8. 別世界
窓の外を眺めると、遠くに高層ビルが見える。
海外経験がほとんどない僕は、タイも随分と都会なんだなと少し驚いていた。
日本がアジア唯一の先進国だった時代はとうの昔に過ぎ去っているが、それでも東南アジア諸国に比べればその差は歴然だと思い込んでいた。
僕が知っていた世界というものは、実在するそれよりも随分と歪んでいたらしい。
ちらりと隣の席のつきみを窺うと、彼女は特に何をするでもなくただ前を見ていた。
飛行機の席も離れていてゆっくりとつきみの顔を見ることができなかったので、じっとその横顔を見つめる。
その肌は15年経った今も白くやわらかで、ふわふわとした髪は頭の横でひとつに束ねられていた。
美しい大人の女性へと変貌を遂げたつきみは、普段会社で逢う女性たちよりも纏う空気が透き通って見える。
「――あの、つきみ?」
僕の声に反応して、つきみがこちらを向いた。
色素の薄い瞳に捉えられ、どきりとした瞬間――つきみは「なぁに? 海くん」と穏やかに微笑む。
その笑顔が脳裡にこびりついていた15年前の画と重なって、僕はようやく「あぁ、本当にこのひとはつきみなんだ」と確信することができた。
尋ねたいことは山程あった。
何故いきなり引っ越してしまったのか、これまで何をやっていたのか、何故昨日の夜あの場にいたのか、そして――神さまのスプーンはどこにあるのか。
それでも、僕の口から出てきたのは、笑ってしまう程陳腐な台詞だった。
「……元気だった?」
僕の問いにつきみが少しだけ驚いたように目を丸くして――そして、もう一度穏やかに微笑む。
「うん、元気だったよ。海くんも元気そうで良かった」
最近の僕が元気だったかどうかは非常に疑わしいが、今現在ここにいる僕は確かに元気に違いない。
僕が「お蔭さまで」と答えると、つきみが頷いた。
「夜行便、眠れなかったでしょ。あと2時間くらいかかるから、少し休んだら。私もうとうとしているから」
僕の目に映るつきみはとても眠そうには見えなかったが、そう言われた瞬間睡魔が僕に忍び寄ってくる。
ここは厚意に甘えたいところだが、次に目が覚めたらつきみがいないんじゃないかという一抹の不安が胸を過り、僕は「いや、でも」と抵抗を試みた。
すると――僕の顔をまじまじと見つめたつきみがそっと僕の手を握る。
「大丈夫、私はちゃんとここにいるよ」
優しい熱に手を包まれたその瞬間、僕の心を締め付けていた不安がはらりとほどけた。
その心地良さに抱かれたまま、意識の侵食に身を委ねる。
狭まっていく視界につきみの顔を捉えながら、僕は眠りの沼へと落ちて行った。
「――海くん、起きて」
甘い声が僕の意識を抉じ開ける。
バスはのろのろとその動きを止めるところだった。
他の乗客が降りていく間に準備を整え、僕たちは最後にバスを降りる。
そのままつきみに連れられて、今度は小型トラックのような車の荷台に乗り込んだ。
周囲の乗客たちとの距離感の近さに戸惑っていると、つきみが「これ、『ソンテウ』っていうんだ。パタヤにはタクシーがあまりなくて」と言う。
その言葉を聞いて、僕は初めて自分がパタヤという街に来たことを知った。
乗客と荷物をいっぱいに詰め込み、ソンテウが走り出す。
振動がダイレクトに身体を揺らし、ぬるい風が肌を叩いた。
大通りに出ると普通の自動車に混じってソンテウや二人乗りのバイクが大量に走っている。
日本ではなかなか見られない光景に心を奪われていると、つきみが「たまにはこういうのもいいでしょ」と楽しそうに言った。
ソンテウは乗客たちを順番に吐き出しながら、何処とも知れぬ目的地へと進む。
最後の乗客となった僕たちを乗せたそれは、クリーム色の壁のホテルの前でその役割を終えた。
僕が荷物を降ろしている間につきみが運転手にお金を払う。
彼らが走り去ったあとに「いくらだった?」と訊くと、つきみは「二人で40バーツかな。160円くらい」と答えた。
あまりの安さに驚いていると「普通は一人10バーツで乗れるよ。今回は距離が長かったから仕方ないね」と涼しい顔で言う。
国によって物価が違うのは当然だが、東京でタクシーに乗るのとは雲泥の差だ。
ホテルの入口に向かうと、気の良さそうなタイ人が笑顔で迎え入れてくれた。
英語は特段苦手ではなかったが、咄嗟に話そうとすると言葉が出てこない。
そんな僕の隣でつきみが「サワディーカー」と笑顔で言った。
そうか、世界中どこでも英語が通じるとは限らないのだ。
薄々と勘付いてはいたが、僕はこの旅においてもどうしようもない役立たずらしい。