妖精の幼生
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ヘルガ・イラ・アステールの一日は早い。
先代当主ダミアンが遺した負の遺産は、今なおアステール公爵家に重く圧し掛かっていた。
一言で言えば金の問題である。
なんと、十二公家の一家ともあろうアステール公爵家は、そこらじゅうの貴族家から借財をしているという惨状なのだ。
外法を為すに必要な儀式は珍しい触媒を多数必要とするものが多い。
そういったものを手に入れるために必要なモノの筆頭が金である事は言うまでもない。
ヘルガは書斎で分厚い帳簿を睨みつけ、こめかみをとんとんと指で叩いた。
「まったく、あの人は……」
夫であった男の顔を思い浮かべるだけで、胃のあたりが重くなる。
返済計画を立ててはいるものの、公爵家の威信を保ちながらこの借金を清算するのは骨の折れる仕事だった。
「ふぅ……」
窓から差し込む朝日に目を細める。
今日は学園で講義がある日だ。
正直、頭の痛い金策から解放されるこの時間は彼女にとってささやかな救いとなっていた。
◆
帝立サンフォード学園の講義室。
ヘルガが教壇に立つと、教室全体に張り詰めた空気が広がった。
理由はヘルガが帝国魔術師長ハバキリの教え子であったという事実もあるが、なによりもハインの存在である。
ハインはヘルガがやってくる前に生徒たちを──脅迫したのだ。
ゆっくりと教室全体を見渡し、その冷たい紫紺の瞳で一人一人を射抜くように見つめながらハインは言った。
「諸君に一つ、忠告しておく」
声は低く静かだったが、講義室の隅々まで明瞭に響き渡った。
「これから行われるのは、母上──ヘルガ先生による講義だ。その価値は、お前たち劣等の矮小な知性では到底測りきれぬほどに尊い」
ハインはそこで一度言葉を切り。
「万が一、この神聖な時間において居眠りや私語といった愚行に及ぶ者がいた場合」
「俺は理性的でいられる自信がない」
「俺は諸君らに特別な事を要求しているわけではない。真面目に講義を受けてほしい──それだけなのだ。できるな?俺とて級友を手に掛けたくはない」
そんなハインの言葉に、命知らずにも異議を申し立てる者は一人もいなかった。
◆
「皆さん、こんにちは。本日は魔力が与える影響について、実践を通してお見せしたいと思います」
ヘルガがやろうとしているのは、眼前の鉢植えに干渉し、成長を促す──ばかりでなく、魔力を浸透させて一種の「使い魔」を産み出す秘術である。
そのためにはまず、使い魔という存在について、皆さんの理解を深めてもらう必要があった。
「皆さんの中には、すでに使い魔の術を心得ている方もいらっしゃいますね」
ヘルガは穏やかな視線で教室を見渡し、窓際の席に座る一人の女生徒に声をかけた。
「リリアーナさん。窓の外から教室を見ている青い小鳥は、あなたの使い魔ですね?」
指名された女生徒ははにかみながら頷いた。
「はい、先生。あの子はピピです。でもどうして私の使い魔だと……」
「魔力の質を視ればすぐにわかります。ところでピピと心を通わせる時、あなたはどのようにしていますか?」
リリアーナは少し考え込んだ後、おずおずと答えた。
「ええと……ピピが嫌がらないように、優しく魔力を流して……お願いする、感じです」
「素晴らしい答えですね」
ヘルガは微笑んだ。
「その『お願い』こそが、この術の最も重要な核心なのです」
ヘルガは教壇をゆっくりと歩きながら、生徒たちに語りかける。
「魔力は単なる力ではありません。術者の意思や感情を乗せて、相手に伝える媒体でもあります」
「伝えるといっても様々な方法があります。手っ取り早いのは魔力で相手の意思を縛り、従わせたり。しかし、私が思う真の使い魔の術とは、相手の意思を尊重することから始まるのです」
ヘルガは教卓の鉢植えに視線を落とした。
「それは命令ではなく、『説得』。言葉を持たない生き物の心に寄り添い、協力してほしいという願いを伝えることで、種族を超えた信頼関係を築く。それこそがこの術の本来の姿なのです」
それは言うほど簡単なことではない。
力を込めすぎれば相手の精神を焼き切り、弱すぎれば意思は霧散する。
術者の魔力制御技術と、相手への深い共感が問われる高度な秘術であった。
