剣術大会当日⑥~エスメラルダの●~
◆
私は、一体……
どうやら気を失っていたらしい。
柔らかな感触が、ここがベッドの上であることを教えてくれる。
見慣れない天井の模様は、試合会場の医務室かどこかだろうか。
どこか壁が歪んでいる様に見える。
何らかの魔術的な防護が施されているのかもしれない。
ゆっくりと上半身を起こすと、腹部に鈍い痛みが走った。
──確か、私はハイン様に敗れて、それで……
そこまで思い出し、はっと我に返る。
そうだ、私は……私は、ハイン様に……。
自分がしでかしたことを思い出すなり熱いものが込み上げてきて、顔をあげていられなくなる。
まるで夕日に照らされた雲のように、頬が熱く染まっているのが自分でもわかる。
口づけ……あろうことか、あんな大勢の観衆の前で──。
どれほど無礼で、無謀で、無分別な行為だったことか。今すぐこの場から逃げ出して、どこか遠くへ消えてしまいたい。
いっそ地の底まで続く穴にでも落ちてしまえたら、どんなに楽だろう。
ハイン様は、さぞかし呆れられたことだろう。
それ以上に怒りを覚えられたかもしれない。
いったい、私はどうしてしまったのだろう。
いや、私はなぜあんなことをしてしまったのか自分でも分かっているはずだ。
私は溶かしたかったのだ。
ハイン様の、あの美しい瞳に帯びる冷厳な氷を。
そういう意味では少しは上手く行ったのかもしれない。
あの時のハイン様の表情をはっきりと覚えている。
少し驚いたような、それでいてどこか、面白がるような……そんな複雑な色を浮かべた瞳。
あの瞳に私はどんな風に映ったのだろう。
ただの愚かな女?
それとも、少しは……ほんの少しでも、ハイン様の心を揺さぶることができただろうか?
そんな事を思っていると──
◇
「もう体を動かしても大丈夫なのか?」
そんな声がした。
声の主を私が聞き間違えるはずもない。
「ハイン様」
ハイン様が扉のすぐそばに立っていた。
扉を開ける音も無かったと思うが、いつ部屋に入ってこられたのだろう。
ハイン様は静かに近づいてきて、ベッドの脇に腰掛けた。
先ほどまで感じていた熱が、再び頬に集まってくるのを感じる。
「気分はどうだ?」
「……はい、もう大丈夫です。あの、先ほどは……その、大変失礼なことを……」
私は目を伏せ、たどたどしく言葉を紡いだ。
ハイン様の瞳を直視することができない。
自分のしでかした無礼を思い出し、ただひたすらに恥じ入るばかりだ。
「失礼?」
ハイン様はまるで何のことだか分からないといった風に、小首を傾げた。
その仕草さえも私には眩しく映る。
「あの、口づけを……あのような場で、あんな……」
口にするのも恥ずかしい。顔が熱くなるのが自分でも分かる。
「そうか。ではエスメラルダ嬢だけに恥を掻かせるわけにはいかないな」
ハイン様はそう言って、私に身を寄せ──
「あっ……! んっ……」
いきなり唇を奪われてしまった。
一体何が起きているのだろう?
ハイン様は私をからかっているのだろうか。
無礼だと突き飛ばすなんてことはできない。
そもそも最初に私からしたことだ。
そして、そもそもの話だが──私自身、嫌だとは欠片も思っていないのだ。
「あ、あのッ……ハイン様、なぜ、このような……」
私が言うと、ハイン様は答えるかわりにもう一度私の唇を奪った。
それだけではない。
唇の次に頬を、その次に耳へ、そして首筋にと次々ハイン様の接吻が落とされていく。
恥ずかしさのあまり、気が狂いそうになる。
ああ、ダメだ、こんなの耐えられない。
このままでは頭がどうにかなってしまう……!
