7. 異国の地で
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飛行機を降りた瞬間、生まれて初めて知る匂いが僕の身体に纏わり付く。
これが異国の香りか――夜行便明けのぼんやりとした頭で、僕は前を颯爽と歩くつきみの背中を追いかけながら漠然と思った。
日本から飛行機に乗って6時間、僕たちが降り立ったのはタイの首都バンコクにあるスワンナプーム国際空港だ。
東南アジアを初めて訪れた僕はその空港の巨大さに面食らっていた。
コンクリートの壁に囲まれた無機質な道はどこまでも続いているかのように見える。
その果てしない道のりを、呑気なスピードで稼働する『動く歩道』を横目に僕たちは自分の足で進んでいった。
「ねぇ、つきみ」
前を行くつきみを呼び止めようとするが、つきみは「なぁに? 海くん」と声を上げながらもその足を止めない。
機内で彼女が履き替えたサンダルは、あの瓶に詰められた月の砂のように銀色に輝いていた。
決して低くはないはずのヒールの音を小気味よく響かせながら、つきみは力強い足取りで前に進んでいく。
この15年間でだいぶ地球の環境にも順応したのだろうか――その背中にはあの頃のような儚さはなく、瑞々しい生命力に満ち溢れて見えた。
入国審査場で「海くん、あっちの方が空いているからあっちに並ぼう」と言われるがまま列に並ぶ。
つきみに話しかけようと思いつつも、彼女はスマホを片手に何やら色々と調べている様子なので、僕はおとなしく黙っていることにした。
その間にも、僕の脳内では様々な思考が巡る。
――そもそも、何故僕は今バンコクにいるのか。
あの夜、手を差し伸べたつきみに対し、僕は思わず「うん、一緒に行こう」と口走っていた。
すると、彼女はその言葉を予期していたかのように口角を上げて「じゃあ明日の夜10時に羽田空港で」と言い残して去って行く。
夢見心地でその後ろ姿を見送りながら、つきみの連絡先を知らないことに気付いた瞬間、上着のポケットに入れていたスマホが震えた。
確認してみると、見知らぬ番号から飛行機の電子チケットのリンクが届いている。
きっとつきみだ――直感的にそう判断し、僕はそのまま家に帰った。
シャワーを浴びてベッドに潜り込んだものの、色々なことがありすぎてなかなか寝付けない。
結局意識が途切れたのは、空が少し白んできた頃のことだった。
翌朝始業時間ギリギリに出社すると、前の席の課長がいない。
昨晩は随分酔っていたから二日酔いにでもなったのだろうか――そう思いながら鞄を持って突っ立っていると、背後から係長が「渡瀬くん、おはよう」と声をかけてきた。
「課長なら暫く戻ってこないよ。パワハラの件でさっき部長に呼ばれていったから」
「――えっ、パワハラ?」
係長は涼しい顔で頷く。
「よく渡瀬くんあの人の下で何年も耐えたね。仕事はそこそこできるし部下以外には良い顔しか見せないから問題になってなかったけど、昨日の動画を部長に見せたらさすがに動いてくれたよ。渡瀬くんも多分人事からヒアリングされるんじゃない?」
「……動画?」
つきみが撮ったのは写真のはず――そう首を傾げていると、係長が胸ポケットからスマホを取り出した。
「俺の同期も昔あの人にやられたんだ。だから、どうしてもしっぽ掴んでやりたくてさ」
その瞬間、会社に来られなくなった先輩の顔が脳裡によみがえる。
何も言えなくなった僕に、係長は申し訳なさそうな顔をした。
「とはいえ、昨日は守ってやれなくてごめんな。その代わりといっちゃなんだけど、俺にできることあったら言って。何でもやるから」
「……えっと、赴任早々申し訳ないんですけど、明日と月曜日休みもらっても良いですか?」
恐る恐る告げたところ、係長は「そんなんで良いの?」とあっさりしたもので、僕は拍子抜けする。
そのまま直近の業務の引継ぎだけを行い、定時で帰って荷造りを終えた僕はつきみとの約束通り羽田空港に到着することができた。
やる気のなさそうな係員に入国を許可してもらい、僕は正式にバンコクの地に足を踏み入れる。
しかし感慨に耽る間もなく「海くん、こっち」とつきみに引っ張られて預け荷物をピックアップし、そのまま彼女の背中を追いかけて外に出た。
外界の空気に触れた瞬間、じわりとした熱と湿気が僕を包む。
日本の夏とはまた違った感覚に、ここが海外であることを思い知らされながらバスに乗り込むと、今度は一転強烈な冷房に晒されることとなった。
「良かった、間に合って。このバス、1時間に1本しかないんだ」
隣の席に座ったつきみがそう言って笑う。
やがて発車のベルが鳴り、バスはゆったりとその大きな図体で進み出した。
空港から外界に出ると光の世界が広がっている。
早朝の高速道路に車の姿はまばらで、僕たちを乗せたバスはぐんぐんと速度を上げていった。