5話 セザール様
王都の法廷を幾度も渡り歩き、数々の訴訟や契約書の作成に携わってきた公証人の名はセザール・ヘリング。
この世界では、公証人とは極めて公的かつ権威的な職業である。遺言書や領地譲渡書類など、あらゆる契約や公的記録を扱う立場ゆえに、公平な判断と正確性が常に求められる。人々の信頼を損なうわけにはいかず、また貴族や騎士など、様々な階層の人間と接する機会が多いため、セザールは身だしなみにも人一倍気を使っていた。
そんな彼が、最近頻繁に足を運んでいる場所がある。それは、王都の裏路地に忽然と現れた美容サロン『リリアン』だった。
セザールが初めて『リリアン』を訪れたのは、好奇心からだった。
「髪やひげ、身だしなみを整えるのに最先端の場所があるらしい」
ある貴族からのそんな噂を耳にし、どれほどかと半信半疑で足を運んだのである。
ところが、その体験は彼の常識を一気に覆した。驚くほど明るい店内、香り豊かなシャンプー、そしてなめらかなドライヤーの温風――すべてが初めての感覚だ。
カットの技術だけでなく、眉の形や髭のライン、さらには肩口まで軽くマッサージされて、セザールは「こんなに快適でいいのか」と思うほどの心地よさを味わった。その結果、それ以来彼はすっかり『リリアン』のとりこになっている。
もともとは仕事柄、「定期的に身なりを整えなくては」と考えての訪問だった。だが、いつの間にか単なる身だしなみのためだけでなく、心身をリフレッシュするためにも足を運ぶようになった。
今日もセザールは、少し早いペースだな、と自分で感じながらも、月に一度のペースで『リリアン』の扉を開けていた。
裏路地を抜け、清潔感あふれる白い看板を目にすると、それだけでセザールの胸は弾む。普段は法廷や執務室で難しい案件を抱え込み、頭を悩ませる毎日が続く。そんな自分を一時的に解放してくれるのが、この『リリアン』なのだ。
「カランカラン……」
扉を開けると、いつもの澄んだ鈴の音が出迎える。店内からあふれ出す眩しい照明が、裏路地の薄暗さを一瞬にして洗い流し、まるで違う世界に入り込んだような感覚を覚える。
「いらっしゃいませ。ようこそリリアンへ」
笑顔で声をかけたのは、一ノ瀬 玲。この店のオーナー兼マネージャーだ。落ち着いたモノトーンの服装が凛とした印象を与え、どこか品のある大人の魅力を漂わせる。
「一ノ瀬さん、こんにちは。今日もよろしく頼むよ」
セザールは深く会釈して微笑む。玲は軽くうなずき、タブレットと呼ばれる得体の知れない板のような道具を手に持ちながら確認してくる。なお、セザールには魔法の小箱にしか見えない。
「本日はカットと眉のお手入れ、ひげのライン調整でよろしいですか?」
「そうだね。いつもと同じコースでお願いしたい。それから……最近、仕事が立て込んでいて、疲れ気味でね」
セザールは苦笑いしながら、自分の肩を揉んでみせる。リリアンは美容サロンであり、いわゆるマッサージ専門店ではない。にもかかわらず、ここで施術を受けると不思議と疲労感が和らぐとセザールは感じていた。そう思ってしまうほど、この店のサービスが行き届いているのだ。
「ふふ、かしこまりました。うちはマッサージサロンではありませんが、できる範囲でリラックスしていただけるように頑張りますね」
玲は冗談めかしながら微笑むと、早速セザールを待合スペースへ案内した。
待合スペースは店の中央近くにあり、カットブースから少しだけ距離を置いて配置されている。ここには様々な雑誌や、リリアンが扱うヘアケア用品がディスプレイされているのだが、セザールのお目当ては別にあった。
アシスタントスタッフが銀のトレーを手に姿を見せ、軽い笑みを向ける。
「セザール様、少々お待ちいただきますが、どうぞこちらのドリンクをお楽しみください」
そう言って、スタッフが差し出したのは小さめのカップに入った黒い液体。それこそが、この店で提供される『コーヒー』という飲み物だった。
