新たな女王
◆
俺は掌中の黒い宝石をしげしげと眺めた。
劣等血吸い虫♀の残骸が転がる床に、もう一つ、劣等血吸い虫♂が無様に転がっている。
どちらも胸部、かつて心臓があったであろう場所にぽっかりと大きな穴が開いていた。
フェリの見事な仕事である。
「“夜の雫”が、連中の心臓だったとはなあ」
呟きながら、俺は再び手の中のそれに視線を落とす。
それは吸い込まれるような深淵の黒。
磨き上げた黒曜石のようでもあり、それでいて内部から仄かな光を放っているようにも見える。
角度を変えるたびに、その表面を星屑のような微細な煌めきが走り、妖しいまでに美しい。
まるで夜空そのものを一片切り取って固めたかのようだ。
これが「夜の雫」。
劣等全裸女の情報によれば、高位のアンデッドが心の底から生への希求を抱いた瞬間に、魂核から滴る“渇望の結晶”だという。
なるほど、確かにこれは母上への贈り物として素材の一つに加える価値があるかもしれん。
しかし俺はどこか不満だった。
「……どうにも、こう、しっくりこないな」
この宝石の美しさは認める。
希少性も申し分ないだろう。
だが何かが違う。
母上のお召し物、母上の纏う雰囲気、母上の存在そのものの気高さ。
それらと完璧に調和する宝飾品を作り上げるには、この「夜の雫」だけでは何かが足りない。
──いやあるいは
あるいは、余計なのかもしれん。
この宝石が持つどす黒いまでの渇望の念。
それが母上の清浄な肌に触れること自体、許されるべきではないような気もする。
まあ加工の過程でそのあたりの穢れは浄化すれば済む話ではあるが。
「それともう一つは完全にダメだな。小さいし、色も薄い」
俺は懐から先ほど劣等血吸い虫♂だったものから回収した、もう一つの「夜の雫」を取り出した。
♀のものと比べれば、一回りも二回りも小さい。
色も深い黒というよりは、やや煤けたような濃い灰色に近い。
艶も明らかに劣る。
これでは、母上への贈り物に使うなど論外だ。
せいぜいフェリかミーシャにでもくれてやるか、あるいは実験材料にするくらいが関の山だろう。
俺は不満げに首を振った。
この塔にはもう用はない。
次の塔だ。
期待したほどの成果は得られなかったが、まあ、手ぶらよりはマシか。
「フェリ」
俺が呼びかけると、背後に控えていたフェリが音もなく一歩進み出た。
「あの劣等を連れてこい。この塔は潰すからな。趣味が悪い。いずれ母上が世界を掌握した時、母上の御世にこのような醜悪なものを残しておきたくはない」
「かしこまりました、若様」
フェリは恭しく一礼すると、部屋の隅で未だ全裸のまま呆然と座り込んでいる劣等全裸女の方へ向かった。
その女は俺たちのやり取りを理解できたのかできなかったのか、ただ虚ろな目で床の一点を見つめている。
フェリは特に頓着する様子もなく、その女の腕を掴むと、まるで荷物でも運ぶかのように引きずって塔の外へと連れ出した。
俺もそれに続く。
塔から数十メトルほど離れた場所で、フェリはエイラを地面に無造作に放り出した。
女は受け身も取れず、鈍い音を立てて地面に転がる。
そのまま動かない。
死んではいないようだが、精神的に限界なのだろう。
まあどうでもいい。
俺は塔へと向き直り、意識を集中する。
この悪趣味な骨と肉塊の建造物を、正確に、かつ周囲に被害を出さずに消滅させる必要がある。
座標を指定。
対象は塔とその基礎部分。
力の指向性と収束点を設定。
──グラウ・ヴ・オムニス・グレイ・ヴ・ニイル。振るえ、瞋恚の打擲
静かに紡がれた言の葉が、大気に溶け込む。
そして、俺は魔術の名を告げた。
──地極星母重鎖陣
瞬間。
悪趣味な塔がまるで目に見えない巨大な何かに押し潰されるかのように、ゆっくりと、しかし確実に収縮を始めた。
ぎしぎし、と骨が軋む音。
ぶちぶち、と肉が引き千切れる音。
それらの音すらも、発生と同時に塔の中心へと吸い込まれていく。
塔を構成していたおびただしい数の犠牲者たちの骨や肉は、凄まじい重圧によって粉砕され、圧縮され、やがて元の形を留めない歪な塊へと変貌していく。
破片一つ、塔の外へと飛び散ることはない。
発生した超重力場が塔そのものを一個の閉鎖空間へと変えているからだ。
やがて天を突くようにそびえ立っていた塔は、直径数メトルほどの球体へと成り果てた。
そしてそれすらもさらに収縮し続け、最終的にはビー玉程度の大きさの黒く重い塊となって地面にめり込んだ。
周囲の木々は葉の一枚すら揺れていない。
完璧な仕事だ。
ふと地面に転がったままの劣等女が目に入った。
そういえばこいつは、仲間がどうとか言っていたな。
助けて欲しいだったか。
「おい、劣等」
俺が声をかけると女の肩がびくりと震えた。
ゆっくりと顔を上げるその瞳には、もはや何の光も宿っていないように見えた。
「お前は仲間を助けて欲しいと言っていたな。一応、伝えておく。この塔に生ある者は俺たち以外に存在していなかったぞ。俺が感知した限りでは、だがな」
本来ならばこのような情報をわざわざ劣等に教える義理など微塵もない。
