幕間:不死の大隊①
◆
森を吹き抜ける風は冷たく、そして陰惨な気配を多分に孕んでいた。
夜明けにはまだ早いはずなのに、枝葉の合間を縫う闇はやけに深い。
星明かりは雲に遮られ、足元すらもおぼつかない。
「まずい……くそっ、なぜこんなに湧いてくる……!」
荒い呼吸を漏らしながら駆ける男は、既に鎧を脱ぎ捨てていた。
高度な抗魔処理がされた高級な鎧だったが、天秤にかけるものが自身の命ならば比べるまでもない。
すぐ後ろをついてくるのは、少し華奢な体躯の女だった。
腰に吊るされた短い剣が、慌てた足取りに合わせて小刻みに揺れている。
「ハーヴェイ……ちょっと、待ってよ……!」
女はそう言いながらも、脚を止めずに必死に男を追う。
彼らは二人とも冒険者だ。
下は魔獣狩りから上は遺跡の探索まで、危険な仕事を担い報酬を得るのが冒険者の生業である。
この世界には冒険者ギルドが広く根付いており、依頼人が持ち込むさまざまな仕事を仲介する役割を担う。
軽装備の若者から凄腕のベテランまで千差万別だが、彼らは皆それぞれの力量に応じて等級を与えられていた。
男の名はハーヴェイ、女はベル。
どちらもユグドラ公国内で“銀等級”と呼ばれる中堅ランクの冒険者だ。
実績や戦闘能力はそれなりに評価されており、依頼の選り好みさえしなければ十分に生活していける程度の腕前を持っている。
そんな二人がいま、薄闇の森の中で必死に逃げているのはなぜか。
もちろん答えは一つ、森が異常な状態に陥っているからだ。
「なんだってこんな数のアンデッドが徘徊してんだよ……まるでどっかの遺跡が丸ごと開いちまったみたいじゃないか……」
ハーヴェイは震える声で吐き捨て、ぐっと足を踏み込む。
黒土の地面はどろりと湿っており、何度も足を取られそうになるが、転んだら最後、後ろから迫り来る忌まわしい存在たちに絡み取られるのが目に見えている。
ベルは焦げ茶色の髪を振り乱しながら、それでも辛うじて男の後ろを走り抜けていた。
「……こんな……こんなはずじゃなかった……。たかが湿地帯の魔物退治だって話だったのに……!」
彼女の声には、不安よりも憤りが強く滲んでいる。
森の奥に足を踏み入れた直後、奇妙な屍臭が漂ってきた時点で嫌な予感はしていた。
それがまさかアンデッドの群れだとは思わなかったのだ。
本来、アンデッドは特定の廃墟や呪われた霊廟など、ある程度限られた場所にのみ発生する。
それがこんな森の広範囲にわたって出現しているなど、常識では考えにくい。
「……ハーヴェイ、どうにかギルドに報告しなきゃ……絶対にやばい……」
「わかってる……このままじゃ、大惨事になる……。あいつら体力が尽きるって概念がねぇのか、ずっと追ってきやがる……」
言い終わらないうちに、背後の茂みからかさりと不快な音が聞こえた。
まるで乾いた骨どうしが擦れ合うような、湿った肉同士が引き裂かれるような、そんな嫌な音だ。
「ひっ……」
ベルの顔が青ざめ、咄嗟に短剣を握る。
しかし視線の先にいるものを見て、思わず声も出なくなった。
朽ちた革鎧を纏った骸骨が、その空洞の眼窩でこちらを睨むかのように立ち尽くしている。
「くっそ……」
ハーヴェイがぎりっと歯噛みをする。
確かに先ほど斜面を駆け下りる際、あの骸骨兵士らしきアンデッドをまいてきたはずなのだ。
にもかかわらず目の前に立ちはだかっているということは……。
「……回り込まれた……だと……?」
ハーヴェイが叫ぶより早く、骸骨はぎちぎちと顎を開閉させ、錆びた片刃の剣を掴んだまま突き出してくる。
ハーヴェイも反射的に腰の剣を抜いた。
ガキンと金属がぶつかり合う鋭い音が森に響く。
しかし、男の剣先は骸骨兵士の腕を浅く削るだけで深くは届かない。
ハーヴェイが息をのんだ瞬間、骸骨の口からまた不気味な音が漏れた。
音とも言えぬ呪詛のような、途切れ途切れの呻きのような、その声に混じって苦い血の臭いが鼻をつく。
「ば、化け物め……!」