「い、いけません、ハイン様……こんな、こんなこと……」
言葉とは裏腹に、体は動かない。それどころか、もっともっとと強請るように背中を反らしてしまう。
「ああ、いけないことだ。俺も恥ずかしいよ、順序も考えずいきなりこんな事をしているのだから。大恥を掻いているといっても過言ではない。だがここまで恥を掻いたのだから、もう少し掻いてみようか」
ハイン様はそう言って、私の制服に手を掛けた。
部屋が静まり返っているからだろうか?
胸元のボタンを外す音がやけに大きく響く。
私はぴくりともうごけない。
良くない事とはわかっているのだ。
私たちは婚約関係にあるが、 こういう事をするには婚儀を挙げてからだろう。更に言うなら、婚約関係にあるといってもそれは仮初のようなもので──
──ああ、でも
ハイン様はそうしたいと思っている。
そして私もそうなってもいいと思っている。
ならば私が言う事は一つだけだった。
「優しく、してください……ハイン様」
私がそう言うと、ハイン様は──
◇
──はッ!?!?
勢いよく飛び起きると、そこはベッドの上だった。
辺りを見回すと見知らぬ顔の癒術師たちが数人、心配そうに私を覗き込んでいる。
「おお! お目覚めになりましたか」
一人の癒術師が安堵したように声を上げた。
その声に、他の癒術師たちもホッと胸をなでおろしているのが分かる。
「ここは……?」
掠れた声で尋ねると、先ほどの癒術師が答えた。
「医務室です。あなたはハイン・セラ・アステール公爵令息との試合で敗北し、傷を負ってここに運び込まれたのです」
試合……ハイン様……そうだ、私はハイン様に負けて……そして……。
そこまで思い出して、はっと我に返る。
あの口づけは……ハイン様とのひと時は……全部、夢……?
呆然と呟くと、癒術師が不思議そうな顔でこちらを見ている。
「ゆ、夢……?」
「はい……? ああ、うなされていらっしゃいましたから悪夢でも見ていたのかもしれませんね」
癒術師の言葉に、私は力なくベッドに倒れ込んだ。
夢だったのだ。
全て、私の都合の良い妄想だったのだ……。
そう思うと急に現実に引き戻され、ひどくがっかりしてしまう。
あんなにも熱く、激しく求められたのに……。
──全てが偽りだったなんて
失意のどん底に突き落とされた私に、癒術師が思い出したように言った。
「しかしあれだけの傷を負っていながらも、体への影響がほぼないというのは驚きました。傷痕も全く残っておらず、当然内臓も無傷です。通常、あれほどの怪我を負えば、傷痕を消すのにも暫くかかるのですが……」
癒術師の言葉に私は思わず服を捲り、自分のお腹を見た。
咄嗟に視線を逸らしてくれる癒術師には感謝する。
お腹には傷痕らしきものは何もない。
まるで、最初から何もなかったかのようだ。
「もうそちらを向いても? ……はい、ではまあご自身の目で確認していただけたかと思いますが、御覧の通りです。非常に簡単な治癒術で傷痕が完璧にふさがってしまいました。……それだけではないのです、なんといいますか、活性化しているとでもいいますか……帯びる魔力の質が、こう、瑞々しいといいますか……どう表現していいかわからないのですが、ああ、そうだ、ちょっと立ち上がっていただけますか?」
癒術師の言う通り、ベッドから立ち上がってみる。
「……特に、何も感じませんが」
「軽く動いてみてください。歩くだけでも構いませんから」
私は言われたようにする。
やはり何も感じない。
「どうですか? 痛んだりしますか?」
「……いいえ」
癒術師が「でしょうね」という様な顔を浮かべた。
「治癒術は癒す際に体力を非常に消耗するのですよ。それだけの傷を治すとなると、まともに歩く事すら出来ないでしょうね。ですが……」
私は極々普通に歩けている。
勿論痛みもない。
「まあこう言ってはなんですが、余程上手く斬ったのでしょうねえ……」
私の中から何かが込み上げてくる。
痛みではない。
もっと別の、熱い何かだ。
耐えきれなくなった私は思わず胸元を押さえ、小さく呟いた。
「ハイン様……」
と。
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