2. 神さまが落としたスプーン
つきみの話によると、我々地球人が観測できていないだけで月には生命体が数多く生息しているらしい。
月では科学技術が著しく発展していて、この世に生を受けた直後にありとあらゆる知識が脳内にインプットされる仕組みになっているそうだ。
だから地球の小学校のテストなど解けて当たり前なのだと、つきみは何でもないことのように言った。
そして彼らの存在は高性能なバリアーによって他の惑星の誰にも知られることなく、ひっそりと平和に暮らしているらしい。
しかし、特別なミッションを背負って地球に来ている存在もいるそうで、つきみもその中の一人だという話だった。
「地球での生活は思ったより大変かな。やっぱり重力が違うから、身体にかかる負担がものすごくて。だいぶトレーニングはしてきたつもりだけど、普通に生活するだけでやっと」
そう言って、つきみは少しだけ困ったように眉を下げる。
正直なところ、つきみがどこまで本気で言っているのかはわからない。
しかし、それでも僕につきみを疑うという選択肢はなかった。
つきみが月の住人であろうが、僕にとっては大きな問題ではない。
つきみがつきみであることこそが、僕にとっては一番大事なことだった。
「そう、それでつきみは何で地球に来たの?」
「探しものがあって」
つきみもまた、僕が彼女の話を信じることが当然であるかのようにさらりと答える。
「月の神さまが大切なスプーンを地球に落としちゃって。これまでにも色々な国を探してきたんだけど、なかなか見付からないんだよね」
「スプーン? それ、そんなに大切なものなの?」
「そりゃあもう。だから、絶対に見付けて帰らなきゃ」
つきみのやわらかい色の瞳に、すっと意志の光が宿った。
その真剣な表情に、いつか彼女が月に帰ることを知った僕の胸がちくりと痛む。
それでも、そんな戸惑いをつきみに知られたくなくて僕は思わず口を開いた。
「――ねぇ、僕も手伝うよ」
つきみは僕の言葉を予期していたかのように、ごく自然に「ありがとう」と微笑んでみせる。
「それで、落とし場所の心当たりはあるの?」
「うん、海だって」
「……海?」
僕の引き攣った顔を見て、つきみが首を傾げた。
「つきみ、一応訊くけど、海がどれだけ広いか知ってる? 僕にはそのスプーンがとても見付かるようには思えないんだけど」
そうかなぁ、とつきみがその体勢のまま悪戯っぽく笑う。
「落としたスプーンは月の材質でできていて、月の光に反応して光り輝く仕組みになっているから、透き通った海の中ならすぐにわかるよ。砂漠で砂粒ひとつ探すよりよっぽど簡単だと思わない?」
実際のところ海は透き通ってばかりではないし、砂漠で砂粒を探すなどという苦行と比べられても困るのだけれど、つきみがそう言うなら何とかなりそうな気がした。
しかし、僕たちが住んでいる街は海から遠く、現実問題僕たちだけで海に行くことは難しい。
どうしようかと考えあぐねたところで、ふと僕は良いアイデアを思い付いた。
「そうだ。7月に臨海学校で海に行くはずだから、その時に探そうよ」
僕の言葉に、つきみの瞳がきらりと期待の色を含む。
そこからは勉強そっちのけでどうやってスプーンを探すかという話で盛り上がった。
前に先生から話があったが、臨海学校は2泊3日の予定で自由時間もあるらしい。
さすがに勝手に抜け出すわけにはいかないので、その自由時間の時に探そうという話になった。
「じゃあ、約束ね」
つきみが小指を差し出す。
僕は迷わず、自分の小指を絡めた。
あいかわらず細い細いその指は、こころなしか僕のそれよりもひやりとしている気がする。
僕たちは小声で指切りをして笑い合った。
その瞬間は確かに、僕の世界は僕とつきみ二人だけのものだったと思う。
***
――しかし、約束の日、つきみは集合場所に現れなかった。