石畳に落ちる日差しは白く、冷たい空気に混じるパン屋の香りが、街の目覚めを知らせている。私は外套の裾を押さえながら歩き、胸の奥に残る夜会の記憶をそっと押し沈めた。


 手に抱えるのは数冊の帳簿の複写。ヴァルデン子爵家で整理していた原本とは別に、自分の記録用として写しておいたものだ。

 ――職能の習慣は、時に自分を守る盾になる。


 王宮の外壁が近づくにつれ、空気が変わっていく。

 貴族たちが競い合うように飾り立てる邸宅とは違い、王宮の建物は飾り気が少なく、ただ重みと秩序を抱えて立っていた。これから働くことになる監査局は、その一角にある。


「……ここに入るのね」


 門衛に名乗りを告げると、すぐに通された。

 廊下の奥には、紙をめくる音、羽根ペンが走る乾いた音、足早に移動する靴音が絶え間なく響いている。

 この空間には虚飾がない。

 求められるのは、ただ数字と記録の正確さだけ。


「ハルトマン嬢、お越しになったか」


 落ち着いた声に振り向けば、グラハム・ラインベルク次官が立っていた。

 灰色の瞳は真っ直ぐで、昨日と変わらず誠実な光を宿している。


「本日からよろしくお願いします、ラインベルク次官」


「こちらこそだ。最初に、君のための机を案内しよう」


 案内された部屋には、壁一面を埋め尽くす書架があった。

 積み上げられた帳簿、分類ごとに色分けされた背表紙、空気に染みついた紙とインクの香り。

 その中心に、まだ使われていない木製の机が置かれている。


「ここが君の席だ。すぐ近くに資料棚もある」


「……ありがとうございます」


 胸の奥の緊張が、少しほどけた。


「さっそく業務に入ってもらう。昨日の夜、ヴァルデン子爵家に関わる帳簿を確認したが、君の注記が極めて重要だった」


 グラハムが机に数冊の帳簿を置く。

 開かれたページには、私が記した細かな注記がそのまま残っていた。


「揚げ足を取るような注記ではなく、矛盾を正確に示している。横流し、虚偽計上、物資の消失。どれも疑わしい」


「やはり、そうでしたか」


「君が職能を尽くした結果だ。誇れ」


 その一言が、胸の奥に深く染みた。

 華やかな場で侮蔑され続けたあの時間は、今日ここで塗り替えられる。


「ハルトマン嬢。君には、正式に監査局の書記官として、調査記録と帳簿照合を任せたい」


「承知しました。全力を尽くします」


 席に座り、私は羽根ペンを手に取る。

 白い紙が目の前に広がり、そこに文字を置く瞬間、身体の芯がゆっくりと温かくなった。

 数字と記録に向かう時の、この静かな高揚感。

 それは婚約破棄の痛みをはるかに超えて、私を確かに支えてくれる。


 昼過ぎに差しかかるころ、隣の机から声がした。


「君がエレオノーラ嬢か。エミール・ケッセルだ。噂は聞いてるよ」


 栗色の髪に明るい笑みを浮かべた青年が、書類束を抱えて立っていた。

 監査官だと聞いている。


「昨日の舞踏会は……なかなか派手だったみたいだな。でも心配するなよ。ここには社交界の噂より、帳簿の矛盾を気にする連中しかいない」


「それは、とてもありがたい環境ですね」


