2話 マリー様
翌日の朝、王都のとある住宅街にある小さな屋敷の一室で、レオンは思わぬ窮地に立たされていた。理由はただ一つ――自身のあまりの変貌ぶりに驚いた妻・マリーの問い詰めから逃れられなくなっていたからだ。
「レオン! あなた、どうしてそんなに髪がきれいになっているの? まるで別人みたい。どこで何をしてきたのか、正直に言いなさい!」
マリーは小柄ながらも芯が強く、物怖じしない性格だ。艶やかな黒髪をまとめ上げ、家事をこなすための動きやすい服装をしているが、その瞳は鋭くレオンを見据えていた。レオンはベッドから半身を起こし、あからさまに動揺した顔を向ける。
「い、いや……大したことはないんだ。ただ、裏路地でちょっと変わった店を見つけて、髪を切ってもらっただけだよ」
曖昧な説明に、マリーはさらに詰め寄った。
「裏路地の変わった店ですって? そんな店で髪を切るだけで、まるで王侯貴族みたいに洗練されるものなの? まさか怪しい薬でも使われたんじゃ……」
「いや、そういうのじゃない! 本当にただの……その……美容サロンっていうらしい。俺も詳しくは知らないんだけど……」
マリーは腕を組み、じろりとレオンを睨んだ。いつもは穏やかな口調の彼女だが、こういうときには一歩も引かない。
「美容サロン……? 聞いたことないわね。とにかく、どうやってそんなに見違えたのか詳しく教えてちょうだい!」
レオンは言葉に詰まり、視線を泳がせる。昨日の出来事を思い出すと、あの店の光景はまるで魔女の館としか思えないほど不思議だった。だからこそ、安易にマリーを連れて行くのは危険かもしれないと感じている。
「……正直言って、あそこは普通の店とは思えない。魔女の館のようでもあって……お、俺はもう二度と行かない方がいいと思うんだが……」
そんな曖昧な否定が、逆にマリーの好奇心を大いに刺激してしまった。マリーは目を輝かせ、まるで獲物を前にしたネコのように問い詰める。
「魔女の館!? そんなところに行ったから、あなたはあんなに綺麗になったのね!? だったら私も今すぐ行きたいわ!」
「い、いや、だから危ないかもしれないんだぞ……?」
「危ないかどうかは私が自分で判断するわ。ねえ、連れて行ってちょうだい」
レオンはマリーの勢いに押されてしまい、これ以上は誤魔化しきれないと観念した。こうして夫婦は魔女の館……もとい、『美容サロン リリアン』へ向かうこととなる。
薄暗い裏路地に差し掛かると、マリーは周囲の雰囲気に少しだけ身をすくめた。しかし、その奥に見える扉だけは不思議なほど清潔感に溢れ、異様ともいえる白い看板が目を引いている。
「……ここね?」
マリーはレオンが先に歩く背中をじっと見つめ、扉の装飾に目をやった。植物を模した繊細な金属装飾、読み慣れない文字が記された看板。確かに普通ではない。レオンが意を決したように扉を押すと、カランカラン……と鈴の音が高く鳴り、店の中の明るい光が一気にあふれ出した。
「うわ……!」
マリーは思わず目を細める。蝋燭やランプの弱々しい灯りしか知らない彼女にとって、リリアンの照明はほとんど衝撃的な眩しさだ。レオンはすでにこの明るさを知っているため、少し慣れた表情をしているが、マリーの手をやんわりと引きながら進んだ。
すると、奥からすらりとした姿勢の女性――店のオーナー兼マネージャーである玲が、優雅な足取りで近づいてきた。
「いらっしゃいませ。ようこそ『リリアン』へ」
玲の落ち着いた声とともに、店内のどこからともなく流れる音楽が心地よく耳に届く。前日と変わらぬ、美しく透き通るような肌や、ショートカットの整った髪からは不思議な高級感が漂っていた。
「……こ、ここが、あなたの言っていた……」
マリーはレオンに小声で耳打ちする。レオンは気まずそうに視線を泳がせたが、玲はそんな二人の様子を見てくすりと微笑んだ。
「昨晩はご来店いただきありがとうございました。お連れさまも、ようこそリリアンへ」
マリーは玲をまじまじと見つめると、そのまばゆい美しさに釘づけになる。艶やかな肌と、整えられた髪のスタイリッシュな印象。どこにも隙がなく、王宮の侍女でもここまで洗練された者はそういない。
