幕間:帝国の毒花③
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ハインとオイゲンが相対した杖比べの翌日、帝都の貴族たちの間にはさまざまな噂が飛び交っていた。
わずか十五歳のハイン・セラ・アステールが、副魔術師長オイゲンを屈服させたという事実が話題の中心をさらっている。
この日、帝都東区の侯爵邸に集った貴族たちもまた、口々にハインの快挙を語り合っていた。
バラ園が自慢の広大な庭で催される昼食会だが、皆の関心事は花にはない。
「オイゲン殿はどう評価すべきなのでしょうか」
「杖比べを提案したのは彼自身だと聞きますが、まったく大恥をかいてしまいましたな」
「いやいや実際、“最初の火”があの様な──太陽のごとき形状へ変わるというのはオイゲン殿でなくとも膝をつかざるを得ないのでは」
貴族たちは興奮混じりに語り合っていた。
その華やかな場には宰相派の貴族も混ざっているものの、彼らも落ち着かない様子だ。
「宰相殿の腹心であるオイゲン殿があれほどまでに惨敗するとは……」
「ハイン・セラ・アステールを取り込もうという肚だったのでしょう? オイゲン殿の失敗で台無しになりましな」
彼らがひそひそ声で交わす言葉からは、危機感がありありと伝わってくる。
先日の杖比べで、アステール公爵家──もといハインという新星が一躍脚光を浴びただけでなく、宰相派にとっての大きな痛手となってしまったからだ。
そしてその痛手を最も深刻に受け止めているのは、言うまでもなくジギタリス本人である。
オイゲンが転がるように退出した翌朝、宰相府の執務室にはジギタリス派の有力貴族たちが招集されていた。
部屋に入った彼らは、まずあたりの空気の重苦しさに顔を曇らせる。
が、それでも誰かが口火を切らねば話は進まない。
「……宰相殿。オイゲン殿の件ですが、あれは今後どのように収拾を……」
灰色がかった髪をなで下ろし、憔悴した様子の侯爵が先陣を切る。
ジギタリスは背筋をまっすぐ伸ばし、いつものように端麗な容姿で椅子に腰掛けていたが、その表情には笑みの欠片もなかった。
「とりあえず、副魔術師長の職を解かれるかもしれないという話が、すでに皇帝陛下が管理する宮廷魔術師団内でも囁かれ始めております。もっとも、陛下が自発的に動くとは思えませんが……」
そう口にした瞬間、何人かの貴族は顔を見合わせる。
「宮廷魔術師長であるハバキリ様はどのように考えているのでしょうか」
ジギタリスが帝国宰相としてふるっている権力は絶大だが、だからといって宮廷魔術師団の人事に直接介入すれば、他の貴族派閥や騎士団から強い反発を受けかねない。
最悪なのはハバキリから敵視される可能性がある事だ。
“全能者”ハバキリは基本的に政治には一切関心を見せず、ただ魔術の研鑽に明け暮れている。
オイゲンはそのハバキリの弟子なのだ。
弟子といっても帝国全領土に何百といる弟子の一人にすぎないのだが、ともかく弟子は弟子である。
別にオイゲンを更迭したからといってハバキリは何も言わないし何もしないだろうが、だからといって自由に面子を潰して良いわけではない。
現にヘルガという(何百人といる中の一人の)弟子に対して、学園での職を用意したという過去もある。
政治には無関心であっても、弟子にも無関心だというわけではないのだ。
「オイゲンをどうするにせよ、当然ハバキリ殿に意見を仰いでからの話となります」
仮に敵対してしまった場合、何百人ものハバキリの弟子たちも一斉に敵に回してしまう可能性がある。
それだけは防がねばならない。
「もしや、オイゲン殿はこのまま……?」
恐る恐る尋ねる貴族に対し、ジギタリスは無表情のまま静かに言う。
「さて、どうなるかしら。正直、彼には失望しましたが……私は私のやり方で進めるだけです」