ヘルガの生家であるエルデンブルーム伯爵家はこの手の術を得意とする。
「通常の使い魔の秘術──つまり、相手の意思を縛るといったものは、我々のような高度な知性を持つ相手には通用しません。強固な自我が外部からの介入を弾いてしまうからです。更に、そういった強制を以て使い魔と為しても、彼らは必要最低限の力しか貸してはくれないでしょう。しかし」
ヘルガは言葉を切り、鉢植えに視線を落としてつづけた。
「相手を“説得”することができたならば、術を及ぼせる対象は更に広がり、また、使い魔たちもより大きな力を貸してくれるでしょう。では、これより花の精に出てきてもらいましょうか」
そう言って、ヘルガは鉢植えに魔力を注ぎ始めた。
“花の精”とは特定の名前を持つような高位の存在ではない。
植物が持つ、ささやかで純粋な“意思”そのもの。
愛情を込めて育てられた植物がごく稀に見せる幻のようなものである。
その姿は千差万別だ。
ある時は目も口も鼻もない緑色の小人の姿で現れ、ただ楽しげに踊るだけ。
またある時は、蝶の羽を持つ美しい少女の姿を取り、見る者を魅了する。
後者はしばしば高位の「妖精」と混同されがちだが、その本質は比べ物にならないほど低級な存在だ。
人に害をもたらすこともなければ、特別な利益をもたらすこともない。
ただそこに現れ、消えていくだけの──いわば、“現象”である。
しかしヘルガは、その花の精に一つ“お願い”をしようと考えていた。
別に大したお願いではない。
生徒たちに花のかぐわしい香りを届けてあげてほしい、というようなものだ。
もちろん花の精が通常このような願いを聞き届ける事はないのだが、そこはヘルガには自信があった。
◆
ヘルガの魔力が鉢植えに注がれると、土から緑の芽が力強く顔を出した。
芽は見る見るうちに伸びていき、やがて可憐な一輪の花を咲かせる。
生徒たちから、ほう、と感嘆の声が漏れた。
だが、その驚きはすぐに困惑へと変わる。
咲いたばかりの花がゆっくりとその花びらを閉じていき──再び蕾の姿に戻ってしまったのだ。
失敗か、と何人かが思う。
ヘルガ自身も、内心は困惑していた。
だが──蕾が内側から淡い光を放ち始め、再びゆっくりと開いていく。
そして。
「……え?」
ヘルガの口から、素の驚きがこぼれ落ちた。
蕾の中心で、親指ほどの大きさの小さな人影が身じろぎしている。
やがてそれは蝶の様な透明な羽を広げ、ふわりと宙に舞い上がった。
「よ、妖精?」
「いや、花の精だろ……?」
そんな声が響く。
だが──
「恐らくは妖精……でしょうか? この濃密な魔力は花の精のそれではありませんわ」
「お、妖精じゃん。妖精の幼生ってやつだな。すげえなあハインのお袋さんは……」
アゼルは経験で、エスメラルダは推測で看破する。
光の粒子を振りまきながら、生まれたばかりの妖精が教室をくるくると飛び回る。
生徒たちは皆、口を開けたままその幻想的な光景に見入っていた。
妖精は悪戯っぽくくすくすと笑うと、一人の生徒の鼻先に止まり、そしてまた飛び立つ。
最後にヘルガの周りを一度だけ旋回すると、開け放たれた窓から外の世界へと軽やかに飛び去っていった。
一瞬の動揺を見せたヘルガだったが──
彼女は咳払いを一つすると、さも計画通りであったかのように穏やかに言った。
「あの子には帝国にもっと色とりどりの花々を、というお願いをしました」
その一言が静寂を破った。
「す、すごい……!」
「まさか、妖精を……!」
教室は畏敬と興奮のどよめきに包まれる。
エスメラルダは内心で戦慄していた。
──ありえない
妖精という存在自体は彼女も知っている。
しかし彼らは、数百年の時を経て大樹や古き泉から稀に生まれる気まぐれな自然霊そのものだ。
自然界を揺蕩う魔力が気が遠くなるほどの年月をかけて凝縮し、意思を持つに至った存在。
そんな妖精が長じて精霊となるのだが、そこまでいくともう地域によっては神と同一視されることもある。
人間の前に姿を現すことすら稀で、その意思を汲んでくれることなど万に一つもないはずだった。
「ヘルガ先生! 素晴らしい講義でした!」
「先生こそ、帝国一の魔術師ですわ!」
生徒たちが次々とヘルガの元へ駆け寄り、口々に賛辞を述べる。
その熱狂の渦の中で、ヘルガはやや引きつった笑みを浮かべながら優雅に応えるしかなかった。




