3話 ブラッド様 前編
王都の軍隊を長年率いてきた老将軍は多いが、その中でもブラッド・ウォルフォードの名は群を抜いている。若かりし頃のブラッド将軍は猛将として鳴らし、敵軍を恐れさせるほどの腕前を誇った。歳を重ねた今でも体力は十分。しかし残酷なことに、外見だけは彼の武勲に逆らって衰えの色を隠せなかった。
髪に混じる白髪は年々増え、眉毛やひげにも手入れが行き届かなくなっている。幾多の勲章を胸に軍議の場へ赴けば、その名声故に今もなお尊重こそされるが、周囲からは「そろそろ引退か」と揶揄する声が聞こえてくる。もちろん本人はまだまだその気はない。だが、見た目から受ける印象は否めず、それとなく老いを感じさせる噂に苛立ちを覚えていた。
「クソッ、体が鈍っているわけでもないのに……見た目だけで人を判断するとは……」
ある日の夕刻、軍の執務室で一人ぼやくブラッド将軍。その言葉を耳にした副官は、小声で誰にも聞かれないように進言する。
「将軍、近頃は身だしなみに手をかける男性も増えてきております。王宮の貴族などは、いろいろな『ケア』を施して容姿を整えているそうですよ」
「ケア? 男がするものなのか?」
「そうですね……時代の変化、と言えばよいのでしょうか。若者だけでなく、壮年の方々も髪をきれいに整えたり、顔の手入れをしたりしているようです」
副官は少し言葉を詰まらせたが、ブラッドの様子を察してすぐに付け加えた。
「もちろん、将軍はそのままでも十分に威厳があります。しかし、もし今よりさらに印象を良くできれば、軍内外の声を黙らせることができるかもしれません」
「ふむ……」
ブラッド将軍は渋い表情のまま顎ひげを撫でた。人前に立つ者として、今一度自分の外見を改めてみるのも悪くはない――そう考え始めていた。
翌朝、ブラッド将軍は城の外れから少し離れた場所へと向かった。王都の裏路地は昔から治安があまり良くないとされ、夜間の巡回などを兵士に命じたこともある。だが、今日彼が目指しているのはそんな裏道にあるという謎の店。「男性でも利用できる」という噂が耳に入り、気まぐれとも言える勢いで向かってみたのだ。
「こんな裏道にあるのか……本当に、ここで良いのか?」
軍服の上から少し分厚い外套を羽織ったブラッド将軍は、路地裏を行き交う人の少なさに怪訝そうな顔をする。昼間であっても薄暗く、空気がどこか冷たい。だが、やがて視界の端に、場違いなほど明るく洗練された看板が見えてくる。
白い下地にエレガントな文字が記された看板。だが、異国の文字ゆえに読むことはできない。
周囲の薄汚れた石壁と比べても、その一角だけが異様に清潔で洗練されている。扉には植物を模した精巧な金属飾りが施され、その扉越しに柔らかい光が漏れ出していた。
「まるで女性向けの店だな……。こんなところに、俺のようなゴツい男が入っていいのか?」
だが、躊躇する理由がある一方で、彼は副官の言葉を思い出した。自身の外見をどうにかしたいという想いはある。人目が少ない裏路地だ。誰かに見られる心配も少ないだろう。ここで引き返すのは負けた気がして癪に障る。
「……とりあえず入ってみるか。気に入らなければ、そのまま出てしまえばいい」
ブラッド将軍は意を決して扉を押し開けた。カランカラン……と高い鈴の音が鳴り、店内の光が一気に路地に漏れ出す。
店の中に足を踏み入れた瞬間、ブラッド将軍は目を丸くした。
「なんだ、こりゃあ……!」
天井には複数の照明が取り付けられ、どれも揺らぎのない眩しい光を放っている。蝋燭でも油ランプでもない、不思議な光源。火の匂いひとつしないにもかかわらず、店内は昼間のように明るい。
さらに、白を基調としたモダンな内装。エントランスからは自然光も多く取り込まれ、清潔感と開放感に満ちている。椅子や鏡など、美容に関わる道具がずらりと並んでいたが、どれも今まで見たことのない先進的な形だった。
「いらっしゃいませ。ようこそ『リリアン』へ」
落ち着いた声が聞こえ、ブラッド将軍はそちらに振り向く。一人の女性がゆったりと歩み寄ってきた。短く整えられた黒髪、シンプルだが高級感のある服装。店のオーナー兼マネージャーである一ノ瀬玲が微笑みながら挨拶をした。
「ご予約なしでのご来店でしょうか? 現在、椅子には空きがありますから、すぐにご案内できますよ」
