老雄②
◆◆◆
深淵の海、ネザシア海の彼方に広がるマリステル大陸。
その西端に位置する旧魔王軍西方方面軍の拠点──漆黒の城塞ダルクヘイムは、まるで巨大な石の亡霊のように荒涼たる大地にそびえ立っていた。
その城塞の最上部、鉛色の空を睨むように突き出た尖塔の上で、歩哨の男が退屈そうに背伸びをする。
空は厚い雲が重なりあい、陽光などほとんど射し込まない。
更に、ここは常に海から冷たい風が吹きつけ、寒気が無形の針と化して肌を突き刺すほどに冷える。
とはいえ獣族特有の分厚い毛皮を持つ歩哨の男にとっては問題ではないが。
ここからの見張りは重要な仕事だ。
仮に人間が攻め込んでくるとすれば海か空からということになるが、軍船かなにかでネザシア海を越えるのは不可能に等しい。
空ならば魔術なりなんなりでまだ可能性はある。
とはいえ、大抵は何も起こらないので退屈をもてあます事になるが──その日は何かが違った。
「……変だな」
歩哨は小さく呟く。
視界の端、遠い空に黒く揺らめく何かの影が見えたのだ。
最初は鳥かと思った。
だが、漠然とだが大きすぎるような気がする。
もしや魔獣か、それとも──と、不穏な想像が胸をよぎる。
「なんだ、あの影は……竜か?」
もうひとりの歩哨が声をひそめて言う。
旧魔王軍西方方面軍は竜種を中心とした軍団だ。
故に歩哨たちは、遠目には竜のように見える影をあやしまず、まずは仲間かもしれないと考えた。
「もし見覚えのある竜なら合図をくれるだろう。だが……」
不意に吹き上がる冷たい突風。
影がうっすらと姿を変え、じわりとこちらに近づいてくる。
「……やっぱりおかしいぞ」
歩哨のひとりが息をのむ。
見れば見るほど、その影は竜の形をしていながら、どこか歪んだ輪郭をしている。
翼も胴もまるで黒い煙が寄り集まったかの様に安定していない。
竜のようでいて竜ではない異形──
そんなモノが、音もなく要塞の上空を旋回し始めた。
すると──
「雨……?」
ぽたり、と目の前の石畳に漆黒の液体が落ちる。
城塞の高壁にいた歩哨は一瞬その黒い滴を見つめ、それが雨粒でないと気づくのにわずかな時間を要した。
次の瞬間にはそれが大量に降り注ぎ始める。
「毒か? 避けろ!」
思わず叫んで盾を掲げた者もいたが、その盾が役に立つ間もなく、黒い液体が生き物のように這いまわり、歩哨たちの鎧の隙間から肉体に染み込んでいく。
「う、うわあああっ……!」
声をあげた歩哨の腕の皮膚が、ずるり、と溶けて落ちた。
まるで炎に焼かれたような焦げくさい匂いが周囲を満たし、血や脂が混ざったような異様な蒸気が立ち上る。
黒い液体はさらに体内へと侵入していくのか、歩哨は激痛に襲われ、体を地面に叩きつけながらのたうった。
城塞のあちこちで同じ悲鳴が相次ぐ。
まるで闇の雨が世界を蝕んでいくかのように、床や壁をじわりじわりと浸食し、旧魔王軍の兵士たちを狂乱へ陥れた。
◆
ダルクヘイム内部──中央回廊を駆け抜ける伝令係は、「敵襲! 敵襲!」と声の限りに叫び続ける。
そんな伝令の報告を受けて、ダルクヘイム内部の通路を駆けるのは一人の女だ。
5人いる師団長のひとりである氷竜種のファリス。
サラリと流れる青い髪と整った肢体もつ美女──しかしその本性は凍てつく息を吐き出す恐るべき氷竜である。
誇り高い全竜種の中でも彼女は変わり種で、“竜の生まれ”を誇りながらもその巨大な異形の姿を忌み嫌っている。
魔術に佳く通じ、普段は人間の姿を取っている。
ちなみにイグドラなどはそんなファリスを余り良く思ってはいない。
それはともかくとして──
「こちらです、ファリス師団長! 外壁の上空から黒い液体が!」
扉を開け放った先、外壁の上に出ると報告通りの惨状が拡がっていた。
ファリスはキッと空を見上げ──
「何者かは分かりませんが、わたくしたちに敵対している事は確かな様ですわね」
静かな声。
だが、次の瞬間にはファリスの蒼い双眼が仄かに光り、その肢体に凄絶な凍気を纏い始めた。
「粉々にしてあげますわ」
両の腕を天に掲げると、キラキラと光る靄のようなものが空に向かって拡がっていく。
これは絶対零度の氷気を帯びた魔力の霧で、これに触れた黒い滴は次々と凝固していった。
凍った塊となり、ファリスの足元に砕け散る。
あるいは外壁の端をゴロリと転がり落ちていくものもあった。
先ほどまで悲鳴をあげていた兵士たちが、この光景を呆然と見つめる。
凝固の巻き添えで腕などを凍らせた者もいたが、それでも命を溶かされるよりはましだった。
「これでひとまずは──」
ファリスが安堵の息をつこうとした、その時。
「……あれは?」
兵のひとりが震えた声を出す。
ファリスが空を見上げると、先ほどの黒竜はまだ要塞上空を旋回しているが、黒い液体は降ってはきていない。
しかし──
──何か、来る
警戒を強めるファリスの目に、一瞬、何かが落ちてくるのが映った。
「……人?」
黒い竜から投げ出されたように、ひとつの人影がまっすぐ降下を始める。
いや、それは落下などという穏やかなものではなかった。
まるで弾丸が空を裂くように高速で突っ込んでくるのだ。
──狙いは、わたくし!?
