1. 月から来た少女
「――ねぇ、神さまのスプーンを探しに行こうよ」
地に伏す僕に手を差し伸べた彼女は、そう言って穏やかに目を細めた。
『海は月夜に神と笑う』/未来屋 環
僕がつきみと出逢ったのは、小学4年生の時のことだ。
「天野つきみです」
先生の隣に立つその少女は、僕の平凡で退屈だった日常を鮮やかに破壊した。
色素の薄い髪が陽の光を反射して、きらきらと金色に輝く。
その時、教室の一番後ろの席に座っていた僕は、今更ながらに自分を含むクラスメートの髪色がすべて黒いことに気付いた。
並み居る闇を飛び越えて、僕の意識は彼女が放つ光に引き寄せられる。
親の仕事の都合で海外を転々としていたというつきみは、この日本の片隅でおとなしく暮らしていた僕からすると、まるで物語の中の住人のように思えた。
「それじゃあ天野、一番後ろの空いている席――渡瀬の隣に座って」
思いがけない先生の台詞に、僕は身を固くする。
軽やかな足音と共に近付いてくる眩さとどう向き合えば良いのかわからず、僕は慌てて俯いた。
隣でがたりと椅子を引く音がしたあと、沈黙がぽつりと落ちる。
その後先生が連絡事項を話している間も、僕は下を向いたままずっと黙っていた。
「――ねぇ」
耳元で囁かれた声の甘さに、こらえきれず僕は顔を向ける。
そこには、先程まで遠い存在だった転校生の穏やかな笑顔があった。
透き通るように白くてきめ細やかな肌が、まるでマシュマロみたいだなんて思う。
先程まで金色の光を纏っていた髪は、実のところ日曜の朝に飲むミルクティーのような色をしていた。
ふわふわとしたその髪を揺らしながら、彼女は首を傾げてみせる。
「私、つきみ。あなたの名前は?」
「……渡瀬海」
さすがに無視をするわけにもいかずぼそりと呟くと、つきみは「海くん」と僕の名前を小さく復唱した。
その声に胸を揺さぶられて、だけど返す言葉が思い付かなくて、僕はまた黙り込む。
そんな様子を気にする素振りもなく、つきみは僕に手を差し出してきた。
細く長い指を無言で見つめていると、つきみはもう一度「ねぇ」と口を開く。
「海くん、私とお友達になって」
特段断る理由が思い付かず、僕はおずおずと頷いた。
すると、つきみが差し出した手の小指を立ててみせる。
「じゃあ、約束ね」
どうやら指切りをしろということらしい。
か弱い指がそれこそ生玉子みたいにひしゃげてしまうのではないかと心配になりながら、僕もそっと小指を差し出した。
つきみの小指が僕の小指にきゅっと絡む――そのやわらかなぬくもりを感じた瞬間、僕の身体の深奥がじわりと熱を帯びる。
――あぁ、僕はこの子を守るために生まれてきたのだ。
本能的に湧き上がったその想いに酔いしれながら、僕はつきみを見つめ返す。
つきみは髪色と同じく色素の薄い瞳をぱちぱちと瞬かせながら「ずっと、仲良くしてね」とこそりと呟いた。
そして僕の想像以上に、つきみはか弱い少女だった。
体調不良で学校を休むことはしょっちゅうで、登校していても体育の授業を見学で済ませることも少なくない。
また、つきみの住む家は学校から一番遠い場所にあり、近所に住んでいるクラスメートもいなかったため、つきみの家にプリントを届けるのは隣の席の僕の役割となった。
その義務を果たすべく、僕は足繁くつきみの家に通った。
「海くん、いらっしゃい」
こぢんまりとしつつもおしゃれな一軒家のチャイムを鳴らすと、黒いドアを開けてつきみが僕を出迎える。
何度来ても、家にはいつもつきみ一人しかいなかった。
僕の顔を見ると嬉しそうに笑みを浮かべるつきみは、体調不良と言いつつ普段とあまり変わった様子を見せない。
学校では他の女子たちと同じような格好をしているが、家ではいつも黒い無地のワンピースを着ていて、それがまた彼女の美しさを引き立てていた。
そのままつきみの家のリビングで一緒に勉強をするのが僕たちの日課だった。
ろくに授業も受けていないはずなのに、つきみの成績はすこぶる良かった。
つきみが転校してくる前は僕が学年トップだったのに、1学期末のテストで鮮やかに抜き去られ、以降ずっと2位の座に甘んじている。
僕には勉強くらいしか取り柄がないから、口惜しさというよりも彼女に釣り合う人間になるために日々勉強に勤しんだが、それでも成績で勝てたことは一度もない。
「つきみは塾とか行ってるの」
小学5年生に上がり、そろそろ梅雨に差し掛かろうかというその日も、僕たちはリビングで勉強をしていた。
つきみはきょとんとした顔でこちらを見つめ返す。
「ううん、行ってないけど――どうして?」
そう言って、水色に透き通るストローをくわえ一口啜った。
テーブルの上には、ほのかにレモンの味がする炭酸水のグラスが置かれている。
普段家で飲むジュースと違うその味に慣れるまで少し時間がかかったが、いつしかそれは僕の好物となっていた。
「いや、つきみ頭良いから、何か特別な勉強でもしているのかと思って」
すると、つきみはうーん……と物思いに耽るように中空を見つめる。
ぱちぱちと瞬く度に揺れる長い睫毛を見ていると、本当に彼女は僕と同じ生きものなのだろうかと不思議に思えてくる。
テレビに出ている女優やアイドルでさえも、つきみの圧倒的な存在感の前では霞んでしまうのではないかと僕は思った。
その内に、彼女が観念したように小さく息を吐く。
「わかった。海くんにだけ、私の秘密を教えてあげる」
「……秘密?」
思わず問い返すと、つきみが僕の顔を見た。
窓の外から射してきた光が、つきみの瞳をきらきらと輝かせる。
薄いグリーンにもブラウンにも見えるその瞳に捉えられるまま僕もつきみを見つめ返すと、彼女は整った顔を少し綻ばせて笑った。
「――実は私、月から来たんだ」