「だろ? ここじゃ泣いてる暇もないからな」


 軽口の裏に悪意はなく、むしろ職場の空気を柔らかくしている。

 私はわずかに笑い返し、再びペンを走らせた。


 ――その時だった。


 廊下の向こうから、早足で近づく音が聞こえてくる。

 規則性のない、焦った足音。


 まさかと思い顔を上げた瞬間、書庫の扉が勢いよく開いた。


「……エレオノーラ! ここにいたのか!」


 声を張り上げて立っていたのは、ルーカス・ヴァルデンだった。

 蒼白の顔が怒りと焦燥で歪み、息は荒い。


 空気が一瞬で凍りつく。


「ここは王宮監査局です。関係者以外の立ち入りは――」


「そんな規則はどうでもいい! お前、父上の帳簿に余計なことを……!」


「余計なこと、とは何を指しているのですか」


「とぼけるな! お前の注記が原因で、父上は監査対象になったんだ! どうしてだ、どうして婚約者だった俺の家を……!」


「元婚約者、ですね」


 静かに告げると、ルーカスの顔がさらに歪んだ。


「エレオノーラ、頼む……戻ってきてくれ。今なら……今なら――」


「戻るつもりはございません」


 ルーカスは言葉を失った。

 商家出身だと侮り、地味だと切り捨て、利用しようとした相手が、もう自分の意のままにならない現実を理解したらしい。


「私は記録しただけです。不自然なものを、不自然だと」


「エレオノーラ……!」


「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、あなた方でした」


 その瞬間だった。

 重い靴音が書庫へ響き、背後から冷ややかな声が落ちる。


「ヴァルデン子爵家嫡男。ここで何をしている」


 グラハム・ラインベルクが、静かに立っていた。

 瞳には容赦のない鋭さが宿り、ルーカスを正面から射抜く。


「ここは監査局だ。個人的な感情を持ち込む場所ではない。退去してもらおう」


「ち、違う! 私はただ……!」


「二度目はない。退け」


 冷たく切り捨てられ、ルーカスは蒼白のまま後ずさった。

 何か言いかけたが、結局何も言えず、逃げるように去っていく。


 扉が閉まると、書庫の空気がゆっくりと戻った。


「……すまない。嫌な思いをさせた」


「大丈夫です。もう……気持ちは揺れません」


「君が記録した事実が、彼らの罪を暴く。揺らがぬように」


 グラハムはそう告げ、机の上に新たな帳簿を置いた。

 その手の動きは丁寧で、私の行為を尊重する誠実さがあった。


 私は深く息を吸い、再び羽根ペンを取る。

 数字を追うたびに、不正の影がはっきり形を成していく。

 その輪郭が見えるほど、胸の奥に灯る小さな火が強くなった。


 ――私の仕事は、嘘を暴くこと。

 ――たとえ婚約を失っても、この手が残した記録は揺るがない。


 そう自分に言い聞かせるように、私は次の一文字を書き始めた。



 翌日、監査局の窓から差し込む光は柔らかく、紙の白さを一層際立たせていた。私は机へ向かい、昨日の続きとして新たな帳簿を開く。インク壺に羽根ペンを浸し、余分な滴を落とすと、ゆっくりとページをめくった。


