6. もう一度、ミルクティー
そして二次会を終えて帰ろうとしたところで、僕は課長に腕を掴まれる。
「――なぁ、何だよ今日の態度。冷めたツラしやがって、俺のこと馬鹿にしてるんだろ」
課長の目は赤く充血し、こちらを鋭く見据えていた。
僕は引き攣りそうになる顔を慌てて笑みで塗り潰し「そんなことないですよ」と返す。
会議室の中では怒号を轟かせても他の人がいる前ではおとなしくしている課長だが、今日は随分と酔っていた。
周囲をちらりと窺うと、関わり合いになりたくないのか皆そそくさと帰って行く。
一体どうやって切り抜けようかと逡巡した、その瞬間――
「上司に口答えすんじゃねぇよ!」
怒鳴り声と共に突き飛ばされ、僕は深夜の路上に背中から倒れ込んだ。
その時、ぺきり、と微かな、それでいて確実に何かが喪われた音が、僕の耳に響く。
「……え?」
僕は即座に起き上がり、背中のリュックを下ろした。
そして――自分の身に何が起こったのかを思い知る。
そう、チャックに付けていたキーホルダーの小瓶が割れ、色褪せた月が今にも零れ落ちようとしていたのだった。
現実を受け止められないまま、それでも無意識にその月をすくい取ろうとしたところで、背中に再度衝撃を感じて僕はそのまま地面に這いつくばる。
蹴りを入れられたんだということは、振り返らずとも理解できた。
「課長、さすがに暴力は――」
「あ? 暴力じゃねぇ。これは指導だ」
背後で行われるやり取りを聞きながら、僕は身体を起こして地面を見下ろす。
目の前に広がるのは闇に染まったアスファルトだけで、あの色褪せた月はどこにもなかった。
瞬間、僕は理解する。
――あぁ、僕はもう二度とつきみに逢うことはできないのだと。
あの月と共に、僕はつきみとの唯一の繋がりも喪くしてしまったのだ。
それに気付いた瞬間、身体の奥の方で、ぽきり、という音が鳴った。
だとしたら、何故僕は生きているのだろう。
毎日毎日誰かから責められて、終わりの見えない仕事のために神経をすり減らして、生きる楽しさなど何もなくて――こんな思いをしてまで、この世界に留まる理由は果たしてあるのだろうか。
背後からは変わらず罵倒の言葉が叩き付けられている。
今の僕にとって、それはただの雑音でしかない。
しかし、その雑音よりも大きく、これまでのすべてが崩れていく音が僕の中で響いていた。
そう――こんな人生ならば、いっそ。
「――もう、終わってしまえばいい」
ぼそりと呟く。その声は、きっと誰にも届かなかっただろう。
――届かなかったはずだ。
――ピロン
深夜の路上に、場違いな音が鳴った。
「――こんばんは、随分と賑やかですね」
その甘い声が響いた瞬間、脳裡からあたたかい記憶が引き摺り出される。
振り返ると、そこにはスマホを構えた女性が立っていた。
黒いキャップの下から覗く髪は、夜の空気の中で鮮やかに煌めいている。
そう、それはまるで日曜の朝に飲むミルクティーのような色をしていた。
ピロンピロンピロン
彼女は立て続けに音を鳴らす。
呆気に取られていた課長が我に返って「おい、撮るな!!」と声を荒げた。
「何で? 撮られたら困ることでもあるんですか?」
「肖像権の侵害だ!」
「私のやっていることが肖像権の侵害なら、あなたがやっていることは何ですか?」
スマホの持ち主がじろりと課長を見据える。
その顔を、僕は二度と見ることができないはずだった。
しかし、彼女は確かに15年間の歳月をその身に刻み、立っている。
「それじゃあ、選択肢を差し上げましょう。私と一緒に警察に行くか、このひとに謝って写真を消してもらうか。ちなみに、私はどちらでも良いですよ」
艶然としたその微笑みはこの緊迫した状況下にはとても似つかわしくないが、有無を言わせない迫力があった。
彼女に詰め寄ろうとする課長を係長が止める。
彼女は顔色一つ変えず、笑顔のまま立っていた。
「――さぁ、どうします?」
その内に、課長が憤懣やる方ない顔をしながら「……悪かったよ」と呟く。
何も言えずそのまま地面に這いつくばっている僕に、彼女が目配せをしてきた。
僕が無言で頷くと「はい、このひとに感謝してくださいね」と言いながら、彼女がスマホを操作する。
未だに気が立っている様子の課長は、係長や他の同僚に宥められながら帰って行った。
やがて、路上には彼女と僕だけが取り残され、彼女――つきみは、僕に手を差し伸べながらこう言った。
「――ねぇ、神さまのスプーンを探しに行こうよ」