「……確かに、魔女かと思うくらい綺麗ね」
思わず本音がこぼれたマリーの言葉に、玲は上品に笑って言った。
「ありがとうございます。でも、うちは魔女の館ではありませんよ。美容サロンという、髪や肌のケアを行うお店です」
「美容サロン……。そう聞くと、昨日あなたが言っていたことも納得できるかもしれないわね」
マリーはつい先ほどまで「怪しい」「危ない」と疑っていたが、玲の柔らかな物腰と誠実そうな対応に少しほっとした様子を見せる。そんな妻の様子を横目で見ながら、レオンは小さく安堵の息を吐いた。
「それで、本日はどのような施術をご希望ですか?」
玲が問いかけると、マリーは迷いなく答える。
「レオンと同じように、キレイにしてほしいの。髪を切るだけで、こんなにも雰囲気が変わるのなら、私もやってみたいわ」
「かしこまりました。カットのみ、ということでよろしいですね?」
マリーは力強く頷いた。美容サロンが何をどこまでしてくれるのか、正直まだ彼女はよく分かっていない。ただ、レオンが昨日経験した変化を、ぜひ自分も味わってみたいのだった。
「では、こちらの席にどうぞ。由香里さん、お願いできますか?」
玲が店の奥に声をかけると、軽やかな足音とともに、ロングヘアを華やかに巻いた女性――由香里が姿を現した。マリーはその明るいカラーリングと、おしゃれな雰囲気に少し面食らったように目を丸くする。
「はじめまして。東城由香里です。この店のトップスタイリストをしています。どうぞよろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします……」
由香里が柔らかい笑みとともに丁寧にお辞儀をすると、マリーは圧倒されつつも挨拶を返した。レオンのときと同じく、由香里の肌や髪もつややかで、「この店にいる人間はみんな、どうしてこんなに綺麗なんだろう」と不思議に思わざるを得ない。
案内されたのは、マリーにとって見たことのない形の椅子だった。背もたれが高く、金属光沢のあるパーツが組み込まれ、真っ黒な素材がしっとりと光を反射している。どこからどう見ても普通の椅子ではない。
「どうぞ、座ってみてくださいね」
由香里が優しく声をかけると、マリーはおそるおそるその椅子に腰を下ろした。すると、まるで玉座のようにふかふかの座面が体を包み込むように受け止める。贅沢で柔らかな感触が今まで味わったことのない心地よさをもたらし、思わず息を呑む。
「これは……すごいわね。まるで上等な羽毛布団の上に座っているみたい」
マリーが驚いていると、由香里は嬉しそうに笑みを返す。
「お座りになるお客さまが快適に過ごせるように工夫された椅子なんです。回転もしますので、必要に応じて角度を変えながら作業できるんですよ」
そう言って由香里が手元のレバーを軽く操作すると、椅子はくるりと回転し、マリーの向きが鏡の方へと正確に合わせられる。やがて、目の前の大きな鏡に自分の姿が映った。
「……えっ、私ってこんな顔をしてたんだ」
マリーは鏡に映る自分をまじまじと見つめる。鏡があまりにも透明度の高い素材でできているため、余計な歪みがまったくない。王都の一般家庭ではこんなにも質の良い鏡はまず手に入らない。自分の顔をこれほどまでに鮮明に見られることに、ちょっとした衝撃すら覚える。
「ふふ、最初は皆さん驚かれますよ。ここでは施術前にお客さまの現状をしっかり把握して、より魅力的なスタイルを提案するんです」
由香里が小さく笑みを浮かべ、さっそく作業を始めようと準備を進める。すると、そのタイミングでレオンが心配そうにマリーの肩越しから声をかけた。
「マリー、本当に大丈夫か?」
「あなたこそ、昨日はよく平気だったわね。ここまで立派な設備だと、一般人が入ってよい店だったのか疑問に思ってしまうわね」
レオンは言いにくそうに視線を逸らす。
「そうなんだ……俺も最初はそう思っていたよ。でも、意外と、そこは問題なくて……」
マリーはそれ以上問い詰めることなく、やがて由香里に軽く顎で示されるまま、椅子に深く腰を落ち着けた。
「それでは、まずシャンプーから始めますね。髪や頭皮を丁寧に洗浄していきます」