ハーヴェイはさらに追撃の一撃を狙おうとするが、周囲の木立の陰から別の人影がぞろりと揺れ出した。
見るまでもない、どいつもこいつも腐臭を漂わせるアンデッドだ。
ベルが後退りしながら、必死に短剣を構える。
「ひどい……こんな……こんな数……」
骸骨兵士だけではない。
白く腐った生皮をぶら下げたゾンビ、頭蓋に半ば剥げ落ちた皮膚しか残っていないゴーレム風の死骸、それらが一斉に息の合ったようにこちらを取り囲んでいる。
「まずい……囲まれた……!」
ハーヴェイがそう呟いた次の瞬間、ベルは何かに気づいてさらに血の気を失う。
「ちょっと待って、あれ……前……!」
男もぎくりとそちらを振り返った。
暗い木立の向こうに、漆黒の鎧をまとった騎士の姿が浮かび上がる。
しかし、首がない。
頭部のはずのところは空っぽで、そこに負の魔力が渦巻くように黒い瘴気を吹き出している。
「デュラハン……」
ハーヴェイが唇をわななかせる。
騎士型の上級アンデッド──デュラハンはその身に濃厚な死の呪いを纏い、生者を見つけると執拗に追いかける。
その上、首がないせいで視野が狭いはずだが、恐ろしいほどの剣技で相手を屠るという。
銀等級の冒険者などで対処できる敵ではない。
人間の恐怖を煽るように、デュラハンは黒鎧を軋ませながら剣を掲げた。
他のアンデッドがざわりと勢いを増し、じわじわと二人との距離を詰めていく。
逃げ道はない。
視線の端に、ベルが小さく首を振るのが映った。
「……やだ、こんなのって……」
不意に頭をよぎるのは、平和だったギルドのカウンターや、仲間たちと酒場で笑い合った記憶。
それが今、森の闇に呑み込まれていく。
やがて地面を踏みしめる腐肉たちの音が更に一歩近づいた。
そして、悲鳴。
◆◆◆
セレンディア大陸の西方。
そこに位置するユグドラ公国は、森と湖に囲まれた小国である。
いわゆる宗教国家と言うやつだ。
「天教」──混沌を嫌い、秩序と救済を説く神アーネを崇拝する教義が、国内の政治や文化に色濃く影響していた。
元をたどればこの地にはかつて“神聖アルドラ帝国”という大帝国が存在したが、魔族との大戦を経て崩壊したと伝えられる。
帝国領の広大な西方地域は指導者を失い、諸侯が群雄割拠する混迷の時代へ突入した。
その中で台頭したのがアルドラ帝国の名門貴族、ユグドラシル公爵家だった。
彼らは魔族との戦いで功績を立てつつ、混乱の最中に周辺領をまとめあげ、自ら公国として独立を果たしたのである。
大国とは到底呼べない規模だが、宗教を中心とした一体感ある統治が功を奏している。
山深く、どこか神秘的な大地。
天教の総本山がある巨大な聖堂を中心に、信徒たちが巡礼に訪れる光景が日常に溶け込んでいる。
その一方で、魔獣の脅威に備えるため“冒険者ギルド”の活動も活発であった。
教皇庁や貴族が直接兵を派遣するには限界があるため、ギルドが仲介する形で冒険者たちが各地の問題を処理しているのだ。
だが、近年ユグドラ公国の周辺各地で異変が起きていた。
モンスターが増加し、各村や街道で被害が相次いでいるという。
そこにはどうやらアンデッドまで出没しているらしく、教皇もこれを無視できないとしてギルドに大規模調査を依頼したのだが、原因ははっきりとは掴めていない。
◆◆◆
ユグドラ公国の王都にある冒険者ギルド本部。
細長い尖塔を備えた石造りの建物が、他の民家とは一線を画すほど頑丈な造りを誇っている。
内部は広大なホールと無数の部屋があり、魔物の素材や薬品を保管する倉庫、依頼票の管理室、さらにはギルドマスター専用の執務室などが並んでいた。
その一室──重厚な扉が閉ざされた執務室に、“天騎士”ウェブスターの姿があった。
ウェブスターは年の頃六十に届こうかという初老の男性で、銀色の短髪を整え、端正な顔立ちに片眼鏡をかけている。
一見すると華奢にも見えるが、二つ名持ちの最上級冒険者である。
今、この執務室には幹部格の冒険者やギルド職員たちが数名集まっていた。
会議の空気は重苦しい。