「ありがとう。いつも楽しみにしているんだ。これがないと始まらないよ」
セザールはほんのりと湯気の立つコーヒーを受け取り、カップをそっと口元に近づけた。深く芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。この世界では、いわゆる茶葉を煎じた飲み物やハーブティーは存在したが、コーヒーのような濃厚な香りを持つ飲料は極めて珍しい。セザールは初めて口にしたとき、その独特の苦味と香りに衝撃を受け、一気にファンになってしまった。
ひと口飲めば、重厚感のある苦味に続き、ほんのりとした酸味が広がり、最後に仄かな甘さを感じる。苦味の強い飲み物ではあるが、どこか心を穏やかにしてくれるような不思議な力がある。
「はあ……これが癖になるんだよな。忙しくて疲れているときほど、格別に感じる」
セザールは思わずため息混じりに呟く。スタッフは「ゆっくりお召し上がりくださいね」と微笑み、そのまま先客のドリンク準備へと戻っていく。
ふと耳を澄ませば、店内の各所から柔らかな音楽が聞こえてくる。まるでオルゴールのように繊細な旋律が流れ、一方で派手な音ではないため、コーヒーをすする時間を邪魔しない。ちょうど良い音量というのは、こういうことなのだろう。セザールはコーヒーカップを右手に持ち替え、もう一度深く香りを吸い込みながら、少しだけ目を閉じた。
(あとで法廷に出る予定があるけれど……今だけはこの至福の時間を堪能しよう)
リリアンに来れば、身だしなみを整えられるだけではなく、心身ともにリフレッシュできる。セザールが最近、月に一度という高いペースで訪問している理由は、まさにこれだった。
コーヒーを飲み終わるころ、トップスタイリストの由香里がニコニコとやってきた。今日はピンクベージュのトップスに、黒のスキニーパンツを合わせたカジュアルな装いだが、それでもどこか洗練されている。
「セザール様、お待たせしました。どうぞこちらへ」
彼女は柔らかな口調で誘導すると、セザールをカットブースへ案内する。そこには、真新しい回転椅子が置かれていた。何度来ても、この椅子のふかふか具合には驚かされる。
「では、まず髪の長さとスタイルを確認していきましょうか。前回より少し伸びましたね。どうなさいますか?」
由香里が鏡越しにセザールと目を合わせながら問う。セザールはうなずき、いつもより少し短めに希望を伝えた。
「今月は公的な場での行事が多いんだ。あまり派手にしすぎる必要はないけど、すっきりと整えて欲しい」
「かしこまりました。少し動きを残しながら、すっきり見せる感じにしましょう。あと眉とひげですね。いかがいたしますか?」
「前と同じように、目立ちすぎない程度に整えてくれると助かる。あまり細くしすぎるのは好まないからね」
「了解です。じゃあ、シャンプーから始めますので、そのまま椅子に深く座ってくださいね。しっかりリラックスしていただけるように、がんばりますよ!」
由香里は笑顔を崩さずに、カット用のクロスをセザールにかけていく。きれいに首元を覆われてから椅子が自動で倒れ始める。
「いつも思うが、本当にすごい椅子だな……」
セザールは小さく呟いた。
髪を洗う専用のシャンプー台は、カットブースのすぐ後ろに設置されている。セザールの背中に合わせて椅子がほどよい角度に倒れると、頭部がシンクにフィットし、首への負担を軽減する形になる。慣れたはずでも、この瞬間はいつも少しだけドキドキする。
「お湯を流しますね。熱かったり冷たかったりしたら教えてください」
由香里が丁寧に声をかけ、シャワーからお湯が流れ出す。髪と頭皮にかかる温かい流水の感触が、まるで安らぎのベールのようにセザールを包んでいく。
「うん、ちょうどいい温度だ。いつもだけど、本当に気持ちがいいね」
