自由
自由というのは思ったより怖い。
誰にも縛られてないはずなのに「こうあるべき」がこびり付いてとれない。制服のシャツのボタンを上まで閉めた僕を鏡は『普通』だと映してくれた。その普通がどうしても苦しかった。
風が、髪を撫でていく。
春の朝、学校へ向かう道すがら、まだ咲ききらない桜の花が、ふわりと舞った。
そのひとひらが肩に落ちたとき、僕は、立ち止まってしまった。
窓ガラスに映る自分を、ふと見てしまったから。
少し伸ばしはじめた髪。前髪がまつげの上に触れるたび、くすぐったくて、でも、どこか安心する。
制服のシャツの下に合わせた、紺のプリーツスカート。母のタンスから借りたやつ。
今日はリップも、少しだけつけてみた。透明だけど、光に当たると少しきらめく。
――これが、“好きな自分”だ。
でも、好きな自分を出すのは、怖かった。
怖い。
誰かに見られることが。
誰かの言葉に、また僕は刺されるんじゃないかと。
「なにその髪、女みたい」
「男のくせに、キモ」
過去に言われたことなんて、いくらでもある。
“男”はこう、“女”はこうって、決めつける言葉に、僕はいつも、居場所をなくしていた。
本当は、小さい頃からずっと、可愛いものが好きだった。リボンとか、ふわっとしたスカートとか、ピンクの色合いとか。
女の子みたいだって言われることに、最初は意味なんてわからなかった。でも、みんなが笑ったから、それは“ダメ”なことなんだって、思い込んでしまった。
僕は、なんで生まれてきた姿と、好きなものがこんなにずれてるんだろう。
どうして、“普通”に生きるだけで、こんなに疲れるんだろう。
「自由になりたい」って思うのに。
いざ、自由になろうとすると、足がすくむ。
自由って、明るいはずなのに、その手前にある影が、どうしようもなく深いんだ。
そんな僕の手を引いてくれたのが――速斗だった。
「透は、好きな格好すればいいじゃん。
俺は、そういう透が一番かっこいいと思うけど」
初めてリップを塗って、学校に行こうとした朝。玄関の前でずっと動けなくて、時間だけが過ぎていった。鏡の中の自分は、何度見ても不安で、恥ずかしくて、でも、どこか誇らしくて。
その全部がぐちゃぐちゃに混ざって、吐きそうになっていたとき、速斗が言ってくれた。
「好きなものを好きだって言う透の方が、ずっとかっこいいし、……めっちゃ可愛いよ」
その言葉で、心の奥にずっとあった、閉じた扉が、少しだけ開いた気がした。
それから、少しずつ、僕は“好き”を身にまとうようになった。リップも、ピン留めも、スカートも、ぜんぶ。好きなものを着ると、不思議と背筋が伸びる。呼吸が、深くなる。
でも、誰もが受け入れてくれるわけじゃない。
教室のドアを開けるたび、誰かの視線を感じた。
目を逸らされることも、ひそひそと笑われることもあった。
それでも、速斗は変わらなかった。
いつも通りのトーンで「今日の透、いいじゃん」って言ってくれた。
わざとらしくない、照れ隠しみたいな笑顔で。
そのたび、僕のなかで“怖さ”と“好き”の天秤が、少しずつ傾いていった。
好きって、強い。
でも、それを信じるまでが、すごく、長い。
ある放課後、雨が降る校舎裏のベンチに座っていたら、一人の後輩が声をかけてきた。
「先輩って、男……ですよね?」
戸惑った表情。でも、攻撃的ではなくて、ただ、真剣だった。
「うん、男だよ」
「なのに……そういう格好、して、平気なんですか?」
僕は少しだけ、黙った。
傘の中にこもる雨音が、静かに響いていた。
「怖かったよ。今も、怖いことある。……でもね、好きなものを“ないふり”してる、隠してる自分の方が、もっと怖かったんだ」
その言葉は、もしかしたら自分に向けたものだったのかもしれない。
彼女は目を伏せて、それからふっと、小さく笑った。
「……私も、本当はスラックスがいいんです。スカート、落ち着かなくて。でも、言えなくて」
そのとき、僕は気づいた。
“自分を出すこと”は、自分のためだけじゃないってことに。
「それ、刺繍? すごく綺麗だね。……無理して隠すより、そうやってさりげなく出してる方が、ずっと素敵だと思う」
彼女は一瞬きょとんとしたあと、ふっと微笑んだ。
それは、小さな解放がほどけるような笑顔だった。
傘の向こう、灰色の空のすき間に、うっすらと光が射していた。
そのとき僕は、自由になることが、誰かの勇気にもなれるんだと、初めて知った。
文化祭が近づいてきた頃、ファッションショーの参加者を募る掲示板の前で、速斗が僕に言った。
「なあ、出なよ。“自由”がテーマなんだろ? 透以上にぴったりなやつ、いねーよ」
僕は笑った。震える笑いだったけど、嘘じゃない、笑いだった。
「……俺さ、透が“好き”を着て、ステージに立つとこ見たいんだよ。絶対、誰かの光になるからさ」
そのとき、胸が熱くなった。
涙があふれそうになって、でも、こらえた。
それは、誰かに見せるためじゃなく、自分自身の“自由”を祝うためだった。
文化祭の日。僕はステージに立った。
白いブラウス、淡いレースのスカート、髪には小さな花飾り。ライトが照らす。僕の足元に、光の道ができる。
一歩踏み出すごとに、過去の自分が少しずつ剥がれていく。
「男だから」なんて誰かの声も、「普通でいろ」なんてルールも、今の僕にはもう必要なかった。
観客席のどこかから、速斗の声が響いた。
「透――!! 最高に、かっこいいよ!!」
その声を背中に感じながら、僕は笑った。
スカートが揺れる。リップが光る。
僕は今、“好き”を身にまとって、ちゃんとこの世界に立っている。僕はもう怖くない。
自由ってのはきっと何かの上に立っていると僕は思う。怖さの上にこの美しさはあるのだと。
誰かの評価なんか気にしないで自分の好きな自分を、自分が1番好きでいられるのならそれがきっと自由なのだと思う。
あなたの『好き』はきっとあなたを輝かせる羽になる。傷つけられても、それを折らない勇気がきっとあなたを輝かせる。輝ける場所はある。どうか、自分の美しさを信じて欲しい。