5. 大人の味
僕が新卒で入社した会社は、そこそこ名の知れたメーカーだ。
特に苦労することなく内定を得ることができた僕は営業職として配属され――そこから坂道を転がり落ちるように人生は悪化の一途を辿っている。
入社して数ヶ月は何の問題もなかったが、教育係だった先輩が或る日突然会社に来なくなった辺りから雲行きが怪しくなった。
どうやら僕は営業職に適性がないようで、何をするにもいちいち時間がかかる。
例えば、案件を受注する上では顧客と工場サイドの調整が肝となるが、どちらの意見も聞いているとなかなか落としどころが見付けられない。
それならばと課長に相談に行っても「渡瀬は良い大学も出て優秀なんだからそれくらいできるだろ」と半笑いで相手にされない。
その上先輩がやるはずだった仕事まで積み重なっていき、僕はどんどん追い込まれていった。
結果的に顧客や工場から課長に連絡がいき、僕はしばしば会議室に呼び出されては、烈火の如く怒りをぶつけられる。
生まれてこの方こんなに激しく怒鳴られたことはなかった。
最初の内は一丁前に傷付いたりもしたが、それが常態化すれば感情はぴくりとも動かなくなる。
ただ、じりじりと自尊心が削られていくのを静かに感じながら、先輩もこうやって会社に来れなくなったのかも知れないと思った。
それでも課長は仕事で成果を出していて社内外から受けが良い。
そんな彼を前にすれば、落ちこぼれの僕に市民権などないのだ。
顧客との打合せに行けば「この価格で他社さんに勝てると思います?」と嘲笑われ、会社に帰れば工場サイドから「こんな納期で作れるわけないだろうが」と詰られ、課長のサンドバッグになったあとは夜中まで働き、週末は泥のような睡眠かやり残した業務で潰れ――そんな日々を送っている内に、もう就職してから4年が経とうとしていた。
ぷしゅーと間の抜けたような音がして外界への扉が開く。
窓の外を見ると自宅の最寄り駅に到着していた。
席から立ち上がると共に、抱えたリュックに付けたキーホルダーがちりんと揺れる。
小瓶の中の月は15年の間に少しずつ色褪せ、光を喪っていた。
のろのろと降りていく乗客たちの背中には色濃い疲労感がへばりついていて、僕も彼らに続いて闇の中へと足を踏み出す。
家に辿り着いた時にはもう午前1時を過ぎていた。
何も食べていないがこの時間では食欲も湧かない。
ただ、無力感と絶望で塗り潰された日々を少しでも労いたくて、僕は冷蔵庫から缶チューハイを取り出して一気に煽った。
粗悪なアルコールと強い炭酸、そしていかにも大量生産で造りましたと言わんばかりのべったりとしたレモンの味が口内を蹂躙し、僕の喉を焼いたあとで胃に流れ落ちていく。
――ふと、つきみの家のリビングで飲んだ炭酸水の味を思い出そうとして、僕はすぐに諦めた。
きっと今の僕が飲んでも、あの味をおいしいとは思えないのだろう。
雑多な経験に塗りたくられてしまった今の僕にとって、あの味は繊細過ぎた。
そして、ただ貪るだけの眠りと溜まった事務処理対応で何の生産性もない週末を終え、終電帰りの2日間を生き抜いた水曜日の午後10時半――僕は時間が一刻も早く過ぎ去るよう願いながら、人数分のハイボールをインターホンで注文する。
目の前では課長がマイクを握り締め、気持ち良さそうにダミ声を響かせていた。
今晩は支社から転勤で来た係長の歓迎会だった。
課長の部下兼僕の上司となる彼は非常に切れ者で、課長のご指名による異動らしい。
一次会で既に課長は上機嫌に酔い、僕がどれだけ無能かを係長にインプットしていた。
僕は作り笑いを浮かべながら、味のしないビールとつまみをただ口の中に流し込む。
地獄のような時間が終わってやっと帰ろうとしたところで「おまえは仕事ができないんだから飲み会の幹事くらいやれ」と無理矢理カラオケに連れ込まれた。
店員が運んできたハイボールを配っている内に課長の歌が終わる。
すかさず係長が「いやぁ、噂で聞いた通りの美声ですね!」と笑顔で言った。
「何だよ、そっちの支社まで俺の噂広まってんのか」と課長も笑い、他のメンバーも皆笑みを浮かべている。
この中で心の底から笑っていないのは、きっと僕だけだろう――そう思うと自分は社会の不適合者なのだと背筋が寒くなり、僕はハイボールを煽ってから必死で作り笑いを浮かべた。