「よかった。シャンプーの香りは、先月から少し変えましたけど、気に入ってもらえるといいな」
ふわりと広がる香りは、緑や柑橘系の爽やかさを感じさせる。これまで花のような甘い香りが多かったが、今回は少しスッキリした印象がある。セザールは意識しながら鼻腔でそれを味わう。
「確かに、前より爽やかだ。これもまた悪くないな」
「ありがとうございます。では、頭皮をマッサージしながら洗いますね」
由香里がシャンプー剤を髪に馴染ませると、細かな泡がすぐに立ちはじめた。指の腹を使った優しいタッチが頭皮に心地よく刺激を与え、セザールの肩の力が自然と抜けていく。
「はあ……いい、すごく……」
思わず、セザールは声を漏らしてしまう。法廷での緊張感や、書類の作成に追われる日々からは想像できないほど、安らかな吐息。どこかで「公証人なのに情けない」と感じながらも、この快感には抗えない。
「疲れてるときは、頭皮を少し強めに揉むのが気持ちいいんです。痛かったら言ってくださいね」
「いや、痛くない。むしろもっと強くてもいいくらいだ」
「ふふ、じゃあ少し圧をかけますね」
ゴシゴシという大きな音は立てず、あくまで優しく、それでいて確実にツボを刺激する。セザールは完全にうっとりした状態になり、いつの間にか半分まどろんでいる自分に気づく。
シャンプー台で寝落ちする――リリアンの常連たちの間では当たり前の現象だが、今日のセザールは危うく深く眠りかけるほどだった。
シャンプーが終わり、すっきりと洗い流されると、由香里が「一度起こしますね」と声をかけ、椅子がゆっくりと元の位置に戻る。セザールは瞼を開け、鏡に映る少し濡れた自分の髪を見て、「ああ、本当にいい時間だ」と改めて感じる。
「今日はさらに、もうひと工程。カット後にもシャンプーする予定ですよ。トニックも新しいものを仕入れたので試してみます?」
「お、そうなのか? ぜひ使ってもらいたいね。珍しいものには目がないほうだから」
「了解です。じゃあ、まずはカットから始めましょう」
由香里はテキパキと準備を整え、ハサミを手に取る。セザールが椅子に深く腰掛けると、彼女は軽く髪をブラッシングして全体の長さを確認していく。
「今日は少し短めでしたよね? では、サイドと後ろをすっきりさせて、トップは少し動きを残すイメージでいきますね」
「うん、頼むよ」
チョキチョキ、チョキチョキ…… リズミカルなハサミの音が周囲の音楽に自然と溶け込む。セザールは鏡に映る自分の姿をぼんやりと眺めながら、その心地よい音色に耳を傾けた。
(法廷では書類のページをめくる音や、弁論の張り詰めた声ばかり聞いている。こういう穏やかな音に包まれると、何だか心が洗われるようだな……)
やがて、由香里が素早く動かすハサミに合わせ、落ちる髪がちらほらと床に舞い散る。テキパキとした動作にもかかわらず、雑さは微塵も感じられない。毛束を指先で確かめる仕草が実に繊細で、まるで芸術家のようだ。
「眉の形も整えますね。前と同じくらいの厚さでいいですか?」
由香里がハサミとコームを器用に操りながら、セザールの眉に視線を移す。彼は軽くうなずき、希望を伝える。
「うん、特に凝った形はいらないから、自然に整えてほしい。あまり細くしすぎると、かえって威厳がなくなる気がしてね」
「分かりました。大丈夫ですよ。じゃあ、少しばかり無駄な部分をカットして……はい、これで凛々しさはそのまま残ると思います」
そして仕上げに、あごひげのラインを剃刀で整える。生やしっぱなしでもないが、完全に剃り上げるわけでもない絶妙な塩梅をキープすることで、公証人としての堅実さと大人の余裕を兼ね備えた印象を与える。
「ふむ、いいじゃないか。短時間でここまで綺麗にしてもらえるとは」
「いつも定期的に来てくださるから、伸び放題にはなりにくいですし、整えやすいんですよ」
由香里は満足げに微笑み、最後にもう一度シルエットをチェックした。
