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6話 シャルロッテ様 前編






 王都の社交界には、見た目も振る舞いも華やかな貴族たちが数多く集う。各種の宴や舞踏会、茶会、儀礼の場など、人目を引く機会は多く、彼らはそれぞれ華麗な衣装や巧みな化粧を駆使して自分の存在感を際立たせていた。

 けれども、中にはその舞台にうまく溶け込めず、苦悩を抱える者もいる。とある夜会では、貴族の令嬢が眉をひそめながら噂していた。


「ねえ、聞いた? あの娘、またスッピンだったらしいわよ。せっかくの夜会だというのに、まるで化粧というものを知らないみたいで、あれじゃ余計に浮いてしまうわ」

「まあ。わざと目立たないようにしているのかしら? それとも、おしろいの使い方すら分からないんじゃなくて?」


 ひそひそと交わされる言葉の矢が、その『あの娘』の耳に届くことはない――はずだった。だが、当の本人はそこまで愚鈍でもない。周囲の目や口さがしさに気づきながら、今日もまた仮面のような無表情を貼りつけてやり過ごしていた。


 貴族の令嬢。名をシャルロッテ・エストレアという。


 金色を帯びた淡い茶の髪、物静かな性格。見た目は決して悪くない。むしろ、柔和で上品な雰囲気を持つと称賛する声さえ一部にはあった。だが、彼女が社交界で嘲笑の的になっている大きな理由は、そのスッピンにあった。


 王都の貴婦人たちは外出時に当たり前のように化粧を施す。白粉(おしろい)で肌を白く見せ、頬にはチークを乗せて血色を添え、口紅や光沢液で唇を彩る。アクセサリーの輝きと華やかさをさらに引き立てる要素としても、化粧は重要なファクターだった。

 ところが、シャルロッテはそれができなかったのである。


 たとえば、おしろいを少しでも顔に塗ると、決まって赤いぶつぶつが浮かんできてしまう。チークをたたけば、頬がただれたようになってしまう。そして、肌の弾力を見せるために使う光沢液は、塗って数分すると息苦しさを覚え、ひどいときには胸が痛むほどの症状が出た。


「一体、私はどうしてこんな体質に生まれたの……」


 子どもの頃からそうであり、医者に相談しても「気のせいか、体が弱いから安静にしたほうがよい」程度のアドバイスしかもらえなかった。日々の養生に気をつけるよう勧められるだけで、原因は分からないまま。


 やがて社交界デビューの年齢に達しても、シャルロッテはろくに化粧ができず、周囲の華麗な装いの中で一人だけ地味に見える。もともとの容姿が悪いわけではないが。


「化粧すらできないのか」

「おしろいを塗らないなんて貴族の風上にも置けない」


 などと揶揄される日々が続いた。

 最初のころは必死に体に合うおしろいや光沢液を探し、幾度も試した。しかしどれも肌に合わず、ぶつぶつや息苦しさに悩まされる結果に終わる。しまいには「そろそろ嫁の貰い手もないだろう」と陰口を叩かれるほどになり、シャルロッテは表舞台から逃げるように姿を消すことが増えていった。


 ある日、彼女は自室の奥にある小さなソファに座り、今日も外出の予定をキャンセルしたばかりであることに気まずさを感じながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 春のやわらかな陽射しが差し込むにもかかわらず、彼女の心は重たかった。


「……どうして私だけが、こんなふうに苦しむの。普通に化粧をして、普通に笑って、社交界で友達を作って……そういう当たり前の夢すら、叶わないなんて……」


 嘆息するシャルロッテ。今では外に出るのが怖い。周囲の視線や誹謗中傷が頭をよぎり、心臓が早鐘のように打ち始める。まるで光沢液を塗ったときに呼吸が苦しくなるあの感覚と同じだ。幼少期から体が弱いというレッテルを貼られ、神経質だとも言われてきた。


 そこへ、使用人が来客を告げにやってきた。


「お嬢様、先ほどご紹介いただいた伯爵令嬢のミレイユ様がお見えになっております。よろしければお会いされますか?」


 ミレイユ――ごく最近、親戚を通じて知り合ったばかりの令嬢だ。彼女も体が弱いことで知られていたが、不思議なことにいつも笑顔を絶やさない。シャルロッテは最初こそ不思議に思ったものの、彼女が気軽に声をかけてくれたことで、心が少しだけほぐれた気がした。その縁で「最近面白いお店を見つけたの」と話を聞いていたところだ。


「ミレイユ様……そうね、通してちょうだい」


 シャルロッテは腰を上げ、鏡の前で軽く身なりを整える。化粧こそしていないが、決してだらしないわけではない。体調の悪さを理由に部屋着で過ごすことも多かったが、せめて客人の前ではそれなりにきちんとしておきたい。


