吸血女王の災難③
◆
勝てない──
そんな諦念がエリザベトの心を支配していた。
「わ、わたくしたちは……その……夜の雫というものを、お渡しすれば……」
エリザベトはかろうじて声を絞り出した。
震える声には、命乞いの響きが色濃く滲んでいる。
助かるかもしれない、という僅かな希望。
それだけが今の彼女を支える唯一の光だった。
しかしその実、エリザベトは「夜の雫」が何であるのか全く知らなかった。
聞いたこともない代物だ。
だが、この場で「知らない」と答えればどうなるか。
想像するだけで全身の血が凍るような感覚に襲われる。
エリザベトは助けを求めるように、傍らに跪くアルフォンスに視線を送った。
アルフォンスもまた、蒼白な顔でハインを見上げていた。
主であるエリザベトの視線に気づき、彼は微かに首を横に振る。
その表情は絶望に染まっていた。
彼もまた、「夜の雫」については何も知らなかったのだ。
アルフォンスは意を決し、神妙な面持ちでハインに問いかけた。
「……恐れながら、その“夜の雫”とは、いかなるものでございましょうか。我々も寡聞にして存じ上げず……」
舌打ち。
明確にプレッシャーが増した。
息が詰まるような圧迫感が、玉座の間を満たしていく。
エリザベトは、これまでの人生で最も集中的に思考を巡らせていた。
この窮地を脱するための方策を。
「夜の雫」とは何か。
宝石か、秘薬か、あるいは何かのアーティファクトか。
だがどれだけ思考を巡らせても、答えは出なかった。
冷や汗が背中を伝う。
やがて、ハインが小さく溜息をついた。
「……本当に知らないらしいな。ならば良い」
ハインはそう言うと、あっさりと二人に背を向けた。
まるで興味を失ったかのように、部屋の出口へと歩き出す。
エリザベトはその背中を見つめながら、全身から力が抜けていくのを感じた。
助かったのか。
見逃されたのか。
安堵感が全身を包み込み、崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。
しかし──。
「お待ちください!」
鋭い声が玉座の間に響き渡った。
声の主は、先ほどまで隅で全裸で震えていた女だった。
ハインがぴたりと足を止める。
ゆっくりと振り返るその顔には、何の感情も浮かんでいない。
女──エイラは、床に両手をつき、必死の形相でハインを見上げていた。
「わ、私は……夜の雫の、“作り方”を、知っております……!」
ハインの目が、わずかに細められた。
「作り方、か。良し、教えろ」
エイラは一度唇を噛みしめ、懇願するように言った。
「仲間を……! 私を助けていただけるなら……ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、エリザベトの表情が一変した。
安堵から一転、激しい怒りがその美しい顔を歪ませる。
「貴様……! この状況で、何を……!」
エリザベトはエイラに向かって、その鋭い爪を振り上げた。
余計なことを言う前に八つ裂きにしてくれる。
そう思った瞬間。
ハインが、傍らに立つフェリに僅かな目線を向けた。
刹那、フェリの姿が掻き消え、エリザベトが振り下ろそうとした腕にそっと手を触れさせる。
「きゃあああああああッ!!」
甲高い悲鳴が、エリザベトの口から漏れた。
信じられないという表情で、彼女は自分の腕を見下ろす。
フェリに触れられた箇所から、まるで黒い病に侵されたかのように皮膚が急速に腐っていく。
「エリザベト様ァッ!! き、貴様!!!」
アルフォンスが絶叫し、フェリに向けて剣を構えようとした瞬間、左目に何かが突き刺さるのが見えた。
細身の短剣だ。
アルフォンスは両手で顔を覆い、床に蹲る。
ハインはエイラを一瞥した。
「助けてやった。先払いだ。しかし、その仲間とやらは知ったことではないな」
エイラは唇を強く噛みしめ、俯いた。
仲間の救出はこの少年にとって交渉の余地すらないのだろう。
──それでも今は
自らが生きてこそ浮かぶ瀬というものもあるかもしれない。
そう考えるエイラ。
ハインは淡々とエイラに尋ねる。
「で、その作り方とは?」
エイラは震える声で答えた。
「……高位のアンデッドが……生への希求を、心の底から抱いた瞬間……自らの魂核から滴る“渇望の結晶”──それが夜の雫、だとされています」
ハインは僅かに眉をひそめた。
「つまりどういう事だ? いや、言うな──ふうむ……生への希求、ね。つまりあれか」
ハインはそう言うと、“これ”を、と呟きながらエリザベトを見た。
まるで実験動物を観察するかのような目だった。
「苦しめれば良いのかな?」
エイラは、ハインの言葉に小さく頷いた。
エリザベトの顔が恐怖に引きつる。
もはや逃げ場はない。
ハインはフェリに視線を送った。
「フェリ」
ハインの短い呼びかけに応じ、フェリは音もなくエリザベトに近づく。
そしてエリザベトの残った腕、そして両脚に次々と触れていく。
「ひっ……あ、ああッ……!」
エリザベトは恐怖した。
なぜなら、痛くないからだ。
痛みが全くないのに──
溶けていく。
どろどろと……腕が、脚が。
痛みは、ない。
それが逆にエリザベトの恐怖を際限なく増幅させた。
熱いのか冷たいのかさえ判然としない感覚が、四肢の末端から這い上がってくる。
腐敗とも壊死ともつかない、名状しがたい変質。
自身の身体が、自分のものではなくなっていくという絶対的な喪失感。
そしてその不可解な侵食が、奇妙な痺れと微かな疼きを伴って彼女の意識の深奥を刺激し始めていた。
じわりと潤む女陰は、まぎれもなくエリザベトの性感が刺激されている証左である。
フェリはエリザベトの内心の動揺を見透かしたかのように、静かに語りかけた。
「怖くありませんか? その快感が私の意思一つで、今度は堪えられないほどの激痛へと変わるのですよ」
その声は鈴を転がすように澄んでいるが、内容は悪魔の囁きそのものだ。
「一部の薬物でも似たような効果を得られます。これが案外に堪えるのです。最初からただ痛めつけられる方がまだどれほどマシか──そう思えるほどに、ね」
フェリは、まるで過去の経験を懐かしむかのように続けた。
「私も通った道ですから、そのお気持ちはよくわかるのです」
フェリの指が、エリザベトの胸元へとゆっくりと移動した。
乳房、そして突起を優しく愛撫するように動かすと、エリザベトの口からは意図せぬ嬌声が漏れる。
しかし現実は無惨だ。
エリザベトの白く滑らかだったはずの肌はまだらな変色をきたし、所々どす黒く変じていた。
更には指先が──沈む。
まるで柔らかな泥に指を差し込むかのように、抵抗なく沈んでいく。
皮膚を、肉を、骨を腐らせ、溶かしながら、フェリの指が──そして手首までもがエリザベトの肉体へと埋没していく。
「あなたたちがいてくれて、本当に助かりました」
「私のこの力は無機物にはあまり効果がないのです。ようやく、こうしてちゃんと“お仕事”ができますわ」
フェリは恍惚とした表情さえ浮かべているように見えた。
「お礼と言ってはなんですが、少しずつ、少しずつ、丁寧に壊させていただきますね」