――遠ざけられた町――
「神津町って、知ってる?」
学校から帰ってきて、部屋でなんとなく調べものをしていたときだった。
ネットの地図アプリの中に、ふと目に入ったその名前。
なぜか目が離せなかった。文字の並びも、場所も、地理的な意味でも特に特別ではないのに——
心の奥に、小さく波紋のような感覚が広がった。
(神津町……どこかで聞いたことがあるような……)
思い出せない。
でも、懐かしい気がする。理由もなく。
母にその名前を口にしたとき、彼女の手が一瞬止まったのを、遼は見逃さなかった。
「神津町? ……なに、それ」
「ん? いや、ちょっと気になって。調べものしてたら出てきて……」
母は目をそらして、お茶の入ったマグカップに視線を落とした。
そして、それ以上なにも言わず、無理やり話題を終わらせるようにテレビの音量を上げた。
翌日、遼はひとりで図書館へ向かった。
地元ではないので情報は多くなかったが、昭和の終わり頃の古い郷土誌に、その町の名前を見つけた。
──豊かな森と川に囲まれた自然の町。かつては夏に「灯縁祭」という祭礼が行われていた。
亡くなった人々の“魂の灯”を川辺に送る静かな祭りだったという。
(灯縁……灯の縁、か。なんか、きれいな名前だな)
何かが引っかかる。
祭りの名前、川の描写、亡くなった人。
それらが、遼の夢に出てくる“あの風景”と不思議なほど重なっていた。
そしてその夜、ついに遼は母にこう切り出した。
「夏休みさ、少し一人で出かけたいんだ。神津町ってところなんだけど」
母は無言になった。顔を上げず、洗い物の水音だけが部屋に響く。
「……藪から棒ね。どうしたの?そんなこと言いだして」
「……なんでかな。自分でもわからない。けど、行かなきゃいけない気がするんだ」
言ってから、自分の言葉の意味に遼自身が戸惑う。
“行かなきゃいけない”——それは感情ではなく、もっと深い場所から湧き上がった衝動だった。
母は、ふうっと小さく息を吐いた。
「……あの町は、あんたが行くような場所じゃないわ。なんにもない、ただの田舎よ」
「いいんだ。俺、騒がしいのはもう疲れた。この町は人も、音も多すぎる。……俺、静かなとこに行きたい」
沈黙。
長い間、母は黙っていた。
そしてぽつりと、背を向けたまま言った。
「空き家になってる死んだおばあちゃんの家が、まだ残ってる。……行くなら、そこに泊まりなさい」
唐突な話だったはず。
予想していないその言葉に一瞬戸惑う。
「……え、ああ。わかった。ありがとう」
出発の朝。
駅まで見送りに来た母は、何か言いたそうにしながら、結局何も言わなかった。
改札を抜ける直前、遼が振り返ると、母は小さく笑って、手を振った。
その目は、少し潤んでいるようにも見えた。
電車に揺られながら、遼は窓の外の景色をぼんやりと見ていた。
ビルが低くなり、山が近づき、空が広がっていく。
都会では味わえない“透明な時間”が、そこにあった。
(なんなんだろう、この感じ。……帰ってきた、みたいな)
けれど、それはおかしな話だ。
この町に来たことなんて、一度もないのだから。




