聖女の契りの苦難②
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一言でアンデッドといってもその種類は多岐にわたる。
中でも「吸血鬼」と呼ばれる種は、古くから人々に恐れられてきた存在だ。
彼らは夜陰に乗じて人の血を啜り、その生命力を糧とする不死者である。
高い身体能力と驚異的な再生能力を持ち、一部の個体は魔術的な技能さえ行使する。
知性も高く、時には人間社会に巧妙に紛れ込み、獲物を狩る。
日光や聖なる印、特定の植物などを弱点とするが、それを補って余りある狡猾さと力を持つ。
その吸血鬼の中でも永い時を生きた上位種が存在する。
彼らは「吸血鬼の王」と呼ばれ、その危険性は通常種とは比較にならなかった。
ヴァンパイア・ロードは下位の吸血鬼や他のアンデッドを使役し、眷属として支配する。
たった一体の個体が軍団を作り出す事ができるのだ。
不死王ファビアンに仕える四魔の一角、ヴァンパイア・ロード「エリザベト」もまた、そのような恐るべき存在の一人であった。
エリザベトは人間離れした妖艶な美貌を持っていた。
夜空を溶かし込んだような艶やかな黒髪は、滑らかに肩から背へと流れ落ちている。
雪のように白い肌は陶器を思わせ、その上で血のように赤い瞳が妖しい光を放っていた。
さて、そんなエリザベトは今、自らが創造した「塔」の最上階、人骨で組み上げられた玉座に深く腰掛け、退屈そうに細い指で肘掛けを弄んでいた。
玉座の傍らには、一人の美青年が彫像のように静かに侍っている。
青年は絹糸のような銀の髪を持ち、その切れ長の瞳は氷のように冷たい蒼色をしていた。
肌はエリザベト同様に白く、中性的な顔立ちは人形めいた完璧な美しさを湛えている。
黒を基調とした従者の装束を身に纏い、その立ち姿からは一切の感情が読み取れない。
彼の名はアルフォンス。
古くからエリザベトに仕える従者である。
ロードを冠する事こそないが、それでも強力なヴァンパイアだ。
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この「塔」は、エリザベトの美意識と嗜虐性を色濃く反映した建造物であった。
その主たる目的は、なるべく強い負の感情──恐怖、絶望、憎悪──を残すような殺し方をした生物の血肉や骨を素材とし、そこから生命力を吸い上げて集積する一種の装置である。
しかしエリザベトにとって、単なる機能性だけでは不十分だった。
塔の外観は、犠牲者たちの白い骨が複雑な螺旋模様を描きながら天へと伸び、その隙間を埋めるように赤黒い血肉が歪んだステンドグラスのごとく嵌め込まれていた。
「ねえ、アルフォンス」
エリザベトが、鈴を転がすような、しかしどこか温度のない声で傍らの青年に呼びかける。
「つい最近捕まえた子たちがいたでしょう? その中にレア物が居たって言っていたわよね? 連れてきて頂戴。ちょっと喉が乾いたの」
「はっ」
アルフォンスと呼ばれた青年は感情の籠もらぬ声で短く応えると、その姿を霧のように掻き消した。
吸血鬼特有の霧化の能力である。
エリザベトは特に気にする様子もなく、再び指で肘掛けをなぞり始めた。
やがて玉座の正面に位置する、無数の頭蓋骨で装飾された巨大な扉が重々しい音を立ててゆっくりと開く。
扉の向こうから現れたのはアルフォンスだ。
ただし一人だけではない、捕虜を連れている。
その手には一本の黒い鉄鎖が握られており、鎖のもう一方の端は、引きずられてきた者の首に嵌められた鉄製の首輪へと繋がっていた。
引きずられてきたのは全裸の女だった。
陽光を編み込んだかのような金の髪は見るも無残に汚れ、ところどころ血で赤黒く固まっている。
かつて澄んでいたであろう冬の湖面を思わせる青い瞳は、今は虚ろで、焦点が定まらない。
白い肌には無数の痛々しい傷や痣が刻まれ、手足は力なく投げ出され、首輪に繋がれた鎖に引かれるまま、床を擦って移動させられていた。
「あら」
エリザベトは、引きずられてきた女の姿を上から下までゆっくりと眺め、赤い瞳を細めた。
「これだけ?」
「はっ。他の“肉”はあまり質がよくありませんでしたが……」
アルフォンスは抑揚のない声で答える。
「そう。だったらいらないわ。あなたたちで“遊んじゃって”もいいわよ」
エリザベトは興味なさそうに手を振った。
他の捕虜たちの運命など、彼女にとっては些細なことなのだろう。
その冷酷な一言で、名も知らぬ者たちの末路が決まる。
エリザベトは再び目の前の女に視線を戻した。
「まあ、生きてさえいればいいわ」
エリザベトがくすりと笑い、手招きをする。
「行け」
アルフォンスが言うと、女は這う様にして前へ進んでいく。
その屈辱的な姿をエリザベトは愉悦に満ちた表情で見下ろしている。
そして、履いていた豪奢な靴の尖ったつま先を、女の顎の下にそっと差し入れ──女の顔を無理やり上向かせる。
「ふぅん?」
エリザベトは興味深そうに、女の虚ろな瞳を覗き込んだ。
どろついた絶望の黒沼の奥に──僅かに光る気高い意思の残滓。