 数分後、応接室に案内されたミレイユは、柔らかな笑みを浮かべてシャルロッテを出迎える。


「シャルロッテ様、先日は体調がすぐれないと伺いましたけれど、今日は大丈夫ですか?」

「ええ……いつものことです。あなたも体が弱いと伺ったけれど、そんなふうには見えないわね」

「私の場合は、病院に通うことで症状を抑えているだけ。こまめに休養をとらなきゃいけなくて大変ですけれどね」


 そう言いながらも、ミレイユはシャルロッテとは異なり、ほどよい化粧をしている。薄付きながら目元を明るく見せるアイメイクと、ほんのり桜色の頬。体が弱いとは思えないほど健康的な顔色だ。


「私、最近とっておきの場所を知ったんです。そこで、体に負担のかからない化粧品や手入れの仕方を紹介してもらっているんですよ」


 ミレイユは軽やかな口調でそう言うと、使っている化粧品のいくつかを取り出して見せる。シャルロッテが手に取ると、確かに一般的なパッケージとはまるで違う雰囲気がある。


「これ、なんだか見慣れないわ……普通の白粉とは違うみたい。どこで手に入れたの?」

「『リリアン』という美容サロンです。もともとは髪を整えるお店らしいんですけれど、私が『肌に優しい化粧品を探している』と相談したら、いろいろ試させてくれて…… もちろん完全に刺激がないわけじゃないけれど、今までの化粧品よりはるかに楽なんです」


 聞き慣れない単語――「美容サロン」 シャルロッテはその言葉に首を傾げつつも、肌に優しい化粧品という響きに強く惹かれていた。


「そんな場所があるんだ……でも、私、これまで何度も違うお店に行っては失敗してるの。もう、顔中ぶつぶつだらけになるのは嫌だわ……」

「わかります。でもリリアンはちょっと変わったお店で、医者でも薬屋でもないのに、肌や髪の悩みに寄り添ってくれるんです。私も正直言って最初は怪しいと思ってましたけど、実際行ってみたら想像以上だったんです。あの独特の明るさと、道具の数々……初めて見たら誰だってびっくりしますけどね」


 ミレイユの口ぶりには確かな信頼が滲んでいる。しかし、シャルロッテは半信半疑だ。苦い経験を重ねてきた彼女にとって、「肌に優しい化粧品がある」「何とかなるかもしれない」という期待は、裏切られたときの絶望を思い出させるだけのものでもある。


「……そんなに良いところなの?」

「ええ、私は行ってみて損はないと思いますよ。むしろ私が連れて行って差し上げたいくらいです。どうですか? 一度試してみませんか?」


 シャルロッテは少しだけ黙りこくり、グラスの紅茶をそっと口に運んだ。彼女の表情は不安と興味の狭間で揺れている。だが、ミレイユがここまで薦める場所なら、一度は試してみる価値があるかもしれないと、そう思い始めた。


「……わかった。あなたがそこまで言うのなら、私も行ってみる。どうやって行けばいいの?」

「裏路地にあるから、最初はちょっとびっくりすると思います。でも見慣れない白い看板だからすぐ分かるわ。私も、最初は怖かったけど大丈夫でしたから」


 こうして、シャルロッテは意を決して「リリアン」へ足を運ぶことを決めたのである。


 翌週の午後、シャルロッテは厚手のコートを羽織り、侍女を伴いながら王都の裏路地に向かっていた。社交界の煌びやかな大通りとは正反対の薄暗い裏道は、貴族の身分としてはなかなか足を踏み入れる機会のない場所である。


(本当にここで合っているのかしら……)


 それでも、ミレイユが教えてくれた目印を頼りに、シャルロッテは道なりに進んだ。そして、やがて視界に飛び込んできたのは、周囲のくすんだ石壁とは一線を画すような、白く清潔感のある看板。そこには見慣れない文字の看板が見える。


「ここが……リリアン……?」


 小さな植栽がセンスよく配置され、扉には繊細な植物模様の装飾が施されている。まるで異世界への入り口のように、シャルロッテには見えた。


「お嬢様、ご一緒しますか?」

「……いいえ。ちょっと……一人で行ってみるわ。外で待っていてちょうだい」


 侍女を外に残し、シャルロッテは扉に手をかける。すると、カランカラン……と高く澄んだ鈴の音が響き、まばゆい光とともに店内の景色が広がっていった。


 そこは、想像をはるかに超える空間だった。天井にはいくつもの照明が設置され、揺らぎのない白い光が溢れている。壁際には瓶や器具がずらりと並び、ハサミやブラシ、見たことのない奇妙な機械が収納されているようだ。どことなく、先端医療の設備を連想させるようでもあるが、全体の印象は清潔かつモダン。


