ママの講義②
◇
私は学園から講師用の私室で今日の講義の準備を進めていた。
机の上には魔術理論の教本がいくつか広げられ、その隣には小さな鉢植えが置かれている。
ふと手を止めて私は窓の外を眺めた。
ハインはここ数日、何かに夢中になっているようだった。
部屋に籠もる時間が増え、時折フェリに何かを運ばせている姿を見かける。
そういえばもうすぐ母の日。
最近になって妙に私の好みを尋ねてくることといい、何を企んでいるのかは手に取るように分かる。
「ネックレスとピアス、どちらがお好きですか?」
「緑色には何色が合うと思いますか?」
そんな質問をさも自然を装って投げかけてくる息子の姿を思い出すと、つい口元が緩んでしまう。
でも何も言わないでおきましょう。
一生懸命考えているのだから。
私は視線を机上の鉢植えに戻した。
今日の講義で使う予定の、まだ芽も出ていない種が埋まっているだけの小さな鉢。
それを見ていると、ふと昔のことが頭をよぎった。
──あれは何年前の事だったかしら……
◇◆
「母上!」
幼いハインが私に駆け寄ってきて、そのまま抱きついてきた。
小さな腕が私の腰にしっかりと巻き付いている。
「あら、どうしたの? ハイン」
私は微笑みながら、息子の柔らかな髪を撫でた。
ハインは私の服に顔をうずめたまま、くぐもった声で言う。
「母上からは緑の香りがします」
「あら、そう? さっき庭を見て回ったから、草花の匂いが移ってしまったかしら」
私が少し気にして自分の袖を嗅ごうとすると、ハインは顔を上げて首を横に振った。
「違います。それは魔力の匂いです」
「魔力の?」
私は首を傾げた。
魔力に匂いがあるなんて、考えたこともなかった。
「はい。母上の魔力は、春の新緑のような匂いがするんです」
ハインの瞳はまっすぐに私を見つめている。
「母上は植物のお手入れがとても上手ですよね」
唐突にハインがそう尋ねてきた。
「そうね……確かに枯らしたことはほとんどないわ。でも特別なことをしているつもりはないのよ?」
私は正直に答えた。
ただ植物を見ていると、何となくその子が何を欲しているのかが分かるような気がして、それに応えているだけだった。
水が欲しいのか、日光が足りないのか、あるいは少し休ませてあげた方がいいのか。
そんなことがなんとなく感じ取れる。
「おそらく母上は、知らず知らずのうちに魔術を使用しているのではないでしょうか」
ハインの言葉に、私は驚いて目を見開いた。
「でもそんな魔術はきいたことがないけれど──」
「母上の生家であるエルデンブルーム伯爵家は、代々自然との調和を重んじてきております。さらには始祖様がエルフェン種であることを考えると……」
ハインは一度言葉を切って、何かを思い出すような顔をした。
「ええと確か、書庫にある『覚者の道程』という書を読んでみてください。ヨハン・グリモワールという放浪の賢者が著したものなのですが、市井の人々が無意識に使っている魔術的才能について記した民俗学的著作なのです。中々に興味深いですよ」
◇
そしてハインに勧められた書物を読んでみた私は、自分にそのような力が備わっているのだと素直に信じた。
世間的には邪道にあたる魔術論ではあるため、他の者に言われたなら私も信じなかったかもしれない。
でも、ほかならぬ愛する息子の言葉だからこそ信じることができた。
そして時を経てハインの言葉は真実だったと分かった。
私は確かに植物に干渉する魔術を無意識に使っていたのだ。
思い出に浸っていると、扉を叩く音で現実に引き戻された。
「失礼します、ヘルガ様。講義のお時間です」
学園の職員が知らせに来たようだ。
私は立ち上がり、教本と鉢植えを抱えて講義室へと向かった。
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講義室はすでに生徒たちで埋まっていた。
