老雄⓷
◆◆◆
「儂も老いたか。竜姿を取らせてしまうとはの。が──」
まあこんなもんじゃろうな、とグラマンは思いながら要塞の回廊を駆けていく。
その腕には人の頭部程の球状の何かが抱えられていた。
ねばつく透明の液体で覆われており、色は青い──即ち、氷竜眼である。
ファリスとの闘いの戦利品だ。
勿論グラマンも無傷ではない。
全身ボロボロで、言ってしまえば重傷を負っていた。
死んでいてもおかしくないほどの傷を負っているのに、グラマンの動きにはまるで淀みがない。
先ほどまでの激戦で左腕は肩から千切れかけ、背中の辺りからは大量の血が滲んでいる。
それでもグラマンは息を乱すことなく回廊を駆け抜けていた。
痛みを痛みとして認識せず、外部の情報として認識する業を身に着けているのだ。
床には魔族たちの血や肉片が散乱しており、鼻を突く鉄臭さが充満している。
それらを一瞥することすらなく、グラマンはずん、と足を踏み出すたびに瓦礫を跳ねのけ、暗い通路をまっすぐに進んでいく。
目指すのは要塞の最上階。
上階への最後の石段を飛び越えるように駆け上がると、広間一面が黒い泥沼に沈んでいた。
「オーマめ、食い散らかしおって……公爵家に仕える者としての自覚がないわい」
タールのようにねっとりとした液体が波を打ち、吸い込むだけで命を削り取る瘴気を吐き出している。
泥沼の中で魔族の兵たちがもがいていたが、その体は半ば溶けかかっているのか、あるいは意識を失いかけているのか、救いを求める声ですら途切れがちだ。
グラマンはその光景を冷えた瞳で見据えたまま、まったく躊躇せず、ズブリと足を踏み入れた。
足首まで沈み込み、粘液が傷口に染み込みそうなほどの激痛があっても、彼の表情には何の変化も起きない。
「オーマ、帰るぞ! 準備をせい!」
床全体を覆う黒い泥沼に向かって、グラマンが怒鳴りつける。
すると泥沼はガボリと穴を開けるように波紋を広げ、中心が渦を巻いて一点に収束し始めた。
濃厚な黒が寄り集まっていくその様は、まるで瘴気そのものが意思を持って集結するかのようだ。
そうして形成すは竜の似姿。
旧魔王軍西方方面軍師団長シャルキを喰う事で、オーマは竜というモノを知った。
グラマンはその背へと跳躍する。
「行くぞ」
そう一言だけ発すると、オーマが翼を大きく広げた。
冷たい突風が漆黒の液体を散らし、魔族兵たちが恨みがましい声を上げる暇もなく、その身体は闇に巻き込まれ、あちこちへと吹き飛んでいく。
次の瞬間、オーマは要塞の外壁を一気に蹴破るように突進し、そのまま廃墟めいたダルクヘイムの夜空へ消え去っていった。
◆◆◆
それから暫く経ち。
要塞内は随分と騒がしくなっていた。
最上階からずり落ちた石片が、ガラガラと甲高い音を立てて転がっていく。
生き残った者たちは突然の急襲に慌てふためいている。
大広間はひどい惨状だった。
かつての壮麗さはもはや見る影もなく、広間の床はほとんどが剥がれ落ち、天井の装飾は粉々に砕け散っている。
そこに一人の女性──青い髪を血で汚したファリスが倒れていた。
片方の眼はえぐり取られ、そこから生々しい体液が滲み出している。
全身に無数の傷を負ったその姿は、遠目には完全に息絶えているかのように見えた。
「ファ、ファリス師団長……!」
助けを求めるかのように小声で呼ぶ魔族兵たちが数人、ファリスの周囲に集まってくる。
恐る恐るその体を抱き上げようとした瞬間、ファリスの唇がかすかに震えた。
「生きてるぞ! 手当を急げ!」