「し、しかし宰相殿。このままだと我々の派閥が、アステール公爵家をはじめとする亜人派に後れを取るのではありませんか? すでにいくつかの亜人派の貴族家が人種序列法について抗議文を送ってきております。幸いアステール公爵家からは何も声明はありませんが──」
そう言って焦りを隠せないのは、伯爵位の男だ。
浅黒い肌と縁の太い眼鏡をかけたその表情からは、危機感と苛立ちがないまぜになった色がうかがえる。
「宰相殿の方針には従うが、具体策をお示し願いたいものです」
たたみかけるようにもう一人の貴族も声を上げ、室内の空気はいよいよ重苦しい。
ジギタリスはその視線を一身に受け止め、ややあってから穏やかな仕草でテーブル上の書類を整えた。
「方針は変えません。わたくしは亜人をこの帝都から、そして帝国の中心から排除する考えを今もって変えておりません。……が、焦る必要はないでしょうね」
「で、ですが……」
「ただ、今の状況では強硬な手を打つのは得策ではない。今は静観しつつ、内部から崩せるポイントを探るべきですわ」
再び沈黙が落ちる。
集まった貴族たちは、それでは回答になっていないと思ったかのように眉をひそめる。
それでも宰相がそう言い切るのだから、下手に食い下がれば睨まれるだけだという恐れがあるのだろう。
一人、また一人と深いため息をつき、やがて「承知しました」と苦々しく言い残しながら執務室を退出していく。
最後に残った小太りの侯爵が、怒りを押し殺すかのように言葉少なに頭を下げ、ジギタリスに無言の抗議を伝えたのち去っていった。
こうして誰もいなくなった執務室の扉が閉まると、ジギタリスは椅子の背もたれにゆっくりともたれかかった。
壁に掛けられた大型の時計が規則正しい音を響かせている。
「はあ……」
ジギタリスは呟くように息を吐く。
弱さというものにうんざりしていた。
ジギタリスは弱いということが何より嫌いなのだ。
オイゲンが見せた弱さはジギタリスに吐き気すら催させた。
魔術の腕前云々の話ではなく、在り方が弱い。
それに自派閥の貴族たちもである。
群れるのは弱いからだ。
ジギタリスは強くなりたかった。
それは色んな意味でだ。
単純な力もそうだし、権力もそう。経済力もカリスマ性も、とにかく“力”と呼ばれるモノを欲している。
しかし自分が真の意味で強くなれない事は彼女自身が良く知っていた。
本当に強ければ、亜人排斥などという無意味なことに血道をあげるはずがないではないか。
だがジギタリスは亜人を憎む。
人より力強く、そして美しいからだ。
憎めば憎むほど、自身の弱さを見せつけられている気がするにもかかわらず、憎まざるを得ないのだ。
◆◆◆
ジギタリス・イラ・サルマンという女は、はじめから強さを求める性格だったわけではなかった。
彼女が弱さを憎悪する様になったのは少女の頃に経験したある出来事がきっかけだった。
ジギタリスが生まれ育ったサルマン家は帝都の北西街区に屋敷を持つ商家であり、貴族というほどの格式はなかったが、一応は市内でも名の知れた一族だった。
先祖伝来の広い倉庫を所有し、交易でそれなりの利益を上げてきた歴史を持っていたからである。
とはいえサルマン家に生まれたジギタリスにとって、屋敷の大きさや倉庫の広さなどは、なんの慰みももたらさなかった。
彼女の父、ガエウス・サルマンは真っ当な商人として特別な才能を持っていたわけではない。
にもかかわらずガエウスがそれなりの地位を確立できたのは、彼に一つだけ突出した才能があったからだった。
つまり、媚びへつらう才能である。
人を褒めそやし、持ち上げ、時には泣いてみせ、あるいは卑屈に笑いかけながら、相手の欲するものを探り当て、巧みに機嫌を取る。
商人であれば当然、取引や交渉においてある程度の愛想は必要だろう。
しかしガエウスの場合、それはあまりに過剰で商売の肝となる誠実さを二の次にしてしまうほどだった。
商品ではなく媚びを売る事に長けた商人を真っ当な商人といえるだろうか?