 それは一見、何の変哲もない物資台帳だった。軍へ納品される食料、布地、干草、油、装備品。各地の倉庫へ送られた数量が淡々と記されている。


 けれど、数字の並びを追ううちに、胸の奥で嫌なざわつきが広がった。


「……確かに、おかしい」


 ヴァルデン家の帳簿に残っていた供給量と、この王都倉庫の受領量が一致しない。数字だけを見ると、ごく小さな差だ。だがその差が、月をまたいでも一定の幅で続いている。


 自然減ではない。

 記入漏れでもない。


 私は注記を付けながら、別帳簿と比較する。


「横流し、の可能性がさらに高いわね……」


 羽根ペンが速く動く。

 数字と数字が線のようにつながり、まるで地図のように不正の経路を描きはじめる。


 そこへ、低い声が届いた。


「朝から精が出るな」


 顔を上げると、グラハム・ラインベルクが書類束を抱えて立っていた。

 薄い影を落とす窓辺に立つ彼は、どこか静かだが、瞳には強い意志の光がある。


「次官、おはようございます。これをご覧いただきたいのですが」


「どれだ?」


「物資台帳とヴァルデン家記録の照合結果です。数量が三カ月連続で五〜七%削れています。自然減ではありません」


「やはりか」


 グラハムは帳簿を受け取り、素早くページをめくった。


「軍務局の調査では、受領した物資に不足はないと報告されていた。つまり……」


「報告書そのものが虚偽か、受領の段階で記録が操作されたか、どちらかです」


「どちらにせよ、ヴァルデン子爵家が関与している」


 彼の声音は、静かだが鋭い。

 私は頷き、新しい帳簿を差し出す。


「さらに港湾局の記録に、似た数字があります。量と品目が一致しすぎています。市場に流れた痕跡かもしれません」


「港湾局……そこまで手を伸ばしていたか」


「はい。表に出る取引ではありません。おそらく裏の商人と繋がっています」


 沈黙が落ちる。

 重さを持つ沈黙だ。


「……ハルトマン嬢。君には驚かされる」


「驚かせるつもりはありません。ただ……不自然な数字を見ると、理由を追わずにはいられないだけです」


「それが職能というものだな」


 グラハムがわずかに口元を緩めた。

 普段は厳しい空気をまとっている彼が見せる、希少な微笑だった。


「今日から、極秘調査班に君を正式に加える。君の分析なしには進められない」


「承知しました」


 胸の奥がゆっくりと温かくなる。

 婚約破棄で押しつぶされそうだった自尊心が、ここで少しずつ息を吹き返している。


 その時、部屋の外から足音が聞こえた。

 軽く、しかし慌ただしい足音。エミール・ケッセルが扉をノックもせずに飛び込んできた。


「ちょっとまずいかもしれないぞ。港湾局に先に動きがあったみたいだ」


「動き?」


「“何者かが台帳の確認に来た”って噂だ。監査局の名を騙った奴らしい」


 グラハムの瞳が鋭く光った。


「……証拠隠滅か」


「その可能性が高い。向こうはヴァルデン家の動きを察知したんだろう」


 エミールが私を見る。


「エレオノーラ嬢、大丈夫か? 君が記録を残したせいで、向こうは焦ってる。敵に回すには厄介な連中だ」


「大丈夫です」


 私は言い切った。

 迷いよりも、むしろはっきりした怒りが胸にある。


「数字を操作する人間に負ける気はありません」


 エミールが目を丸くし、グラハムは静かに頷いた。


「……ならば良い。だが念のため護衛をつける。調査の核心に触れれば、圧力も来るだろう」


「護衛までは必要ありません。私は書類を扱うだけで――」


「敵は数字ではなく“人間”だ」


 グラハムの声に、思わず言葉が止まる。


「数字を歪めた人間は、数字を暴く人間も歪めようとする。そういうものだ」


 その言葉に、背筋が少しだけ震えた。

 けれど恐怖ではない。

 自分が本当に“戦っている”のだという感覚が、そこで初めて実感を持った。


