9. まどろみ
「海くん、ちょっと待ってて」
つきみの言い付けを守り、ロビーのソファーに座ってただ時が過ぎるのを待つ。
途中一度つきみがやってきて、僕のパスポートを回収してフロントに戻っていった。
手持ち無沙汰になって周囲を見回してみると、制服を着たスタッフたちが仕事をてきぱきとこなしている。
ふと使い古した腕時計に視線を落とすと、時刻は午前11時になっていた。
昨日課長が職場に顔を出したのもその頃で――部長に散々絞られたのか、表情は虚ろで僕とは決して視線を合わせようとしなかった。
帰国したあとの生活を想像すると、心に靄が立ち昇る。
目の前に広がる明るい光景とのギャップにため息を吐いた瞬間、つきみが戻ってきた。
「お待たせ。もうお部屋空いてたから、アーリーチェックインしてきた」
「そうなんだ、全部お任せしちゃってごめん」
「気にしないで。海くんはここに来てくれただけでいいんだから」
何でもないことのようにつきみが言う。
その言葉が僕の心の中の闇を静かに振り払ってくれるようだった。
部屋に鞄を運んでくれるというスタッフに荷物を預けながら、つきみが「じゃあ、朝ごはん食べに行こう」と笑う。
「朝ごはん?」
「うん、おなかすいたでしょ」
そう言われてもう一度腕時計に視線を落とし、僕は時刻を現地時間に合わせていないことに気付いた。
バンコクと東京の時差は2時間――慌ててネジを巻き戻すと、世界は午前9時になる。
「行こう、まだ今日は始まったばかりだよ」
そう言ったつきみの笑顔は、あの夜よりも輝いて見えた。
それから、僕はつきみに連れられるがまま南国の生活を満喫した。
見上げれば遮るもののない空は青く広がっている。
視線を下ろすと、道路の両端にはいかにも熱帯らしい木々が生えていて、その先に白い砂浜が続いていた。
透き通る緑色から濃い青へとその身を染めていく海に見惚れていると、隣を歩くつきみが「あとでゆっくり行こうね」と微笑む。
道路をのんびりと歩いて海沿いにある小さな飲食店に入った。
僕たちが席に座っても、店員たちは気にする様子もなくお喋りに興じている。
僕が戸惑っていると、つきみが「海くん、何か苦手なものある?」と訊いてきた。
多分大丈夫だと答えると、暫くメニューを眺めたあとでつきみが店員を呼び、気怠そうな様子で近付いてきた彼女に呪文のような言葉を告げる。
明らかに英語ではない言語だから、恐らくタイ語なのだろう。
店員が店の奥に消えていったところで、僕は「すごいね」と素直な感想を言う。
「つきみ、タイ語できるの」
「できるっていう程じゃないよ。最低限、生活に必要な分だけ」
そのつきみの言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、店員が緑色の小瓶を二つ運んできた。
グラスに注ぐと見慣れた黄金色の液体がその姿を現す。
思わずつきみの顔を見ると、彼女は「折角来たんだから、楽しまないと」と悪戯っぽく笑った。
二人で乾杯をして飲んだビールは日本のそれよりもすっきりしていて、この暑さに一抹の清涼感をもたらしてくれる。
続いて運ばれてきた青菜の炒め物や豚肉の炙り焼きもおいしかった。
何より、大切なひとと食事をすることがこんなにも心を満たしてくれるのだということを、僕は随分と長い間忘れていたように思う。
久方振りに食事を楽しみながら、僕は一口一口その幸せを噛み締めた。
その内グラスが空になったのでドリンクの追加注文をしようと店員を見ると、今度は皆スマホに熱中している。
声をかけると面倒くさそうな様子を隠しもしないので、その素直さに僕は思わず吹き出してしまった。
「どうしたの、海くん」
「いや、店員さんたちが随分自由だなと思って。もし日本だったら炎上しちゃうかも知れないけど、ここはそういう心配もなさそうだね」
「そうだね。決められた仕事さえしていればお金もらえるし、そういう働き方があってもいいんじゃない。だって、ここはタイなんだから」
つきみの言葉は思いの外すんなりと僕の心に沁み込んでいく。
確かに、この世界には沢山の人々がいて、それぞれに違った生活を送っている。
それに正解も不正解もないのだ。
東京での日常を幻のように感じながら、僕は先程とは別のビールを愛想の欠片もない店員から受け取る。
口に運んだそれはやはり日本のものと味が少し異なるものの、変わらず僕の渇きを満たしてくれた。
そのあとは海沿いをのんびりと散歩してみたり、カフェで休憩をしてみたり、スーパーで何を買うでもなく商品をぼんやりと眺めたりして過ごした。
ここではゆっくりと時間が流れていて、僕の心も段々と穏やかさを取り戻していく。
一度ホテルの部屋に戻ってベッドに横になったところで、僕はまた夢の中に引き摺り込まれていった。
夢の中で僕はまだ小学生で、いつもの黒いワンピースを着たつきみと向き合いながら一緒に勉強をしている。
「ねぇ、一休みしよ」と言うつきみに僕は頷いて、それぞれテーブルの上のグラスを引き寄せた。
ストローを吸うと心地良い炭酸と共にほのかなレモンの味が口の中いっぱいに広がる。
――あぁ、この味だ。
懐かしい味に、僕は思わず頬を綻ばせた。
***
「――海くん、そろそろ行く?」
ノックの音に続いてつきみの声がする。
その言葉で現実に引き戻された僕は慌てて飛び起き、窓の外を見た。
気付けば世界は夜を迎え、空は深い青に染まっている。
「ごめん、つきみ。すぐ行く」
最低限の身支度だけを整えてドアを開けると、そこには――夢の中と同じく、黒いワンピースを纏ったつきみが立っていた。
「それじゃあ、行こうか」
つきみがそう言って微笑む。
その笑顔には、あの夜路上で見せた艶やかさの色が潜んでいた。