星を見る人
◆
エスメラルダが窓を開こうとした、その瞬間だった。
ハインの手が素早く伸び、彼女の手首を掴んだ。
「な、何を……」
エスメラルダが困惑の声を上げる間もなく、ハインは窓を押し開けると、彼女の腰に腕を回す。
そして一瞬の躊躇もなく、彼女を抱きかかえたまま窓から飛び出した。
「きゃあッ!」
エスメラルダの悲鳴が夜空に響く。
三階の高さから落下する恐怖に、彼女は反射的にハインの首にしがみついた。
しかし、落下の感覚はすぐに消えた。
代わりに訪れたのは、ふわりと浮き上がる浮遊感。
「大丈夫だ」
ハインの声が耳元で響く。
「俺を信じろ」
エスメラルダは恐る恐る目を開けた。
そして息を呑んだ。
眼下に広がるサリオン公爵家の屋敷が、みるみる小さくなっていく。
街の灯りが星のように瞬き、やがて一つの光の塊となって視界から遠ざかっていった。
「これは……飛翔魔術……」
エスメラルダの声は震えていた。
だが、それは恐怖からではない。
純粋な驚嘆と、そして興奮からだった。
「ハイン様、一体どこまで……」
「良いものを見せてやる」
ハインはそう言うと、さらに速度を上げた。
風が唸りを上げて耳元を通り過ぎていく。
いや、風ではない。
もはや音そのものが置き去りにされているような速度だった。
雲を突き抜ける。
冷たい水滴が頬を打つが、すぐにそれも通り過ぎた。
更に上へ、上へと昇っていく。
空気が薄くなり、呼吸が苦しくなるはずだった。
エスメラルダの肉体は、この高度と速度に耐えられるはずがない。
第三宇宙速度──後の世界でそう呼ばれることになる速度での飛翔。
その反動は、通常ならば人間の肉体などバラバラに砕いてしまう。
しかし、エスメラルダは無事だった。
ハインの魔力が彼女を包み込み、あらゆる物理的な負荷から護っていたのだ。
温かな魔力の膜が、彼女の全身を優しく包んでいる。
まるで母の胎内にいるかのような安心感。
そして──
「あ……」
エスメラルダは言葉を失った。
いつの間にか、周囲の景色が一変していた。
漆黒の闇。
その中に無数の光点が散りばめられている。
星だ。
瞬きもせず、ただ静かに輝く無数の星々。
振り返れば、そこには巨大な球体が浮かんでいた。
青と緑と白が混ざり合った、美しい球体。
それは紛れもなく、彼らが生まれ育った世界だった。
「こ、ここはまさか星界……」
エスメラルダの声は畏怖に震えていた。
星界──それは神々の領域とされる世界。
魔術師たちが理論上その存在を知りながら、決して到達することのできない場所。
古の賢者たちは、星界を「天球の彼方」と呼んだ。
そこは物質世界の法則が及ばず、純粋な魔力と神性のみが存在する領域だと言われている。
死者の魂が最後に辿り着く場所であり、神々が座す玉座があるとも。
しかし同時に、生きた人間が足を踏み入れれば、その瞬間に肉体は崩壊し、魂は永遠に彷徨うことになるとも伝えられていた。
「そう、本来ならば人の身で来ることはかなわぬ世界だ」
ハインの声が、静寂の中で響いた。
「だがここはその入口に過ぎない。星界は、この俺ですらも及ばぬ遥か彼方まで広がっている」
エスメラルダは改めて周囲を見渡した。
上も下もない、ただ無限に広がる虚空。
その中に浮かぶ無数の星々は、まるで宝石を散りばめたかのように美しかった。
「星界は美しいか?」
ハインの問いに、エスメラルダは無言で頷いた。
美しいという言葉では表現しきれない。
荘厳で、神秘的で、そして圧倒的だった。
しかし──
「しかし寂しい世界だ」
ハインの言葉に、エスメラルダは驚いて彼の顔を見上げた。
「寂しい……?」
「そうだ。俺は以前、自身の魔力が許す限りこの世界を探索して回った。結果はゼロだ」
「ゼロ、とは……」
エスメラルダは聞き返した。
「何もない、俺が調べた限りでは。俺たちの暮らすこの星以外には、人の営みどころか生命が存在する星すらもなかった」
「そんな……」
エスメラルダは驚きを隠せなかった。
この広大な世界のどこにも、自分たち以外の命は存在しないというのか。
無限に広がる虚空の中で、たった一つの星にしか生命が宿っていない。
それは余りにも──
「広すぎるのだ。何処かに人類や、それに類する者たちがいたとしても遠すぎて逢えないのだ」
ハインの言葉にエスメラルダは納得せざるを得なかった。
確かにこの広大すぎる空間では、例え他の生命が存在していたとしても出会うことは不可能に近いだろう。
永遠にも等しい時間をかけて探索したとしても、この無限の闇の中から一つの光を見つけ出すことなど──
「しかし、なぜこの光景をわたくしに──」