「ラインベルク次官。根本的な資料が必要です。港湾局ではなく……“軍務局の原本”を確認すべきです」


「理由は?」


「改竄が行われたのは受領記録です。軍への納入記録と照合すれば、どこで数字が消えたか分かります」


「なるほど……」


「ここに三種類の数字があります。ヴァルデン家が記した供給量、港湾局の取引記録、軍務局の受領記録――」


 私は机上の帳簿を三冊並べる。


「この三つが同じ数字を指す場所があるのに、別の箇所では必ずずれています。人為的です」


 グラハムが低く唸った。


「……見事だ」


「いえ、ただ数字を並べただけです」


「だが誰にでも出来ることではない。君は“矛盾の形”を見ている」


 その言葉は、これまで誰からも言われたことがなかった。

 胸の奥が熱くなる。


「すぐに軍務局に連絡を取る。原本を入手するには許可がいるが……私が動けば問題ない」


「ありがとうございます」


 グラハムが部屋を出ようとした時、ふと振り返った。


「ハルトマン嬢。……昨夜の君の言葉を覚えているか?」


「昨夜?」


「“私は虚飾の中には立ちません”と君は言った」


「……言いましたね」


「ならば、ここから先は虚飾を壊す道だ。覚悟してくれ」


 弱さを許さない声で、しかし温かさが滲んだ言葉だった。

 私は静かに頷いた。


「覚悟は、もう出来ています」


 グラハムは満足そうに目を細め、扉を閉めて出ていった。


 静かになった書庫で、私はペンを取り直す。

 新しい帳簿を開き、数字を追いながら、胸の奥で確信が強くなる。


 ――この不正は、単独では終わらない。

 ――もっと大きな影がいる。


 数字が示す矛盾が増えるほどに、影は濃くなる。

 その影が“誰なのか”はまだ分からない。

 けれど必ず暴ける。

 数字は嘘をつかない。

 嘘をつくのは、人間だ。


 羽根ペンの先が乾いた音を立てて走る。


 私の手が、真実の輪郭を描きはじめていた。



 軍務局の原本が監査局に届いたのは、翌日の昼前だった。分厚い皮表紙に王家の紋章が刻印され、何人もの役人の署名を経て運び込まれたその帳簿は、まさに“国家の記録”と呼ぶにふさわしい重さを持っていた。


「軍務局が、ここまで迅速に原本を出すとはな」


 書庫の中央で、グラハムが低くつぶやいた。

 その声にはわずかな驚きが混じっている。軍務局は普段慎重で、監査局に協力的とは言いがたい。だが今回は違った。


「それだけ、今回の件を重く見ているのでしょう」


「そうだろうな。……始めよう」


 私は深く息を吸い、原本のページを開いた。

 そこには、納入された物資の数量と品質、受領者の署名、確認印。王国の軍を動かす基盤となる数字が整然と並んでいる。


 最初の数ページは問題ない。

 だが、ページをめくる手が自然と緩み、胸の奥がざわつく。


「ここです」


 私は羽根ペンである箇所を示した。

 ヴァルデン子爵家が供給したとされる数量と、軍務局の受領量。その数字が――一致していない。


 しかも、それは一度ではなく、一定間隔を保ちながら繰り返されていた。


「供給量が多すぎるな」


「はい。こちらがヴァルデン家の帳簿に記載された供給量。そして軍務局の受領量は……少ない」


「差分が横流しに回された、ということか」


「その可能性が高いです」


 さらに私は、もう一つの帳簿を開いた。

 港湾局の裏取引記録――公式には存在しないはずの薄い帳簿だ。


「こちらをご覧ください。ここに記載された数量が、軍務局の不足分とほぼ一致しています」


 グラハムの瞳が細められた。


「……決まりだな」


「はい。この三つを並べれば、数字の流れが一つの線になります。供給量、受領量、流出量。すべてが辻褄を合わせようとしていますが、わずかな数字の揺れが逆に真実を示している」