ブラッド将軍は思わず言葉を失っていた。初対面であるはずの玲の落ち着きぶりや、その美しい肌と髪に圧倒されている。王宮の女官よりも上質な仕立てと佇まいを感じさせるのに、まったく華美さを感じさせない。むしろプロフェッショナルという気配が強く漂っていた。
「……お前、いや、あなたは何者だ? ここの……主人か?」
いつもなら大声で問い詰めそうなところだが、玲の雰囲気に押される形でブラッド将軍は控えめな声になる。玲はにこやかに微笑みを浮かべながら頷いた。
「はい、わたしがこの『リリアン』のオーナー兼マネージャーです。美容サロンというのは、髪や肌のお手入れを専門にするお店なんですよ。お客様は初めてのご来店ですよね?」
「……ああ、噂を聞いて、興味があってな」
周囲を見回すブラッド将軍。こんなに清潔感に溢れた店内を、裏路地で目にするとは思わなかった。疑問は尽きないが、とにかく客として歓迎されているらしい。
「どうぞ、奥へお進みください。ご希望をうかがいながら、最適なメニューをご提案させていただきます」
玲に案内されるまま、店の奥へと進んだブラッド将軍は、もう一度驚かされる。壁のどこからか柔らかな音楽が流れ、空間全体が優雅な雰囲気を醸し出しているのだ。どうやら楽団を隠しているわけでもなさそうだが、彼にはその仕組みが皆目見当つかない。
(音楽まで流れているとは……これは相当の金がかかっていそうだな。あとでどれくらい請求されるのやら)
そんな心配を胸に抱きつつも、ここまで来て引き返すのは彼の性分に合わない。何より、白髪や伸びきった眉やひげをどうにかしたいというのも事実だ。
ほどなくして、鏡がずらりと並ぶ一角へたどり着くと、玲が微笑んで言った。
「では、こちらの椅子におかけください。お荷物や外套は丁重にお預かりますのでご安心くださいね」
そこへスタッフが丁寧にブラッド将軍の外套を受け取ってくれた。ブラッド将軍は一瞬「む……」と少し身を強張らせたが、丁寧な対応に素直に身を任せることにする。
「将軍……というお立場でいらっしゃいますか? うちのお店には、騎士や貴族のお客様も多いんですよ。どうぞ、リラックスしてください」
「おお……そ、そうか。俺はブラッド・ウォルフォードという。将軍とはいえ、一客だ。遠慮なくしてくれ」
周囲を警戒していたブラッド将軍だったが、玲の物腰や丁寧な接客に少しずつ肩の力が抜けていく。やがて案内されたのは回転式の椅子。その椅子がくるりとこちらに向き、まるで玉座のような高級感を放っている。
「なんだ、その椅子は? 変わった仕組みだな……」
「はい、回転式の椅子です。背もたれの角度や高さも調整できますので、施術される方も楽に過ごしていただけるんですよ」
玲が微笑みながら椅子を示し、ブラッド将軍は少し疑い深げな様子でそこに腰を下ろした。すると、まるで上質なクッションの上に座っているかのようなふかふかさだ。背中から腰までしっかりサポートされ、驚くほど快適に感じられる。
「ほう……これは……王宮の玉座と比較しても遜色ないくらい座り心地が良いな」
「ありがとうございます。ではまず、どのような施術をご希望か、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
玲が問いかけると、ブラッド将軍は白髪混じりの頭髪や伸びた眉を指先で示した。
「実は、こう見えてまだまだ現役で兵を率いている身だ。最近、部下や周囲から『老けた』などと好き勝手に言われていてな。何とかして、この白髪や伸び放題の眉やひげを整えたい。若返りたいわけではないが、威厳を取り戻したいのだ」
「かしこまりました。髪を整えるだけでなく、眉やひげの形をきちんと整えることも可能ですよ。もしよろしければ、白髪はカラーを入れて目立たなくすることもできますが……いかがなさいますか?」
カラーという言葉にブラッド将軍は少し首を傾げる。
「染めるということか? 髪を黒くするというやつかな……。そんなことができるのか?」
「はい。ただ自然な黒さにすることもできますし、少し深みのある色味をプラスしてより引き締まった印象を与えることもできますよ」
ブラッド将軍は腕を組み、真剣な表情で考え込んだ。染めるなど、貴族の道楽ではないかとも思う。しかし、威厳を保ちながら若々しさを取り戻すには、染めるという手段も悪くない気がしてきた。
「……いいだろう。お前たちが自信を持って言うなら、やってもらおうじゃないか。白髪を目立たなくしてくれ」
こうして、ブラッド将軍はリリアンで施術を受けることとなったのであった。