だが、まあ、あれだ。
「夜の雫」の作り方とやらを教えたことに対する、アフターサービスというやつだ。
俺は存外律儀なのだ。
俺の言葉を聞いた劣等女はしばらくの間虚ろな目で俺を見つめていた。
やがてその瞳からぽろり、ぽろりと涙がこぼれ落ち始める。
そして次の瞬間には、まるで堰を切ったようにわあわあと声を上げて泣き出した。
赤ん坊のように、ただひたすらに。
馬鹿みたいだな。
俺は心底そう思った。
──が。
「劣等女、お前は仲間を喪ったんだったな。殺されたわけだ。汚らしいアンデッド共に──無惨に」
俺は馬鹿みたいに泣きじゃくる劣等女に話しかける。
「哀れだとは思わないか?」
俺の言葉に、女の嗚咽がわずかに途切れた。
「お前を信じてついてきた仲間たちは、お前の判断ミスによって命を落とした。当然お前は憎んでいるのだろう。お前の仲間を殺した連中のことを。だがな、劣等」
俺はそこで言葉を切った。
女の震えが、先ほどとは質の異なるものに変わったのが分かったからだ。
「お前が本当に憎いのは、お前自身なのではないか?」
劣等女の目にぎらぎらとした光が宿った。
虚ろだった瞳の奥に、ようやく人間らしい感情の色が戻ってきたようだ。
それは憎悪。
あるいは絶望。
どちらでもいい。
「……何が……言いたいのですか」
絞り出すような声。
ぎりり、と歯を食いしばる音が静寂の中でやけに大きく聞こえる。
「怒ったか? 図星を突かれると、人は怒る。だがお前は劣等だ。人では──なぁい!」
俺はそう言って、劣等女の頬をひっぱたいた。
乾いた音が響く。
女の顔が僅かに横に傾いだ。
「劣等、お前は劣等だ。大切なものを守れなかったのだからな。弱い、脆弱! 劣等! だが──まあしかし」
俺は言いながら、劣等女の手元を見る。
倒れた拍子に拾ったのだろう、劣等女が鋭く尖った石の欠片を握りしめている。
その手首をフェリが握っているのでどうしようもないだろうが。
「俺に手向かおうとは見上げた根性だ。だから褒美をやる」
俺はそう言って、意識を死霊術の構築へと集中させた。
ダミアン──俺の生物学上の父であった男の蔵書より学んだ術だ。
大して有用でもない埃の被った魔術体系ではあるが、今のこの場では有用だろう。
この女の憎悪と絶望。
そして、おそらくは仲間への未練。
それらは良質な触媒となる。
魔力での書き換えとは違い、アンデッドを一から再構築する場合にはそれなりに手間をかける必要があるのだ。
──魂なき虚ろなる影どもよ、血の盟約を今一度此処に結ばん。叶わぬ願い、無念の涙よ。我が呪われし魔道の道標となれ(モルス・サンクトゥム・ウェネフィキウム)
そして、術式の名を告げる。
── 屍誓血讐縛霊呪
俺の言葉と同時に、周囲の大地が蠢いた。
黒く変色した土くれが盛り上がり、そこから次々とアンデッドが這い出してくる。
腐臭を漂わせるゾンビの群れ。
錆びた武具を纏ったスケルトン・ナイト。
そして、首なしの黒鎧を纏ったデュラハンも数体。
だが、それだけでは終わらない。
「あ、ああッ!?」
劣等女が信じられないものを見たかのように目を見開いた。
その視線の先、大地から湧き出たアンデッドたちとは別に、青白く揺らめく半透明の女戦士たちの姿がゆらりと現れていた。
ファントム・ウォリアー。
生前の姿を色濃く残した、強力な霊体アンデッドだ。
三体の女戦士の霊。
悲しげな目で劣等女を見つめている。
「マルシア……アリス……ミアッ!!」
「やはりお前の仲間とやらは死んでいたな。それでだ。こいつらも含めて、ここにいるアンデッドたちの指揮権をくれてやろう」
俺は無造作にアンデッドたちを指し示した。
「だから殺せ。復讐を成せ。俺はあと二つの塔を落とし、“夜の雫”を手に入れる必要がある。そのための露払いをお前がしろ。良いな?」
劣等女はしばしファントムたちと俺の顔を交互に見つめていた。
その瞳の中で、様々な感情が渦巻いているのが見て取れた。
やがて劣等女はゆっくりと、俺の前に跪き──。
「……はい、我が主よ」
その声にはもはや先程までの弱々しさは欠片もなかった。
あるのは決意だけだ。
「では行け」
俺が言うと、劣等女はふらふらとした足取りで森の奥へと消えていった。
それを見送り、俺は母上の言葉に想いを馳せる。
──『ハイン……力のある者は、いえ、力のある者だからこそ、下々の想いを汲んでやらねばならない時もあるのです。言いなりになれというわけではありません。彼らが何を望み、何に苦しみ、何に怒りを感じているのか。それを知ろうとすること。それもまた、上に立つ者の務めの一つなのですよ。ただ力を振りかざすだけでは、真の支配は成り立ちません。時には慈悲を、時には厳格さを。そして何よりも、彼らが自らの意志で貴方に従うように導くこと。それこそが、真の貴族の在り方というものでしょう』
ああ、母上……ママ。
僕はママの思う貴族足りえているでしょうか。
新作「お姉さんと僕」(ローファン)もよろしくおねがいしまーす。八尺様バディもの