最前列の中央には、いつものようにハインが座っている。
その隣にはエスメラルダ様。
二人は何やら小声で話していたが、私が教壇に立つと同時に会話を止めて前を向いた。
「皆さん、こんにちは。今日は魔術の体系について、少し変わった観点からお話ししようと思います」
私は鉢植えを教卓の上に置きながら話し始めた。
「魔術にはいくつかの分類があります。伝承や逸話から力を引き出すもの、上位存在へ祈りを捧げて力を借り受けるもの、不特定多数の共通認識を形と成したもの……」
生徒たちは真剣な眼差しで聞いている。
「そして、特定の血を引く者にしか扱えない血継魔術というものがあります」
その言葉に、何人かの生徒が身を乗り出した。
血継魔術は帝国では一種の特権階級の証でもある。
「血継魔術は十二公家特有のものとされていますが、実は他の貴族家にもそういった特殊な魔術を扱える家はあるのです」
私は生徒たちの顔を見回しながら続けた。
「ただしそういった魔術は特に分類されることもなく、多くは極々自然に失われてしまいます。なぜだと思いますか?」
一人の生徒が手を挙げた。
「伝承が途絶えてしまうからでしょうか?」
「それも一つの理由ですね。でも最も大きな理由は別にあります」
私は鉢植えに手を近づけながら言った。
「術者自身が自分が魔術を使っていると自覚していないからです」
教室にざわめきが起こった。
「魔術において最も重要なのは認識です。自分が何をしているのか、どのような力を行使しているのか。それを認識して初めて、魔術は真の意味で術者のものとなるのです」
私は深呼吸をして、鉢植えに意識を集中させた。
「私の生家であるエルデンブルーム家にもその様な力がありました。けれど私自身、以前はそれを自覚していませんでした」
そう言いながら、私は鉢植えの上にそっと手をかざした。
土の中で眠っている種に語りかけるように、優しく魔力を注ぐ。
目覚めなさい。
春が来たわよ。
太陽の光があなたを待っている。
詠唱はない。
心で想うだけだ。
すると──
「あっ……!」
生徒の一人が小さく声を上げた。
鉢の土がわずかに盛り上がり、小さな緑の芽が顔を出した。
芽はみるみるうちに伸びていき、葉を広げ、つぼみをつけた。
そして教室中が見守る中、純白の花が静かに開いた。
「すごい……」
「本当に咲いた……」
生徒たちの驚嘆の声があちこちから聞こえてくる。
私は少し誇らしい気持ちになりながら、ちらりとハインの方を見た。
すると息子は──なぜか両手を組んで、まるで祈るような姿勢をとっていた。
その真剣な表情が可笑しくて、私は思わず微笑んでしまった。
「このように、魔術は必ずしも大仰な詠唱や複雑な術式を必要とするわけではありません。時には、ただ心を通わせるだけで十分なこともあるのです」
私は咲いた花を優しく撫でながら言った。
「皆さんの中にも、もしかしたら自覚していない才能が眠っているかもしれません。日常の中で『なぜかうまくいく』ことや『いつも同じ結果になる』ことがあったら、それは無意識の魔術かもしれませんよ」
講義室は静まり返っていた。
生徒たちは皆、私の言葉を一言も聞き漏らすまいと集中している。
「ただし」
私は少し声のトーンを変えた。
「無自覚な魔術には危険も伴います。制御できない力は、時として術者自身や周囲の人々を傷つけることもあります。だからこそ、認識が大切なのです」
ハインがいつの間にか祈りの姿勢を解いて、熱心にノートを取っていた。
あの子はもう十分に自分の力を認識し、制御しているけれど。
私はハインの頭をそっと撫でたい気持ちを抑え、生徒たちがノートに講義内容を書き込んでいるのを眺めていた──心の中で、もうすぐ来る母の日に愛する息子は何をプレゼントしてくれるのか、と楽しみにしながら。