「隠しきれていないというわけか」


「数字は嘘をつけませんから」


 私の声は、自分でも驚くほど静かだった。

 だが心の奥では、何かが燃えているのを感じる。

 婚約破棄で崩れたものが、今この瞬間、形を持って再構築されていく。


「軍務局側の署名者は?」


「確認します」


 私は署名欄を読み取った。

 そこに書かれている名前に、思わず手が止まる。


「……これは」


「どうした」


「受領署名をした軍務官が、ヴァルデン子爵家の親族です」


「なるほど。内部に協力者がいたわけだ」


「はい。しかも……」


 ページの端に、見慣れた筆跡がある。

 軍務局に提出した記録表の一枚に、ルーカスの筆跡にそっくりな“加筆”があった。


「ルーカス・ヴァルデンが……記録を操作しています」


「本人が?」


「可能性は高いです。彼が帳簿を触ることが何度かありました。その癖があります」


 グラハムは深く息を吐き、机に手を置いた。


「ハルトマン嬢。君の注記がなければ、この改竄には気づけなかった」


「私の仕事は、ただ記録を残すだけです」


「だとしても、これは国家規模の不正だ。……動くしかない」


 グラハムの声が低く響いた瞬間、扉が叩かれた。


「ラインベルク次官、準備が整いました」


 王宮警備隊の隊員が立っている。

 その顔には厳しい緊張が刻まれていた。


「逮捕令状も発行された。対象はヴァルデン子爵家の当主クラウス、ならびに関係者数名」


「……来たわね」


「エレオノーラ嬢。君も同行するか?」


「もちろんです」


 胸の奥に、冷たい決意が満ちる。

 あの夜会で侮辱された痛みは、もう感情ではない。

 この手で数字の真実を示す、それだけだ。


 王宮警備隊と共に監査局を出ると、石畳の上に緊張した足音が次々に響いた。

 昼の光の中、ヴァルデン子爵家の扉を叩く瞬間が近づいてくる。


 門前には、すでに使用人たちが青ざめた顔で立ち尽くしていた。


「クラウス・ヴァルデン子爵! 監査局および王宮警備隊だ! 扉を開けよ!」


 重い扉がゆっくりと開く。

 中から現れたクラウス子爵の顔は蒼白で、額には汗が滲んでいる。


「な……何の真似だ……?」


「軍務局への虚偽報告、物資の横流し、記録改竄。その容疑で連行する」


「ば、馬鹿な! 証拠はどこに――」


「ここにあるわ」


 私は一歩前に出た。

 手にした帳簿を、クラウス子爵に見せる。


「あなたの家の帳簿。軍務局の原本。そして港湾局の裏帳簿。三つの数字が、あなたの不正を示しています」


「や……やめろ……それを……それをどこで……!」


「あなたの息子が、私を軽んじたせいね」


 クラウス子爵の表情が歪み、膝が震えた。

 その横から、ルーカスが飛び出してくる。


「エレオノーラ! やめてくれ! 父上は……!」


「数字が、あなた方の罪を語っています」


「違う……これは……!」


「あなたの筆跡よ、ルーカス。あなたが記録を操作した証拠です」


 完全に声を失ったルーカスの顔に、光はなかった。

 マリアンヌが背後に隠れ、震えながら口元を押さえている。


「クラウス・ヴァルデン子爵。安静に従え」


 警備隊が前に出ると、クラウス子爵は抵抗もできずに連行された。

 ルーカスも同じく拘束され、崩れ落ちるように引き立てられていく。


「や……やめろ! 俺は……俺は悪くない……! 全部……!」


「全部、数字が語ることよ」


 その場の空気がしんと静まり返る。


 私は深く息を吐き、帳簿を閉じた。


 終わった。

 けれどまだ終わりではない。

 これからが本当の始まりだ。



 ヴァルデン子爵家が連行された翌朝、王都は妙な熱気に包まれていた。新聞売りたちが街角で声を張り上げ、人々は噂を餌にした鳥のように群がっている。どの店でも、どの広場でも、名前が飛ぶ。