エスメラルダが言いかけると、ハインは悲しげな表情を浮かべた。
星の光を受けて、その紫紺の瞳が揺らめく。
「知ってほしかったのだ。俺たちの唯一の居場所、この星を穢す者たちがいることを」
ハインは眼下の星を見下ろした。
「私利で、私欲で、この小さくも美しい星を穢す者共がいる。俺たちは余りにもちっぽけな存在であるのに、互いに相争っている……」
その言葉には、深い憂いが込められていた。
「それで傷つくのは誰だ? 俺たち自身か? いや、違う。本当に傷ついているのはこの星だ」
エスメラルダは俯いた。
ハインの言葉に、幾多の戦争の歴史が脳裏をよぎる。
ガイネス帝国の建国から今日まで、どれほどの血が流されてきたことか。
魔王軍との戦い、国家間の紛争、貴族同士の諍い。
戦争は大地を荒廃させる。
魔術を行使しあえば、魔力で汚染されることもある。
かつて豊かだった土地が、今では不毛の荒野と化している場所もいくつも知っている。
「もしかしたら──」
ハインが続けた。
「俺たちはこの星に住めなくなってしまうかもしれない。俺たちの代でなくとも、子孫の代のどこかで」
「それは……」
それは余りにも悲しい事だ、とエスメラルダの心は沈んだ。
この美しい星が、いつか生命を育めなくなる。
そんな未来を想像するだけで、胸が締め付けられる。
だが──
「しかし」
ハインの顔を見た。
そこには先ほどまでの悲しみはなく、代わりに強い決意が宿っていた。
「形あるものもないものもいつかは壊れる──が、その未来を更に先送りする事は出来るだろう」
エスメラルダは首を傾げた。
「破滅の未来を先送りし、その間に次なる世界へ飛び立つための時間を稼ぐということだ」
ハインの言葉は余りに壮大すぎて、エスメラルダには完全に理解することはできなかった。
しかし、部分部分で言っている意味は分かる。
この星を守り、そして更なる未来への道を切り開く。
それがハインの考えなのだろう。
「どうすればよいのでしょうか……?」
エスメラルダは問いかけた。
「簡単な事だ。争いを無くしてしまえばよい」
そういってハインは掌を星に向けた。
その手はまるで眼下の世界を掌握するかのように見える。
「"Haec terraum vestra, meo dominium credere voltis"」
ハインが紡いだのは古代フジューラ語だった。
古代フジューラ語──それは千年以上前、大陸全土を統一したフジューラ帝国で使われていた言語。
現在では学者や高位の魔術師のみが習得するのみとなっているが、多くの魔術の詠唱や古文書の解読には欠かせない。
特に高度な魔術になればなるほど、古代フジューラ語での詠唱が必要とされる。
それは単なる言葉ではなく、世界の理に干渉する力を持つとされているからだ。
「この言葉の意味する所はこうだ」
ハインが説明を加えた。
「"圧倒的な力を持つ王が治める世界には、いかなる瑕もない"」
「それは、つまり……」
エスメラルダはここでようやくハインの言いたい事に気づいた。
それは公爵家の者として看過出来ない。
なぜなら、ハインが言っている事はつまり──
「ハイン様は、王権を……?」
恐る恐る尋ねるエスメラルダの言葉に、ハインはふ、と笑った。
その笑みは、星の光を受けて妖しく輝いた。
「ガイネス帝国だけではない。世界だ」
エスメラルダの目が見開かれた。
世界征服。
それは誰もが一度は夢見て、しかし誰も成し遂げたことのない偉業。
かつての魔王ですら、完全な世界征服には至らなかった。
「そのためにはお前の力が必要だ、エスメラルダ」
ハインの紫紺の瞳が、真っ直ぐに彼女を見つめていた。
「俺に力を貸せ──この星の為に」
世界ではなく星。
そのスケールの大きさにエスメラルダはくらくらと眩暈すら覚えた。
通常なら、そんな途方もない野望を聞かされれば、恐怖するか嘲笑するかのどちらかだろう。
だが、不思議と嫌悪感はわかなかった。
むしろ──
星光を背負うハインの姿はまるで神話の英雄のようだった。
その言葉にエスメラルダの胸が高鳴る。
こんな壮大な夢を、自分に打ち明けてくれた。
自分を必要だと言ってくれた。
それだけでエスメラルダの心は決まっていた。
「わかり、ました……」
エスメラルダは答えた。
しかし、彼女の心の中にあるのは、星の為という高尚な理想ではなかった。
──ハイン様、あなたのために
ただこの人の隣にいたい。
この人の夢を共に見たい。
例えそれが、世界を敵に回すことになったとしても。
それは決してハインには伝えない、乙女の秘事であった。