「迎撃だ!」
兵が大声をあげるより早く、ファリスが再び息を吐く。
強力な指向性を持たせたそれは、空気中を突き進むうちに氷の大槍となってその影を刺し貫かんとする。
しかし。
「……なんですって?」
ファリスが目を見開く。
人影は氷の槍に正面からぶつかったはずだが、まるでそれらを弾き返すかのように軌道を変えず突き進んでくる。
その姿がはっきりと見えた瞬間、ファリスは息を呑んだ。
それは執事服を着た白髪の老人だった。
「キエェェェェイ!!」
猿叫にも似た甲高い叫び声と共に、老人は宙を蹴る。
すると勢いが更に増し、そして。
回避する間もなく、勢いそのままにファリスの頭部に老人の拳が叩きつけられ。
その衝撃で床が一瞬で崩れ、ファリスの体は老人諸共に屋上から要塞内部へと落ちていった。
「くそっ……師団長がやられたぞ!?」
取り残された兵たちが悲鳴をあげ、そこへぶわりと黒い何かが落ちてくる。
うぞうぞと蠢くそれは、オーマ。
◆◆◆
「随分と硬い頭をしておるわ!」
老人が叫んだ。
視線の先には瓦礫の山──その隙間から、青い髪が現れ、ファリスが苦しげに起き上がろうとしていた。
顔の半分が血に染まり、苦悶の表情を浮かべてはいるが、その瞳にはまだ闘志が燃えている。
「何者ですの……?」
声を振り絞るファリス。
「ほう! 儂を知らぬか! まあ儂も随分と老いたからのお……。お主らとは何度も殺し合ったものじゃが、しかし! 今回は別に世界を救おうだとかそんな大層な事を考えてはおらぬわい!」
老人とは思えぬ覇気に溢れた声が、回廊の瓦礫に反響する。
「わたくしたちと殺し合った? 世界を救う……? 一体何を……」
老人はにやりと嗤って言った。
「サーバイン殿は当然知っておるな?」
ファリスは、というか魔族なら当然知っている。
サーバイン。
それは魔王と相打ったとされる先代勇者の名だ。
「あのお方はな、聖剣を持てばそりゃあ強かったが、聖剣がなくとも強かったじゃろう? 当たり前じゃな、儂が喧嘩のやり方を教えたのだから」
「なる、ほど……」
ファリスは目を見開き、眼前の老人を改めて見た。
「あなたが、グラマンでしたか」
魔拳士グラマンは先代勇者の仲間として世界を旅して、多くの力ある魔族を滅ぼした。
しかし平民出身であることから当時のガイネス帝国の皇帝に疎まれ、姿をくらました。
「そのグラマンが何故、今更……」
それはの、とグラマンが答える。
「アステール公爵家に喧嘩を売ったからじゃな。次期ご当主様はの、アリステラ様の面影が色濃く残っておられる。儂はあの方を盛り立てていきたいのよ。なにせアリステラ様は儂の、うむ……まあ、その、惚れたお方じゃて」
アリステラ・イラ・アステール。
グラマンと同じく、勇者の仲間として先代魔王軍と戦った魔術師である。
アステール公爵家が特別なのは、このアリステラの功績も非常に大きいとされている。
「お主らから仕掛けてきたのじゃろう? だったら悪いがケジメはつけて貰わないといかんのよ。とはいえ、この要塞の者ども全員という訳にはいかぬ。儂の体力が持たんわい……。しかしお主の首ならば坊ちゃまも喜んでくださるじゃろう……」
じゃからな、とグラマンはぎりぎりと拳を握り締めて言う。
──「死んでくれい」
ファリスは全身からぶわりと汗を滲ませた。