机の上には手描きの地図が所狭しと並んでいる。
どれもうんざりするような報告が書き加えられて。
「……状況は聞いているが、私の想像をはるかに超えているな」
ウェブスターが低い声で言うと、周囲の冒険者たちがざわめき合う。
「はい、ギルドマスター。ユグドラ公国内の複数の森や沼地でアンデッドが目撃されております。その数があまりにも多すぎて、従来の小規模な討伐パーティでは追いつきません」
「俺たちが確認できただけでもゾンビやスケルトンがざっと五十を超えます……さらに、デュラハンまで出るという話だ」
「デュラハン……上級のアンデッドじゃないか。そんなのが野放しでは、下手に兵力を送っても餌になるだけだな」
口々に報告が上がり、ウェブスターは静かに頷いた。
「神聖アルドラ帝国が崩壊した後、魔族の残党が各地で暗躍したことは歴史が示している。東では竜王の残党共、こちらでは旧魔王軍の“不死の大隊”が名高いが……」
ウェブスターが言葉を濁すと、室内がしんと静まり返った。
旧魔王軍にはかつて“不死王”と呼ばれる将がいて、膨大な死霊兵団を率いてアルドラ帝国の国土を蹂躙したという史実がある。
しかし、勇者と呼ばれる存在が魔王を討ち果たしてから、あの不死王も姿を消したと聞く。
以来、目立った大軍勢を組織する力は失われたと言われてきた。
もし彼らが復活しているとすれば、単なるアンデッド騒ぎでは済まない。
「万が一だが……その不死王が再起を目論んでいる可能性はあるな。魔王不在とはいえ、奴が独自に勢力を伸ばすことは十分考えられる」
ウェブスターが口にすると、すぐ近くに立つ男が肩を震わせた。
「そ、それは想像したくもありませんが……だからこそ、教皇庁が早急に対処したがっているのでしょう。どうなさいますか、ギルドマスター?」
ウェブスターは老眼鏡を外し、手の甲で軽く目頭を押さえた。
幹部の冒険者たちに向けて、まず呼吸を整えつつ言葉を選ぶ。
「アンデッドの発生源を突き止める必要がある。ギルドとしても大規模な討伐隊を編成するほかあるまい。もちろん国軍の助力も仰ぐべきだが、教皇庁からの命令なしに迂闊に軍は動かせないだろう」
「確かに、ユグドラ公国は国防の多くを教皇庁に委任していますからね。公王も教皇も、どう動くか……」
「だが、そうやって迷っている間に被害が広がる可能性がある。……我々冒険者ギルドが先手を打つしかないな」
ウェブスターは机に置かれた地図を見つめ、指先でじっとある一帯を示す。
「ここだ。王都から北に三日ほどの密林地帯。この付近での目撃情報が最も多い。おそらく敵の本拠が近いと考えられる」
「なるほど。だったら、そこに討伐隊を送るか、大規模な偵察隊を……」
幹部の一人が地図を覗き込みながら、慎重な口調で提案する。
「最悪を想定しておく必要があるな……」
ウェブスターの呟きに、室内の全員がごくりと生唾を飲み込んだ。
教皇庁がこの事態に本腰を入れるのも時間の問題だ。
その前にギルドとして何をすべきか。
ウェブスターは立ち上がり、背筋を伸ばす。
「教皇庁には先ほどの報告書とともに協力を要請しておく。しかし我々は独自に討伐隊を編成し、先遣の探索隊も送る。私自身もサポートに回ろう。……正直、私のような老人が前線に出るのは気乗りしないが、悠長に構えてはおれん」
長年、剣を握っていない手がかすかに震える。
だが“天騎士”としての誇りは健在だった。
ギルドのメンバーは不安げな表情を浮かべながらも、ウェブスターの覚悟に圧されるように静かに頷く。
「了解しました。すぐにでも私たちが志願兵を募りましょう」
「いいだろう。こちらも街道にいる冒険者を総動員して応援に回す」
それぞれがたちまち動き出した。
書類を抱え、外の事務所へ走る者。
地図を眺めながら、討伐隊の編成名簿を書き出す者。
そしてウェブスターは一人、固い表情のまま小窓から外を見下ろす。
遠くの空には雲が重たげに漂っている。
まるで公国の未来を表すようだ、とウェブスターは舌打ちをした。