「ヴァルデン子爵家、爵位はく奪らしいぞ」


「軍務局と組んで物資の横流しだとよ。国を揺るがしかねない話じゃないか」


「それを暴いたのが……誰だったか。書記官の令嬢だとか?」


 耳に入る声の一つ一つが、まるで別世界の話のようだった。

 だが、私が書いた注記と記録が、事態をここまで動かしたのだ。その事実が、胸の奥に微かに重さを残していた。


 監査局に出勤すると、廊下の空気がいつもよりざわついている。

 視線が集まる気配。それは嘲笑ではなく、明らかな敬意だった。


「エレオノーラ嬢、お疲れさまです」


「昨日の件……正直、お見事でした」


「君の注記がなければ、誰も気づけなかったと思うよ」


 周囲の声が温かい。

 私は軽く会釈し、机へ向かった。

 座った瞬間、深い呼吸が自然に漏れる。


「……落ち着かないわね」


 そこへ、エミールが歩いてきた。


「そりゃ落ち着かないだろ。今朝の新聞、見たか?」


「いえ、まだです」


「ほら、これ。三面だが大々的だぞ」


 エミールが新聞を広げる。

 見出しには大きく書かれていた。


《ヴァルデン子爵家、国家不正に関与。爵位剥奪の方針》

《原本と帳簿の照合で明るみに。王宮監査局が動く》

《不正を暴いたのは王宮書記官の令嬢――》


 最後の一行に、私の名前があった。


「……私の名前、出ているのね」


「そりゃ出るだろ。これだけ見事に暴いたんだ。隠す必要もない。むしろ誇っていいさ」


「誇る……」


「そうだ。胸張ってろよ」


 エミールの言葉は軽いようでいて、真意は重く誠実だった。


 私は新聞を折り、静かに机に置いた。


 その時、書庫の扉が開き、グラハム・ラインベルクが姿を現した。

 彼の表情はいつもより柔らかい。緊張よりも、何か確信を帯びた穏やかさを纏っている。


「ハルトマン嬢。少し、来てくれ」


「はい」


 私は立ち上がり、彼の後を追って執務室へ向かった。


 机の上には、王宮の封蝋を押された文書が置かれている。


「これは?」


「ヴァルデン子爵家に関する正式裁決だ」


 グラハムは文書を開いた。

 そこには、淡々と、だが容赦なく記されている。


《ヴァルデン子爵家、爵位および所領の剥奪》

《財産は王宮に没収》

《関係者は禁錮または罰金刑に処する》

《ルーカス・ヴァルデンについては、改竄の事実が認められ……》


「……重い裁決ですね」


「あれほどの横流しだ。軍が動かされれば命に関わる。軽い処分では済まぬ」


「当然、でしょう」


 その時だった。

 執務室の扉が、控えめだが震えた手で叩かれた。


「ラインベルク次官……ルーカス・ヴァルデンが、面会を求めています」


「拒否しろと言ったはずだが」


「何度も拒否しましたが……どうしてもと」


 私は静かに頷いた。


「ここで、私が応じましょう」


「本当にいいのか?」


「終わらせたいのです」


 グラハムは少し迷ったが、やがて頷いた。


「…分かった。だが無理はするな」


「はい」


 案内された小部屋には、椅子に腰を下ろすルーカスがいた。

 かつての気楽な笑みは消え失せ、そこには、数日のうちに別人のようにやつれた男がいた。


 彼は私を見るなり、立ち上がった。


「エレオノーラ……!」


「ご用件をどうぞ」


「俺を……助けてくれ……! 父上はともかく、俺は……俺だけは……!」


「あなたも記録を改竄しています」


「ち、違うんだ! 俺は……父上に命じられて……!」


「その言い訳は、数字の前には通用しません」


 ルーカスの顔が歪む。

 声が震え、唇が乾いていた。


「エレオノーラ……ほんの冗談のつもりだったんだ……! あんな婚約破棄の場で君を侮辱したのも……!」


「冗談で済む話ではありません」


「すまない……! 本当に、すまない……!」


 彼は膝をつき、涙を流した。

 その姿は憐れだったが、私の心は冷静だった。


「私を侮辱したことを許すつもりはありません。

