ママ②
◆◆◆
ヘルガ・イラ・アステールは便箋をもう一度だけ手に取り、窓から差し込む朝の光にかざしてみた。
淡い紫色の紙は帝都の高級文具店でも滅多に見かけぬ代物だった。帝都南方のエストリア地方でしか採れない紫陽花の花弁を漉き込んだ特注品でインクの乗りが良く、かつ経年による褪色が極めて少ない。宮廷文書にも用いられることがある逸品だが個人の書簡にこれを使うとなると相応の財力と美意識がなければ叶わぬ話であった。
香水の残り香がまだ仄かに漂っている。甘やかでだがその奥底に植物の毒を思わせるような鋭さが潜んでいた。嗅ぐほどに頭の芯が重くなる類の香りだ。
ジギタリス・イラ・マリシア。
ガイネス帝国の宰相にして、人間至上主義の旗手。その名は帝都の社交界において毒花の如く咲き、その馥郁たる香りに酔った者を次々と隷属させてきた女傑である。高い知性と冷酷な決断力に裏打ちされた政治手腕は敵対する者にとっては恐怖そのものであり、味方にとってさえも油断のならぬ存在であった。
ヘルガは便箋を丁寧に元の封筒へ戻し、机の端に置いた。
手紙の文面そのものは簡素でむしろ拍子抜けするほどに当たり障りのないものだった。「二人きりでお話ししたいことがございます」という一文を除けば、社交辞令の域を出ない。だからこそ不気味なのだ。ジギタリスという女は言葉を飾らぬ時にこそ最も危険な企みを胸に秘めている。
朝の執務を中断するには十分な理由だった。ヘルガは椅子の背にもたれ、天井の装飾を見上げながら呼吸を整えた。視界の端にはオーマが丹精込めて育てた薔薇の蔓が窓の外に見え、赤い花弁が風に揺れている。
考えるべきことは二つある。
一つはこの手紙が罠であるか否か。
もう一つは罠であったとして、それでもなお会わねばならぬ理由があるか否か。
ヘルガは小さく息を吐いた。
◆
グラマンを呼んだのはそれから間もなくのことだった。
白髪を後ろに撫でつけた老人はいつもの鉄面皮を崩さぬまま執務室に入り、ヘルガが差し出した便箋にゆっくりと目を通した。
「宰相閣下から、でございますか」
「ええ。二人きりで、ですって。以前も彼女から呼び出された事はあったけれど、それはあくまで公的な会談としての呼び出しだったわ。でも今回は──」
グラマンは便箋を元に戻し、紅茶の準備に取りかかった。考え事をする時、この老人は必ず手を動かす。指先が忙しなく動いている間だけ、頭の歯車も共に回るのだと本人は言う。
「奥様はこれをどのようにお受け取りになりましたか」
「率直に言えば気味が悪いわね」
ヘルガの言葉にグラマンは頷いた。
「左様でございますな。宰相閣下と言えば、杖比べの一件以来、不気味なほどに沈黙を保っておいででした」
「リディア様もそう仰っていたわね」
ヘルガは自嘲気味に笑った。
サリオン公爵夫人リディアは情報網の広さにおいてはヘルガの比ではなく、帝都の裏通りに至るまでその目は光っている。先日の夜会で交わした言葉が耳の奥によみがえった。宰相派がめっきり大人しくなっている、と彼女は言った。嵐の前の静けさのようだ、と。
「グラマン。これは罠だと思う?」
「罠とは申しませんが、無垢な親切心から出た申し出でもありますまい」
グラマンはティーポットに湯を注ぎながら、その白い湯気越しにヘルガを見た。
「宰相閣下は一手先を読む方ではございません。三手先、五手先を見据えて駒を動かすお方です。この手紙もまた、何かしらの布石であると考えるのが妥当かと存じます」
ヘルガも同意見だった。だが布石であると分かっていたとしてもその先に何が待っているかまでは読めない。
「ハインにも相談してみるわ」
「賢明なご判断かと。若様は直感に優れておりますからな」
グラマンはそう言って、紅茶をヘルガの前に置いた。オーマが育てた薬草から作る、アステール家特製の一杯だ。口に含むと柔らかな甘みと微かな酸味が舌を撫でる。ちなみにヘルガはその薬草が何で育てられたかを知らない。まあ、侵入者の血肉を養分にしています、などという血なまぐさい事実は知る必要もないだろう。
ヘルガはカップを受け取りながら、不意に思った。
この穏やかな日々があとどれほど続くのだろうか、と。
◆
ハインは中庭にいた。
巨大な木剣を両手で握り、凍てつくような冬の朝気の中で呼吸と一体化したかのような遅い素振りを繰り返している。ガッデムほどもある木剣が空気を裂く音すら立てず、ただひたすら緩慢にだが正確に同じ軌道を描いていく。東方の武人から学んだという鍛錬法でハインはこれを「練り」と呼んでいた。
ヘルガが近づくと木剣がゆっくりと下ろされ、ハインは深い呼気とともに振り返った。
汗一つかいていない。
「母上。おはようございます」
紫紺の瞳が朝日を受けて鮮やかに輝いた。見る者の心胆を寒からしめるほどの、凄絶な美貌だった。だがヘルガにとってそれは愛しい我が子の顔でしかなく、寒気など覚えようもない。
「おはよう、ハイン。少し相談があるの」