「あら、いいわ。とてもいい。彼女、まだ諦めていないみたいね。良かったわ、そうでなくてはつまらないもの」
エリザベトは満足そうに微笑むと、女の顔をさらに近づけ、その赤い瞳と女の青い瞳を真正面から合わせた。
ヴァンパイア・ロードと直接対峙する際、最も警戒すべきことの一つが、彼らの持つ「魅了の魔眼」である。
視線を合わせた者の精神に直接作用し、その意思を奪い去る恐るべき力だ。
一度魅了されてしまえば、対象は術者の意のままに操られる人形と化す。
抵抗しようとすればするほど精神は激しく消耗し、時には完全に破壊されてしまうことさえある。
エリザベトほどの強力なヴァンパイア・ロードが放つ魔眼の力は、並の精神力では到底抗うことなどできない。
「あっ……!?」
女の喉から、か細い呻き声が漏れた。
その身体がびくりと震え、小刻みな痙攣が全身を襲う。
虚ろだった瞳が大きく見開かれ、焦点が合わないまま左右に揺れ動く。
「あ……あっ……あ……っ……」
意味をなさない声が途切れ途切れに口からこぼれ、よだれが顎を伝って床に滴り落ちた。
完全に折れてしまっているように見えても、エリザベトの見立て通り抵抗の意思は残していたのだろう。
しかし、その抵抗も長くは続かなかった。
やがて女の身体からふっと力が抜け、痙攣も収まる。
見開かれていた瞳は、再び虚ろな光を宿し、ただぼんやりとエリザベトを見つめるだけになった。
その表情からは、先ほどまで微かに残っていた抵抗の意思さえも完全に消え失せている。
エリザベトは満足げに頷くと──「アルフォンス、あれを」と声を掛けた。
「はっ」
アルフォンスは懐から小さなナイフを取り出し、女の手に握らせる。
それを見届けたエリザベトは、傍らにあった水晶でできた美しい杯を手に取り、女の目の前に差し出した。
「ねえ、可愛い小鳥さん。あなたのその綺麗な血を少しだけ私に飲ませてほしいの」
甘く、優しい声だ。
「そのナイフであなたの細い喉をそっと切って、この杯に温かい血を満たしてくれるかしら?」
女は魅了され、完全に忘我の状態にあった。
エリザベトの言葉は、彼女にとって絶対の命令となっている。
女は何の躊躇もなく、握らされたナイフを受け取った。
そしてゆっくりと、ナイフの刃を自らの白い首筋へとあてがう。
後はほんの少し力を込めて引くだけだった──が。
突如、階下から凄まじい轟音が響き渡った。
◆
塔全体が揺れるほどの衝撃に、エリザベトは眉をひそめた。
反動で、女の手からナイフが落ちているのを見たエリザベトは、軽く舌打ちをする。
「……何事かしら」
エリザベトは苛立ちを隠そうともせず、低い声でアルフォンスに尋ねた。
明らかに不機嫌そうだ。
「はっ。ただちに確認して参ります」
アルフォンスが恭しく頭を下げ、身を翻そうとしたその時だった。
玉座の間の巨大な扉が激しく揺れたかと思いきや次の瞬間、扉はけたたましい音を立てて弾け飛び、エリザベトの配下である上位のヴァンパイアたちが雪崩を打つように部屋へとなだれ込んできた。
大抵の場合、彼ら残酷な夜の住人はその瞳に嗜虐の色を滲ませているものだが、この時ばかりは違っていた。
彼らは皆一様に狼狽し、焦りの色を瞳に滲ませている。
「ちょっと! 一体何なのよ、この騒ぎは!」
エリザベトが金切り声に近い鋭い声で怒鳴った。
玉座から立ち上がり、不快感を隠そうともしない。
なだれ込んできたヴァンパイアの一人が、恐怖に引きつった顔でエリザベトの前に進み出ようとした。
「エ、エリザベト様! そ、それが! 配下の者共がッ……!」
ヴァンパイアがそこまで言いかけた瞬間、その身体が何の前触れもなく、真っ二つに裂けた。
鮮血が噴水のように舞い上がり、床の深紅の絨毯をさらに濃く染め上げる。
そしてヴァンパイアの裂けた身体の背後から、一体のデュラハンが音もなく姿を現した。
首のない胴体からは黒い瘴気が立ち上り、手にした錆びた大剣には今しがた斬り裂いたヴァンパイアの血が滴っている。
そればかりではない。
デュラハンの背後からは、おびただしい数のゾンビやスケルトンといった下級のアンデッドたちが、呻き声を上げながら次々と玉座の間へと侵入してきた。
エリザベトの配下である上位ヴァンパイアたちへと襲い掛かっているのだ。
別のヴァンパイアが、迫りくるアンデッドの群れを必死に払いながら叫んだ。
「連中がッ……! 大挙して、この塔をッ……! つ、強い! 馬鹿な! こ、こんなはずはァァァ──ーッ!!」
このヴァンパイアもただのアンデッドというには余りある力を持つ──のだが、四方八方から寄り集まってきたゾンビたちに纏わりつかれ、スケルトンの騎士が振りかざした錆びた剣に脳天をカチ割られてしまった。
「貴様らァ! 止まれ! 動くな!」
アルフォンスが声に魔力を乗せて大音声をあげる。
デュラハンと言えどもアルフォンスの支配力には抗えない──はずであった。
が、黒鎧の騎士はまるで指揮を執るかの様に大剣を掲げ、アルフォンスへ剣先を突きつける。
アルフォンスらからすれば理解不能の事象だ。
しかし、デュラハンからすれば当然の振舞いであった。
なぜなら、彼、あるいは彼女はすでに新しい主を戴いているからである。