 けれど、私があなたを責めているのは“個人的な感情”ではないのです」


「……じゃあ……何を……?」


「記録です」


「……記録……?」


「帳簿に残された、数字の真実。

 あなたが歪めようとした数字が、あなた自身を歪めた。それだけです」


 ルーカスは呆然としたまま震え、やがて崩れ落ちるように肩を落とした。


「……エレオノーラ……ごめん……本当に……」


「その謝罪は……記録には残りません」


 私はそれだけを告げ、背を向けた。


 背中に、ルーカスの嗚咽が落ちる。

 だが振り返りはしない。


 数字は嘘をつかない。

 嘘をつく人間が、罰を受けるだけだ。


 廊下に戻ると、グラハムが待っていた。


「……大丈夫だったか」


「はい。終わりました」


「そうか」


 グラハムは一歩近づき、低い声で言った。


「ハルトマン嬢。君は、記録を武器に人を救いもするが、時に切り捨てもする。……重い職だが」


「覚悟しています。書記官とは、そういう立場ですから」


「ならば、次は君自身の番だ」


「私自身……?」


 グラハムは手にしていた文書を差し出した。

 王宮の印章を押された任命書だった。


「エレオノーラ・ハルトマン。君を“監査局主席書記官”に任命する。

 これは上層部の総意だ。今回の功績をもっても、十分すぎるほどだ」


「……主席、書記官……」


「受け取ってくれ」


 胸の奥が熱くなり、目の裏にじんとした痛みが広がる。

 だが涙は落ちない。

 その代わり、深い呼吸がひとつ、身体を満たした。


「……ありがとうございます。心から、光栄です」


「こちらこそ、感謝する。君のおかげで、王国は大きな傷を避けられた」


「いえ、私はただ数字を並べただけです」


「その“ただ”をできる者がどれほどいるか、分かっているか?」


 グラハムの声は、静かに温かかった。


 私は文書を抱きしめるように胸に当てた。

 その瞬間、外から笑い声や噂話が聞こえてくる。

 社交界の声とは違う、日常のざわめきだった。


 ルーカスたちは転落し、

 私は新しい席を得た。


 ざまぁという言葉は使わない。

 けれど、数字が導いたこの結果こそが、揺るぎない真実だった。



 主席書記官としての初日。

 監査局の朝は驚くほど静かで、空気は澄んでいる。

 薄い陽が窓から差し込み、机の上の紙の白さを一層際立たせていた。私は新しい席に座り、深く息を吸い込んだ。


 机は磨かれた木の香りが微かに残り、筆記具はひとつひとつ丁寧に並べられている。

 私自身が整えた物ではない。

 出勤した時にはすでにこの状態だった。


 誰が――考えるまでもない。


「どうやら気に入ってくれたようだな」


 静かな声に振り返ると、グラハム・ラインベルクが立っていた。

 灰色の瞳が柔らかな光を宿し、口元には喜びを隠したような微笑が浮かんでいる。


「……ありがとうございます。まさか、この席が本当に私のものになるとは」


「当然だ。君がその価値を示した」


「価値……」


「そうだ。数字の矛盾を見抜き、組織を揺るがす不正を暴き、動じもしなかった。……賞賛されるべき仕事だ」


 今まで浴びたどの言葉よりも、胸の奥に温かく響いた。


「これからは、君がこの局の中心になる。私も協力を惜しまない」


「はい。精一杯務めます」


「そうしてくれ」


 グラハムは机の端に手を置いた。その仕草は丁寧で、どこか頼もしさを含んでいた。


「さて、今日からは君の仕事が増えるぞ。だが――」


「だが?」


「焦るな。君は一晩で全てを変えようとしてしまう。良いことだが……時には休むことも職能の一つだ」


 思わず小さく笑ってしまった。


「休み方を教えてくれる上司がいるとは思いませんでした」


「部下が倒れれば、組織も揺らぐからな。特に君のような人材は、代わりがきかない」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに熱くなる。