媚びを売るにも限度はある。
ましてや実の娘の肉体を売るとあっては、これは真っ当などとはとても言えなかった。
ガエウスには愛娘を慈しむという発想はなかった。
彼にとってジギタリスは、美しい外見を持った道具にすぎなかったのだ。
ジギタリスがまだ十を迎えるか迎えないかという頃から、サルマン家の商会にはよく高位貴族や大商人が出入りするようになった。
大きな儲け話があると匂わせて、屋敷の奥へと招き入れ、そこでもてなしの一部としてジギタリスを“使う”のである。
最初は些細なことだった。
居間に通された客の隣に幼いジギタリスを座らせ、甘えた声をかけるように指示する。
男たちは子どもの笑顔を見ながら取引の話を進め、ときには純粋そうな目にあてられて財布のひもを緩める。
ガエウスはそれを得意気に見守った。
そのうちに、もっと直接的にジギタリスを利用する話が持ち上がり始める。
大商人のひとりが、すっかり思い通りにならない交渉をまとめようとするガエウスに対し、「娘を部屋に連れて来い」と囁いた。
もとより異常な話である。
だがガエウスは沈黙のうちに、了承した。
彼は自分の能力だけでは交渉をまとめきれなかったため、最後の手段としてジギタリスを差し出したのだ。
その夜、ジギタリスは何が起きているのかをよく理解できずに怯え続けた。
押し入ってくる大人の手。
耳元で囁くきたならしい呼吸。
涙が止まらず、声も出せない。
だが、その場に来ていたガエウスは娘を抱きしめて守ろうとはしない。
代わりに男に向かって愛想笑いを浮かべ、娘の手首を掴んで差し出すのだ。
「こっちですよ、さあ、お好きなように……」
あのときの光景は、ジギタリスの心に一生消えない傷を残した。
そして、それは始まりにすぎなかった。
あるときは大商人に、あるときは街の権力者に、またあるときは貴族の卑劣な一団に。
屋敷の中で、あろうことかガエウスが見守る中で、ジギタリスは“商品”として男たちに弄ばれ続けた。
男たちが飽きれば投げ捨てられ、また別の客が来れば使い回される。
抵抗はしてみた。
爪を立て、噛みつき、叩かれても蹴られても暴れてみた。
だが、十にも満たない少女の力が大人の男に敵うはずもなく、むしろ酷い仕打ちを受けるだけだった。
ガエウスは、その様子を後で聞きつけると、「余計なことをするな、もう少し上手く愛嬌を振りまけ」と叱るのだ。
ジギタリスは心の底から思った。
──どうして?
自分の父親ではないのか。
なぜこんなにも残酷なことを平然とできるのか。
泣き叫んでも、声は届かない。
そうして彼女は次第にすべてを諦めるようになっていった。
もう叫んでも悲鳴をあげても無駄。
この家では誰も、彼女を助けてはくれないのだ。
そうして無力である自分を、ジギタリスはひたすらに呪った。
母がいた。
マーシャ・サルマンという名で、美しい人だったとジギタリスはかすかに記憶している。
ジギタリスが幼い頃には、母はまだガエウスを諦めきれず、家を支えようと懸命だった。
しかしガエウスが娘を使って金と地位を得ようとする姿があまりに醜悪だったため、やがてマーシャは完全に失望した。
「あなたは正気ではないわ。どうかしてしまったのね」
そしてジギタリスが十一の年に、マーシャは家を出て行った。
娘を気遣う言葉は最後まであったが、母自身の心が壊れかけていたのだろう、結局は何もできずに消えるように去ってしまった。
ジギタリスは母も自分と同じく“弱い存在”だと感じた。
父の暴挙を止めることもできず、娘を連れ出すこともせず、自分だけが逃げるように家を去ってしまう。
仮に娘を連れて逃げようにも、父親が黙っているはずはなかっただろう。
だが、それでも母は弱かったのだとジギタリスには思えて仕方がなかった。
その時彼女は初めて、心の底から弱さというものに嫌悪感を抱く。
ただ、この世の中で弱い者には居場所がないのだと、そう突きつけられた気がした。
母がいなくなった後、ガエウスはより露骨にジギタリスを扱うようになった。
