10. 海は月夜に神と笑う
夜のパタヤの街は、僕が想像していたよりも随分と穏やかだった。
この辺りは繁華街から離れているからか、日中は観光客と家族連れで賑わっていた白い砂浜もこの時間になるとほとんど人気がない。
そんな夜の道路を僕とつきみは二人で黙々と歩き続けていた。
少しずつ外灯が疎らになってくる。
それでも、月が僕たちの歩く道を照らしてくれるお蔭で、迷いなくその先に進むことができた。
そして足に疲れを感じ始めたところで、つきみの足がぴたりと止まる。
僕も立ち止まってつきみの顔を見ると、彼女は穏やかな笑みを浮かべて「ついてきて」と言った。
つきみは道路を外れて木々が生い茂る脇道を進んでいき、僕もそのあとを追う。
月光が遮られた薄暗い中を5分程歩き、ようやく辿り着いたそこは岩場と山に囲まれた小さな砂浜だった。
「――ここ?」
僕がぽつりと呟くと、前に立っていたつきみが波打ち際に向かって歩き出す。
ぼんやりと眺めているとそのままつきみが平然と海の中に足を進めていくので、僕は驚いて「つきみ!」とその名を呼んだ。
しかし、つきみは留まることなく歩き続け――胸の辺りまで海に浸かったところでその足を止める。
つきみが海の中に消えていってしまうのではないかと不安に駆られていた僕は、思わず安堵の息を吐いて彼女の元へと走った。
砂浜に足を取られながらも、僕はつきみに少しずつ近付いていく。
意を決して波打ち際に足を踏み入れると、海は穏やかなあたたかさで僕のことを迎え入れてくれた。
思ったよりも水温が高く、ひとまず風邪を引く心配はなさそうだ。
そのままつきみの所まで進もうとしたところで――視界の端にきらりと光るものを見付けた気がした。
思わず僕は足を止めて、もう一度その光のあった場所を見つめ直す。
すると、確かにもう一度、光が僕に向かって瞬いた。
その光に引き寄せられるように僕は手を伸ばす。
水面を突き抜けて砂浜に手を差し入れたところで、指先に硬いものが触れた。
迷わず掴んで持ち上げたそれは、スプーンの形をした銀色の光だった。
「海くん、見付けてくれてありがとう。それが神さまのスプーンだよ」
振り返ると、そこにはつきみが立っていた。
黒いワンピースは海に塗れ、身体の線をくっきりと際立たせている。
僕の脳裡に臨海学校の日の花田さんの姿が過った。
しかし、目の前のつきみのその肢体からは、色気ではなく厳かさが溢れている。
月をバックに僕を見つめるつきみの姿は、まるで女神のように神秘的だった。
「――月に、帰るの?」
僕はやっとの思いで言葉を紡ぐ。
それを聞いたつきみは一瞬真顔になったあと、今度は艶やかに微笑んでみせた。
「海くんとだったら、地球で暮らすのもいいかな」
そんな気まぐれにも聞こえる言葉に、卑屈な自分が顔を出す。
僕はつきみに釣り合わない。
小学生のあの頃ならまだしも――何の役にも立たなくなってしまった、今の僕では。
「……僕はそんな大したやつじゃないよ」
やっとのことでそう言葉を絞り出すと、つきみが「そんなことない」と困ったように眉毛を下げる。
そして、ワンピースのポケットから何かを取り出して僕に差し出した。
「海くんは私にとって大切なひとだよ。だって――あなたは私のことを助けてくれたもの」
差し出されたものの正体に、僕は思わず目を見開く。
「転校したてで緊張していた私と友達になってくれた。なかなか学校に行けない私に毎日プリントを届けてくれた。家で一人ぼっちだった私といつも一緒にいてくれた。私の言葉を信じて神さまのスプーンを探してくれた。そして――私に、この銀のスプーンをくれた」
その手の中には、僕が15年前に渡したイルカのスプーンがあった。
「銀のスプーンは幸せの証。赤ちゃんが生まれた時、その子の人生が幸福に彩られるよう人々は願いを込めて銀のスプーンを贈るの。私は海くんにもらった銀のスプーンで生まれ変われた。だから――次は海くんの番」
僕は自分の手の中の銀のスプーンを見つめ直す。
そのスプーンは月の光を反射してきらきらと輝いていた。
「世界は私たちの想像以上に広いんだから、今いる閉じられた場所の中だけで生きなくたっていいんだよ。だって――私たちはその気になればどこにだって行けるもの」
つきみが自分のスプーンをポケットにしまう。
まるで誰かの命を扱うかのように、そっと優しい仕種で。
そして、おもむろに彼女は僕の左手を取って自らの左胸に押し当てる。
思いがけない行動に息を呑む僕を、つきみはまっすぐな瞳で見つめていた。
「――ねぇ、わかる?」
つきみの濡れた口唇が甘い声を紡ぎ出す。
その声に誘われるように、僕は緊張で強張った手から力を抜いた。
感覚の戻った掌の下で、やわらかな熱と確かな拍動が命を刻んでいる。
見つめ返したつきみの瞳は、月の光を帯びて金色に輝いていた。
「私が今もこうして生きていられるのは、海くんのお蔭なんだよ。だから、これだけは覚えていて。私はあなたがいてくれるだけでいい――それだけを伝えたくて、私はあなたに逢いにきたの」
つきみの言葉が、僕が抱えていた灰色の日々を一閃する。
消えることなどないと思っていた暗闇は鮮やかに破壊され、そこに一条の光が射し込んだ。
右手でスプーンを握り締めると、指の隙間から銀色の光が洩れる。
まるで、つきみが僕に託したあの月の砂のように。
――でも、もうその光は僕の手から零れ落ちていくことなどない。
それに気付いた時、僕の視界が熱を含んで揺れた。
俯いて必死で歯を食いしばり、想いが溢れないように耐える。
こんなにも誰かのまっすぐな愛情を感じたのは、生まれて初めてだった。
「……ありがとう、つきみ」
涙を滲ませながらもやっとの思いで言葉を絞り出して、僕はゆっくり顔を上げる。
すると、目の前に立つつきみの両目から大粒の涙が零れ出していた。
驚いて言葉を喪う僕の前で、透き通った雫がきらきらと白い頬を伝う。
咄嗟に僕はその涙を指で拭って口を開いた。
「あの――つきみのこと、一生大切にするから」
思わず飛び出したその台詞に、つきみが目を丸くする。
変なことを言ってしまっただろうかと後悔していると、不意に彼女が小指を差し出した。
「――じゃあ、約束ね」
月の神さまは嬉しそうに微笑んでいる。
その表情を見て、僕も笑って小指を絡めた。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
本作は純文学の公募用に書いた作品を改稿したものです。
「神さまのスプーンを探しに行く」というアイデア自体はずっと自分の中にあったのですが、なかなか形にならないままものを書かなくなって10数年……結果、このような形で生まれ変わりました。
当時考えていた話はもう少し暗いお話だったのですが、海外のカラーも加わってなんだか違った雰囲気のお話になって良かったかなと思っています。
今いる場所がつらかったとしても、世界は広いから。
私たちはきっと、どこにでも行けるのです。
以上、お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。