由香里の言葉とともに、椅子がゆっくりと倒れ始める。マリーは一瞬「え!?」と肩をこわばらせるが、次の瞬間には視界が上向きになり、自分の後頭部がシンクのような場所に柔らかくフィットしていた。
「すごい……椅子がこんなふうに倒れるなんて……壊れたりしないかしら」
「大丈夫です。設計段階から、人が倒れる姿勢でも疲れにくいように工夫されていますから」
由香里は慣れた手つきでマリーの頭にタオルをかける。そして、お湯を流し始めるとマリーは「あっ」と小さく声を上げる。思っていたよりも適温で、まるで湯船に入ったような心地よさが広がった。
「どうですか? 熱くないですか?」
「ううん、ちょうどいい。気持ちいいわ……」
マリーは首筋を伝うお湯の流れに、安堵の吐息を漏らす。次いでシャンプー剤と呼ばれるものを髪に馴染ませ始められると、泡立ちとともにふわりと花のような香りが立ち上った。
「うわぁ……いい香り。まるでお花畑みたい」
「気に入っていただけて嬉しいです。こちらはリラックス効果のある香りを選んでいますので、日々の疲れが少しでもとれればと思いまして」
由香里は優しい調子で語りかけつつ、丁寧にマリーの頭皮をマッサージする。指先が一定のリズムで頭皮を刺激していくと、だんだんと心地よい眠気が押し寄せてくる。
「……はぁ……こんなの初めて。なんだか、すごく幸せな気分」
マリーは思わずうっとりと目を閉じ、シャンプーの泡とマッサージに身を委ねる。レオンが昨日味わった快感も、きっとこんな感じだったのだろう。
やがて洗浄が終わり、ぬるま湯でしっかり泡をすすがれる。次にリンスと呼ばれるものを塗布されると、さらに髪がすべすべに整うような感覚を覚える。リンスが洗い流された後、椅子が再びゆっくりと起き上がった。
「わぁ……!」
マリーが鏡を見つめ、思わず感嘆の声を上げる。先ほどよりもしっとり艶の増した髪が、光を滑らかに反射している。長年家事で傷んでいたはずの毛先すらも、指通りが滑らかに感じられた。
「まだ乾かしていないのに、こんなに違うのね……」
「シャンプーとリンスだけでも、これほど手触りや艶が変わるんですよ。では、次は乾かしますね」
由香里がドライヤーを手に取ると、ゴーッという温かい風がマリーの髪を揺らしていく。マリーは昨日のレオン同様に「これは魔術なのかしら……」と心の中で思わずにはいられなかった。空気の流れといい、温度といい、まったく火や燃料の臭いがしない。不思議すぎる。
「魔女の館じゃないって言われたけど、これじゃあ本当に魔法を使ってるみたい……」
マリーが小声で呟くと、傍らで見守っていたレオンはこくりと頷き、笑みを漏らす。
「だろ? 俺も最初はすごくびっくりしたんだ」
「でも、すごく気持ちいい……」
髪がほぼ乾き終わると、由香里は再度マリーの鏡の前に立ち、ハサミを手に取った。
「それでは、カットをしていきますね。お好みの髪型が特になければ、少し軽やかな印象になるよう手入れしましょうか」
「ええ、あなたにお任せするわ。素人の私が指示するより、プロの方が上手でしょうし……」
「かしこまりました。じゃあ、程よく長さを残しながら、全体のバランスを整えていきますね」
マリーは軽く目を閉じ、チョキチョキというハサミのリズミカルな音に耳を傾ける。由香里の手元を見ると、驚くほどの速さで髪が切りそろえられていく。ハサミの扱いは熟練の職人技を連想させるが、一つひとつの動作が繊細で、まるで舞いを見ているようだ。
「こんなに速くても、全然雑に感じないのはどうしてかしら……?」
マリーが素朴な疑問を口にすると、由香里は笑顔を浮かべたまま手を止めない。
「スタイルを決めるまでのシミュレーションを頭の中で何度も重ねてから切り始めるんです。もちろん技術も必要ですが、お客さま一人ひとりに合わせた形をイメージして、それを最短で実現するという感じですね」
「はあ……本当にすごい。あなたがいれば、いくらでも綺麗になれるんじゃないかと思うわ」
「ふふ、そんなふうに言っていただけると嬉しいです。でも、仕上げはまだですよ。もう少しだけお待ちくださいね」
由香里は最後に細かい毛先を揃え、マリーの前髪やサイドのシルエットを丁寧にチェックする。鏡の中でわずかに動くハサミの刃からは、シャキン、シャキン……という心地よい音が響いた。