まるで所有物か何かのように、客の好みに合わせて服装を変えさせ、飽きが来ないように言葉遣いまで仕込んだ。
ジギタリスはもはや叫ばない。
黙って男たちの求めるままに体を差し出し、歯を食いしばってやり過ごす。
その代わり彼女は冷静な目で、男たちの表情と行動を観察し続けた。
泣き叫んでいた頃よりもずっと客の態度がよくわかる。
つまり、男たちは欲望に支配されればされるほど思い通りに動かしやすいのだ。
怯えている振りをすると得意気になり、恋に落ちた振りをすると気まぐれに金品を手渡す。
道具として使われているのはジギタリスの方だったが、同時に男たちも彼女からすれば単なる駒に映った。
そしてある夜、ガエウスの屋敷で一人の若き貴族がジギタリスを抱いたとき、彼女の心はふとある決意を固めた。
──私がこいつらに使われるんじゃない。私がこいつらを使うんだ
この男も、父も、客人も、所詮はそれぞれ欲望の奴隷だ。
金が欲しい、女が欲しい、権力が欲しい。
ならば、そこを突けばいくらでも誘導できるのではないか。
思えば、ガエウスはまさしくその手口で商人としての成功を演出していた。
だが彼はあまりにも狭量だ。
娘という手駒を使うだけで満足しているにすぎない。
ジギタリスはそう理解すると、次第に客の男たちへ積極的に色を仕掛けるようになった。
といってもまだ十二歳にも満たない少女だ。
その幼さがかえって男たちの歪んだ欲を刺激する。
やがて、やり取りの最中に見え隠れする彼らの金銭事情や家系図を頭に叩き込み、自分なりに分析を始めた。
大商人が本当は破綻寸前の投機を抱えていること、貴族が実は爵位を買うために莫大な借財をしていることなど、様々な事情が垣間見える。
それらの弱みが、どれほど人間を支配できるかを学んだのだ。
こうしてジギタリスは弱さを憎みながら、同時に弱さを利用する術を覚えていった。
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ある日、ジギタリスは鏡の前で静かに立ち止まり、自分の姿をまじまじと見つめた。
細く長い手脚、大人びた面差し、切れ長の目。
美しい、そう呼ばれる素質が十分にあるとわかる。
だが彼女の胸には嫌悪感しか湧かなかった。
この美しさのせいで自分は人形のように男たちの掌で踊らされている。
いや違う。
弱いから踊らされている。
弱いから、誰の助けも得られずにこんな目に遭っている。
弱いから、母も去ってしまったのだ。
そして、この弱さこそが人間の本質なのかもしれない──そう感じ始めた。
ならば自分は変わらなければならない。
弱いままでは、他人に蹂躙され続けるだけの人生になってしまう。
ジギタリスはまだ幼いながら、自分がいる環境の異常さを理解していた。
この環境を離れたい、すべてを壊したい、そして自分の意志で生きてみたい──そう強く願うようになる。
しかし、そのためには力が要る。
こうして彼女はサルマン家に居続けたまま、父とその客人たちを利用しながら、やがて青年期に至る頃には貴族界隈の裏情報を把握する小さな怪物として知られるようになる。
だがどれほど美貌を武器にし、策を弄し、意を通しても、愛も安らぎも感じない。
代わりに生まれたのは冷たい虚無感、そして弱さへの変わらぬ侮蔑と憎悪だった。
◆◆◆
執務室に湿り気のある音が響く。
そして、息を荒らげる女の密やかな声も。
ジギタリスであった。
下腹部に伸ばされた指が動くたびに、押し殺すような声を漏らしている。
彼女の脳裏にあるのはあの時の火だ。
煌々と燃え盛る炎はまるで太陽の様で、魔術には疎い彼女ですら神秘を感じた。
だがその火よりもなによりも、それを一人の人間が生みだした事を彼女は畏れている。
弱さとは対極にある“強さ”が、彼女がもとめてやまなかった強さがそこにはあった。
「う……く──あぁっ」
達する寸前、火は、ハイン・セラ・アステールの似姿を取って彼女の脳裏に焼き付いた。