一人が必死の声で叫ぶと、周囲の魔族兵も動揺をこらえながら応急処置の準備を始める。
凍気を帯びる彼女の身体に触れるのは危険だが、そんなことを言っている場合ではない。
何とかしてこの場で止血しなければ、いつ息が止まってもおかしくない状態だ。
「くそ……傷が深すぎる」
「魔力を注げ! 惜しむな!」
大広間に声が響く。
だが重篤な損傷と氷竜特有の耐性が複雑に絡み合い、上手く血を止められない。
それでも諦めずに魔力を送り続ける兵たちの姿は、もう「戦い」ではなく、「祈り」に近かった。
◆◆◆
ここはダルクヘイムからやや離れた場所に位置する巨大な洞窟だ。
そこは天井が異様に高く、奥深い場所に溶岩の流れが封じ込められているらしく、時折ごう、と地鳴りのような唸りが響く。
魔竜イグドラはこの洞窟の奥を住処としていた。
そんなイグドラのもとに青ざめた顔の魔族が駆け込んできたのは、まさにグラマンとオーマが要塞を去った直後だった。
「ご報告いたします……要塞が、何者かの襲撃を受け……」
荒い息を整えようとしながら、魔族がそれだけを言うと、イグドラはバッと立ち上がる。
竜眼が燃え上がる赫怒によって赤味を帯びる
「なにィ!?」
イグドラは言葉を途切れさせ、既に怒りに満ちた顔を歪めている。
竜化せずとも、彼の存在感は周囲を圧倒するほどだった。
「ファリスは何をしていた!」
「そ、それが襲撃者によって──」
イグドラは伝令の魔族の言葉が信じられない。
氷竜ファリスはこの要塞でイグドラの次に強いからだ。
しかしこんな事で伝令が虚報を伝えるはずもない。
イグドラが要塞に着いた時、そこにはもう敵の姿はなかった。
人の姿を毛嫌いするイグドラは要塞の外で報告を待つ。
すぐに息を切らせた魔族兵がイグドラを見つけ、状況を報告した。
ファリスが大広間で重傷を負い、今まさに生死の境を彷徨っていること。
襲撃者はわずかな人数か、あるいは単独に近い規模だったにもかかわらず、桁外れの力で城の守りを突破していったということ。
イグドラは歯噛みをしながらそれを聞き──
苛立ちを噛み殺すように低く唸ると、空へと飛び立った。
しかし、どれだけ目を凝らしても襲撃者らしき影は見当たらない。
怒りに任せて空を旋回し、咆哮を轟かせるイグドラ。
やがてイグドラは苦しげに息を吐き、ふと一つの疑念を抱く。
──魔王様の事と何か関係があるのか……?
と。
旧魔王軍の限られた者たち……力のある者たちは魔王ベルゼイの "声" を聞く事が出来る。
その声が少し前に途絶えたのだ。
イグドラは魔王ベルゼイがガイネス帝国皇帝ヴァルフリードの元へ潜ませていた部下から、受肉の儀の準備が整ったとして報告を受けていた。
しかし魔王ベルゼイが帝国へ向かったきり、 "声"は途絶え、何の音沙汰もない。
「まさか、勇者が……?」
イグドラはその可能性がないとは言いきれなかった。
「しかし勇者が既に選定されていたとしても、その力を振るうには長い修練が必要のはず……」
選定されたばかりの勇者が魔力体とはいえ魔王ベルゼイを滅ぼせるはずがないと思うがしかし、現実問題として魔王ベルゼイは帰還せず、多くの魔族が討たれてしまっている。
「仮に勇者ではないとすれば、 帝国には"何" がいるのだ……? 」
イグドラはネザシア海の彼方を睨みつける。
海面では荒れ狂う波が間断なく発生し、無数の漆黒の牙がはえている様にも見える──そんな荒海を一際明るく輝く "極星" が照らし上げていた。