「承知しました。身支度を整えてから参ります。母上は先に執務室でおくつろぎください」
◆
執務室。
ハインは身支度を終え、髪を完璧に整えた姿で現れた。ガイネス帝国において貴族の子弟が身嗜みに気を遣うのは当然の礼儀であるがハインの場合、その几帳面さの根底にあるのは社交上の体面ではなく、母の目に映る自分がいつでも美しくあらねばならぬという偏執的な信念であった。
グラマンが淹れた茶を手に三人は執務室のテーブルを囲んだ。
ヘルガが便箋を差し出すと、ハインは一読して眉を動かした。
動かしたというより、歪めたと言うべきだったかもしれない。紫紺の瞳が紙面の上を二往復し、それから封蝋の紋章に視線が留まった。絡み合う花の意匠はマリシア侯爵家の家紋であり、毒花を意味するジギタリスの名に相応しい、妖艶で禍々しい紋様だ。
普段の彼であれば「劣等の分際で母上に手紙などと」と即座に憤慨してみせるか、さもなくば「罠です、破棄しましょう」と断じるかのどちらかだったろう。だが今のハインは便箋を指先でつまんだまま、何か言いあぐねているような顔をしていた。
「気に入りません、が──」
ハインはそこで言葉を切り、母の顔を窺った。
「母上。僕は正直に申し上げて、政のことはよく分かりません」
ハインは自分でそう口にすることが不本意であるかのようにわずかに顔を背けた。
「無視して良い話であるようにも思えません」
グラマンがそこで静かに口を開いた。
「若様の仰る通り、一概に無視して良い相手ではございません」
老家宰は紅茶の湯気の向こうで慎重に言葉を選びながら続けた。
「宰相閣下は帝国の政を司る実務上の最高権力者であらせられます。帝国では皇帝陛下が軍事と祭祀を宰相が内政と外交を分掌するという建前がございますが実際のところ日常の帝国運営はほぼ宰相府の手に委ねられております。十二公家は帝国領土の防衛を担いますゆえ、本来は宰相とは別系統に属しますが、平時においては予算の配分や人事の調整で宰相府との折衝が欠かせません。その関係を完全に断ち切れば、我がアステール公爵家は帝国の行政機構から孤立いたします」
「つまり、会うべきだと?」
ヘルガが問うた。
「会うこと自体を拒む理由はございません。ただし」
グラマンの目が鋭くなった。
「奥様が一人でお出向きになることだけは断じてなりません」
「僕もそう思います」
ハインが即座に言った。政治の機微には疎くとも母の安全に関することだけは怖ろしいほどに勘が冴える子だった。
「宰相閣下は知略において帝国随一のお方でございます」
グラマンは続けた。
「この手紙に記された『二人きりで』という文言、裏を返せば奥様から補佐役を引き離したいという意図の表れでございましょう。証人を排して密約を持ちかけるおつもりかもしれませんし、あるいは密約をちらつかせること自体が目的やもしれません。宰相閣下と密会したという事実が広まるだけ、で亜人貴族派の他家に対する奥様のお立場を危うくすることができます」
なるほど、とヘルガは思った。リディアの信頼を損なう材料にされかねないということだ。亜人貴族派の中核であるアステール家とサリオン家の間に亀裂が入れば、宰相派にとってこれほど都合の良い話はない。
「じゃあ、ハインが私を護ってくれるのかしら」
ヘルガは少しだけ悪戯っぽい口調で問いかけた。
ハインの顔が一瞬だけ、歳相応の少年のそれに戻った。母に頼られた時だけ浮かぶ、照れと誇りが入り混じった表情だ。
「もちろんです、母上。たとえ相手が魔王であろうと神であろうと、母上のお身体に指一本触れさせることはいたしません」
その声には寸毫の迷いもなかった。だが次の瞬間、ハインは少しだけ言い淀むように視線を落とした。
「……ただ、身の護り自体は今母上が指に嵌めている"星の雫"で十分に担えるでしょうが……言葉の駆け引きや、腹の探り合いとかは僕は得意ではないので」
星界──無限に広がる暗黒の空をぎゅうと圧縮したような宝石で作られた指輪である。ヘルガとしてはなぜか妙に重いその指輪を外したいなと思う事もあるのだが、せっかくハインがプレゼントしてくれたのだし、と常に嵌め続けている。ちなみにその宝石がどういったものか、ヘルガは寡聞にして知らない。まさか愛する息子の心臓でできているなどとは想像もできないだろう。
「母上を害そうとする者がいれば、星ごと滅ぼしてごらんにいれますが、結局のところ僕にはそれしかできません。毒を盛る手は叩き潰せても、毒を含んだ言葉を見抜くのはグラマンのほうがずっと上でしょう」。
名を出されたグラマンは深く頭を下げた。
「過分なお言葉でございます、若様」
「過分ではない。事実だ」
ハインはぶっきらぼうに返すと、母に向き直った。
ヘルガはしばし考え込んだ。
それから静かに頷いた。
「わかったわ。グラマンも同席できるなら、という条件で返事を出しましょう」
「賢明なご判断かと存じます」
グラマンが応え、ハインもまた無言で頷いた。