 婚約破棄の夜に投げつけられた侮辱は、ここで完全に消えていった。


「ラインベルク次官……」


「次官ではない。グラハムと呼んでくれて構わない」


「それは……局内で許されるのでしょうか」


「私が許す」


 静かな声だが、その奥に確かな感情が滲んでいた。


「……では、グラハム様」


 その名を呼んだ瞬間、彼の瞳が微かに揺れた。

 たったそれだけで、心臓が鼓動を強めるのを感じる。


「……よし。では仕事に戻ろう」


 肩口に落ちた声は、ほんの少しだけ照れていた。


 私は羽根ペンを手に取り、広げられた新しい帳簿へ目を向けた。

 その時、扉が控えめに叩かれる。


「エレオノーラ嬢、いいか?」


 エミールが顔を出した。

 手に書類を抱え、いつもの軽い調子を装っているものの、どこか神妙な雰囲気を漂わせている。


「どうしました?」


「社交界が動いてる。昨日の裁決が原因だろうな。噂じゃ、マリアンヌ・ロートナー嬢は完全に立場を失ったらしい」


「……そうですか」


「ルーカスのほうは、取り調べが続いてる。罪の重さが重さだからな。軽くは済まない」


「分かっています」


「……怒ってるか?」


「怒りではありません。数字が示す責任を、彼らが受けているだけです」


「なら良い」


 エミールはほっとしたように笑い、書類を机に置いた。


「それと……今日の午後、王宮から呼び出しがある。君の功績についての話だそうだ」


「私の……?」


「そうだ。内容は分からないが、たぶん褒賞だろうな」


「褒賞……そんな」


「当然だろ。書記官一人でここまでやったんだ。王宮だって動くさ」


 エミールが退出すると、私の胸の奥に複雑な感情が湧いた。

 喜び、緊張、そして少しの不安。


「……大丈夫だ」


 グラハムが静かに声を落とす。


「君なら、何も怖くない」


「そうでしょうか?」


「そうだ。数字を追う時の君の手の確かさを、私は知っている。誰よりも信頼できる」


 その言葉が、胸の中心に落ちた瞬間、世界の輪郭が少し変わった。


「……ありがとうございます」


「礼を言うのは私のほうだ。……君がここに来てくれたことに、心から感謝している」


 言葉は静かだったが、優しい熱を帯びていた。

 私は視線を落とし、胸の奥に灯った感情を大切に抱きしめる。


 午後になり、王宮へ向かうと、豪奢な大理石の廊下に陽光が反射し、金色の光が揺れていた。

 私は緊張を押し殺しながら歩き、呼ばれた部屋へ着く。


 そこで告げられたのは――


「王国は、あなたの功績を正式に認める。

 監査局主席書記官としての任命に加え、特別褒賞を授与する」


「特別……褒賞……」


「あなたの職能は、王国の未来に必要と判断した。以後も、その技量を存分に発揮してほしい」


「……ありがとうございます」


 胸が静かに震え、目の奥が熱くなった。

 だが涙は落ちない。

 数字に裏切られた日はない。

 今日もまた、数字が真実を照らしただけだ。


 王宮を出ると、空気は少し冷たく感じられた。しかし、心の奥に灯るものがあるからか、寒さは気にならなかった。


 すると、前方に立っている人影があった。

 灰色の瞳がこちらを見つめている。


「おかえり」


「……グラハム様」


「褒賞、おめでとう」


「ありがとうございます。……私、まだ実感がなくて」


「それでいい。実感がないほどの働きをしたということだ」


 グラハムが少し間を置き、そして言葉を選ぶようにして続けた。


「君が来てから、監査局は大きく変わった。私も……変わった」


「グラハム様が……?」


「そうだ。

 君を見ていると、数字の向こうにいる人間を考えるようになった。

 記録の重さも、その裏にある想いも」


 胸が熱くなり、鼓動が静かに高鳴る。


「エレオノーラ。これからも隣にいてほしい。

 書記官としてではなく……君という人としてだ」


 その言葉は、数字よりも真っ直ぐで、

 どの記録よりも温かかった。


「……はい。私も、そうありたいと思います」


 夕陽の差す王宮の入口で、

 私たちは静かに、しかし確かに未来を重ねた。


 数字は嘘をつかない。

 嘘をつくのは人間だ。


 けれど、人が真実を選ぶ時――

 それは数字よりも強い力を生む。


 私の未来は、静かにそこへ向かっていた。

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