数分後、由香里がハサミを置き、静かにマリーの周りにかけられていた布を外す。
「はい、お疲れさまでした。これでカットは完了です。いかがでしょうか?」
マリーは鏡に映る自分をまじまじと見つめ、驚きのあまり言葉を失った。髪は肩のあたりで揃えられ、軽やかにまとまっている。リンス効果のおかげで、全体的にさらさらの艶感が際立つ。今まで見たことのない、少しだけ華やかな印象がそこにあった。
「えっ……ほんとに私がこんな……?」
マリーは思わず頰に触れる。髪だけでなく、肌のトーンまで明るく見えるようになった気がする。レオンが昨日感じた感動を、今まさに自分の身で体験しているのだ。
「よくお似合いですよ。ご自身で手入れされる際には、簡単にまとまるようカットを工夫していますからね」
由香里がにこりと微笑むと、マリーは嬉しそうに瞳を潤ませ、何度も髪を撫でた。レオンが隣で「おお……」と声を漏らし、マリーに向けて照れくさそうに言う。
「すごく似合ってる。マリー、いつもより断然華やかだ」
「そ、そうかしら……。でも、私、こんなに綺麗になっていいのかしら。なんだか夢みたい」
マリーは遠慮がちに笑みを浮かべるが、その様子は心底嬉しそうだった。すると、オーナーの玲が奥から出てきて軽く拍手をするように手を合わせる。
「お疲れさまでした。大変お似合いですよ、マリーさん」
「ありがとうございます、本当に……。あの、料金ってどれくらいかしら?」
マリーは恐る恐る袋を握り締め、玲の返事を待つ。レオンから話を聞いてはいたものの、こんなに豪華で丁寧な施術を受けておきながら、金貨1枚程度で済むとは思えない。
しかし、玲はやはり穏やかな表情で首を横に振る。
「カットだけであれば、昨日レオンさまからいただいたのと同額で結構です。もしそれ以上の施術をご希望でしたら追加料金をいただきますが、今回のようにカットのみでしたらこの金貨1枚で十分です」
「そ、そんな……いいんですか? あまりにも安すぎる気がするんですけど」
「あちらの世界――いえ、この店では、それで十分に見合う対価を得られますから、どうぞご安心ください」
玲の柔らかな微笑みを見ていると、ここが本当に魔女の館なのではないかと錯覚する。しかし、彼女の丁寧な接客や気遣いを目の当たりにすると、怪しさよりも安心感の方が大きい。マリーは素直に「ありがとうございます」と言って、金貨を1枚だけ支払った。
「こんなに美しくなれる体験ができるなんて、すごいわ……」
マリーがレオンの腕にそっと手を添え、二人は店を後にする。扉を開けると、いつもの薄暗い裏路地の空気が流れ込むが、先ほどまでの華やかで眩しい空間の余韻がまだ肌に残っているようだった。
「ありがとうございました! またお待ちしておりますね!」
由香里の明るい声と、玲の穏やかな見送りが響く。レオンとマリーは並んで歩き出し、まだ少し浮かれた足取りで路地を抜ける。光あふれる不思議な空間から暗がりへ戻ると、まるで現実感が薄れていくような感覚に襲われる。
「ねえ、レオン。あなたが言っていたこと、わかったわ。本当に魔女の館みたいだった」
「だろ? 俺も昨日は驚いてばかりだったよ。でも、こうして無事に済んでみると……なんだか、不思議とまた行きたくなるんだよな」
「私も……また行きたいわ。次はどんな風にしてもらおうかしら、なんて考えちゃう」
マリーは楽しそうに笑い、サラサラになった自分の髪に触れた。まだ余韻の残る甘い香りが鼻をくすぐる。彼女の横で、レオンも同じように髪を撫でてみる。これまでとは違う手触りに改めて新鮮な感動を抱いた。
「あの店は……本当に何なんだろうな」
「わからない。でも、私たちが知らない技術や道具を使っているのは確かね。もし本当に魔女の館だとしても、あの人たちが悪い魔女とはとても思えない」
二人は寄り添いながら、王都のメインストリートへと通じる道へ足を向ける。裏路地の薄暗さを出る頃には、すでにマリーの表情は明るく弾んでいた。レオンもそんな彼女の姿を見て、自然と笑みがこぼれる。
こうして夫婦は、リリアンで不思議な体験をして、家路につくのだった。