 店の奥から、スタイリッシュなショートカットにモノトーンの服装をまとった女性――一ノ瀬玲が姿を見せた。シャルロッテの目には、彼女の肌や髪があまりにも美しく映る。


「いらっしゃいませ。ようこそ『リリアン』へ」


 玲は落ち着いた声でそう告げると、シャルロッテを軽く会釈で迎えた。シャルロッテは、一瞬「この人も貴族なの?」と勘違いしそうになるほどの上品さを感じる。しかし、彼女の口調はどこか親しみやすい。


「あ……は、はじめまして。わたし、シャルロッテ・エストレアと申します。紹介を受けて……その……」


 慣れない場所に来た緊張感と、体質の問題を話すことへの恥ずかしさで、声が少し震える。玲は優しい目でシャルロッテを見つめ、柔和な笑みを浮かべた。


「ええ、ミレイユ様からお話は伺っています。お肌に関するトラブルでお困りだとか…… どうぞ、奥でゆっくりお話を聞かせてくださいね」


 店内の一角にある小さなカウンセリングスペースへと案内される。そこには、落ち着いたトーンのテーブルと椅子、そして周囲には色鮮やかな紙束らしきものが並んでいた。シャルロッテはそっと腰を下ろし、改めて玲に向き合う。


「……わたし……実は、おしろいやチークを塗るとすぐ肌が荒れてしまうんです。ぶつぶつが出たり、ひどいときは熱が出たり……光沢液を顔に塗ると、胸が苦しくなるような息苦しささえあって……」


 シャルロッテは絞り出すように告白する。これまで誰に話しても理解されず、体が弱いからだ、神経質だと片付けられてきたことを思い出し、目頭が熱くなる。


「お医者様に診てもらったこともあるけれど、結果は変わりませんでした。だから化粧なんてできないし、社交界でも……笑われています……」


 言葉の端々に滲む諦めや苦悩。玲は真剣に耳を傾けながら、シャルロッテの表情を柔らかく見守る。


「それはさぞ、お辛い日々だったでしょうね……。いろいろ試しても症状が出てしまうとなると、無理に化粧を続けるわけにもいかないでしょうし」


 玲は一度目を伏せ、考え込むように息をつく。それからシャルロッテに向き直って、はっきりと口を開いた。


「おそらく、アレルギーによるものだと思います。お使いの白粉には金属成分が多く含まれているかもしれませんし、光沢液の方は卵黄が混ざっている可能性が高い。そういった成分が体に合わない方は珍しくないんです」


「アレルギー……? でも、それをお医者様に言っても取り合ってくれなくて……」


「医療の世界でも、アレルギーという概念がまだ十分に浸透していないのかもしれませんね。私たちは『美容』という観点から、いろいろな成分を取り扱う機会があります。実際、金属や卵由来の成分に反応してしまう方はいますし、そういう場合は別の成分を使った化粧品を選ぶ必要があるんです」


 さらりと説明を加える玲。その言葉に、シャルロッテは思わず胸が高鳴る。今まで誰に相談しても「体が弱い」「気のせい」と言われてきたのに、ここでははっきりと「アレルギーかもしれない」と断言されるのだ。自分の苦しみを真面目に受け止め、原因を探ろうとしてくれる。


「じゃあ、私でも大丈夫な化粧品が、あるっていうことですか……?」


 その問いに対し、玲は力強く頷いた。


「もちろんです。アレルギーを起こす成分を避けた化粧品は存在します。素材や製法は限られるかもしれませんが、必ずお客様に合ったものを探し出すことができますよ」


 シャルロッテは思わず息を呑む。自分が抱え続けた悩みに「解決策があるかもしれない」と言われたのは、これが初めてだったからだ。心の奥底で押し込めていた感情が急に表面化して、目に涙がにじむ。


「そ、そんな……ずっと、諦めていたんです。もう化粧なんてできないって…… 社交界から取り残されるしかないって……」


 言葉が震え、涙が一粒、頬を伝う。シャルロッテは慌ててハンカチを取り出し、目元を拭き取る。玲は椅子から立ち上がり、そっと彼女の肩に手を添えた。


「おつらかったでしょう。でももう大丈夫。私たちスタッフが責任をもって、お客様に合う化粧品を探し出してみせます。もし良ければ、肌の状態を見ながらテストしていきましょう。決して無理はさせませんから」


「……はい……お願いします……」


 シャルロッテは顔を伏せながらも、玲の言葉に希望を見いだしていた。自分の症状を正面から取り上げ、しかも「解決しよう」と言ってくれる場所がある。それだけで、これまでの孤独や不安が少しずつ溶けていくようだ。


「まずは、今お使いの化粧品をお預かりできればと思います。どの成分が問題になるのか確認してみたいですし、こちらでもアレルギーを起こしにくい製品を取り寄せてみましょう。大丈夫、焦らずゆっくり進めましょうね」


 玲の優しい笑顔と落ち着いた口調に、シャルロッテはこくりと頷く。

 こうして彼女は、長年悩み続けた『化粧ができないという問題』を打ち明け、新たな一歩を踏み出す決意をしたのだった。

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