「それでは、カット後のシャンプーをして、トニックで仕上げましょうか」
「おお、そうだったね。どんなトニックなんだ?」
「ハーブ系の香りが強めで、頭皮をスーッと清涼感が包むタイプです。きっとセザール様にも気に入っていただけるはず」
「楽しみだな」
再びシャンプー台へ移動して椅子を倒されると、ほんの数分前に感じた温かな感触が戻ってくる。もう一度髪を洗われるなんて、セザールにとっては二度目の至福だ。
ささっと髪を濡らし、簡単にシャンプーした後、由香里が新しいトニックを手に取る。何やら緑色がかった透明な液体が、髪と頭皮に馴染むように塗られていく。すると、ほんの数秒でハーブの香りとともに爽快感が広がった。
「おお……これは、なんというか、頭がスーッとするな」
「血行を促進して、頭皮を健やかに保つ効果があるんです。こめかみのあたりや首筋も軽く押しておきますね」
由香里は右手の指でセザールのこめかみから後頭部にかけて優しくマッサージする。トニックの冷涼感と相まって、まるで頭が軽くなるようだ。セザールは心地よさに声も出ず、微かに息を漏らすだけだった。
シャンプー台から戻り、タオルで水気を拭い取ったら、仕上げのブローに移る。温風と冷風を交互に使い分けながら髪を整えられ、セザールのヘアスタイルは理想的な形に仕上げられていく。鏡の中の自分を見れば、先ほどまでの少し疲れた顔が嘘のように引き締まって見えた。
「はあ……。ずいぶんスッキリしたね。さっきのトニックのせいもあるのか、頭が軽いよ」
「よかったです。では最終チェックをしていただいて、問題なければ終了となります」
由香里が鏡を隅々まで映しながら、前後やサイドのバランスを示してくれる。セザールは一通り確認し、手櫛で全体を軽く触りながら感触を確かめる。文句のつけようのない仕上がりだった。
「完璧だ。いつも以上に満足だよ、由香里さん」
「ありがとうございます。また次回もよろしくお願いしますね」
カウンターへ移動して会計を済ませる。とはいえセザールの場合、常連客ということもあり、だいたいの料金は把握している。カット、シャンプー、眉とひげの手入れ、トニックと仕上げ――それらを合わせても意外なほど高額にはならない。セザールは「この店はいろいろと破格だな」と毎回思わずにいられない。
オーナーの玲が会計を受け取りながら、いつもの落ち着いた声で言った。
「本日もありがとうございました。何か気になる点があれば、いつでもご相談くださいね」
セザールはにこやかに微笑み返す。店を出る直前、ふと足を止めて玲を振り返った。
「ありがとう。正直言うとね、ここは俺にとって心身を癒やすサロンだな。何とも心地よい気分になるんだよ、この店にいると」
玲は少し苦笑いしながら、申し訳なさそうに肩をすくめる。
「そう言っていただけるのは嬉しいのですが……うちはあくまでも『美容サロン』であって、マッサージ専門店ではないんですよ。そうは思えないかもしれませんが」
「いや、承知しているよ。だからこそありがたいんだ。次はまた来月あたりに来させてもらうから、よろしく頼むよ」
「はい。楽しみにお待ちしています」
玲の言葉に軽く会釈を返すと、セザールは扉を開けて外へ出る。裏路地の空気は少し冷たく、店内のぬくもりがいかに心地よかったかを改めて実感させる。
頭に手をやれば、トニックの爽やかな香りがまだほのかに残っていた。髪とひげを整えられた自分の顔は、気のせいかいつもより凛として見える。
「さて、午後からの契約書作成も頑張るか」
セザールは小さく呟き、王都のメインストリートへと足を向けた。とびきりのリフレッシュを済ませた彼の歩調は軽快そのもので、法廷で待ち構える書類の山や厳格な上司の眼差しも、なんのその――そんな気分さえ湧いてくる。
こうして公証人セザール・ヘリングは、今日もまた「癒やしと身だしなみ」を手に入れた満足感を胸に、『リリアン』の扉を後にするのだった。