ママ①
「10周年 PASH!ブックス大賞」に本作が入選しました。
◆◆◆
朝と夜の狭間──要するに早朝よりもっと早い時刻に、ヘルガ・イラ・アステールは執務机に向かっていた。
机の上には羊皮紙の山が積み上げられている。帝都防衛隊との連絡書、城壁魔術陣の維持費報告、他家からの招待状、嘆願書の類。それらが雪崩のように彼女の時間を飲み込んでいく。
ここ最近のヘルガときたら、朝から晩まで仕事、仕事、仕事のとんだワーカーホリックであった。
アステール公爵家の当主代行。その肩書きは華やかに響くかもしれないが、実態は泥沼を這いずり回る蟹のようなものだ。一歩進むたびに足を取られ、それでも必死に爪を立てて前へ進む。進んでいるのか沈んでいるのか、もはや判然としない。
ガイネス帝国には強大な血継魔術を有する十二の公爵家が存在する。皇室を支える柱として、それぞれが重要な役割を担っていおり、帝国領土の要地に配置されている。その中でアステール公爵家は帝都の護りを任されていた。
領地を持たぬ宮廷貴族ということだ。代々帝都に張り巡らされた防衛魔術陣の維持はサリオン公爵家が担っているのだが、この費用はアステール公爵家も一部賄っている。
しかしながら、領地を持たぬということは安定した収入源を持たぬということでもある。帝室からの俸禄と防衛任務に対する報酬が主な収入源だ。無論、細々した収入はあるのだが、中々厳しい状況が続いていた──が。
ヘルガの手が止まる。
羽根ペンの先端から、インクが一滴、羊皮紙に落ちて黒い染みを作った。彼女はその染みをしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐いて、汚れた部分を砂で吸い取る。
「終わったのね」
独り言だった。
机の端に置かれた一通の書簡。それはクラウゼヴィッツ商会からの正式な通知書である。
クラウゼヴィッツ商会。セレンディア大陸全土に支店を持つ帝国最大の商業連合体だ。その本拠は帝都の商業区画にあり、白亜の建物は小さな城のような威容を誇っている。金という血液を大陸中に循環させる心臓部であり、その機嫌を損ねれば、いかなる名家とて干からびた骸と化すだろう。
書簡にはアステール公爵家がクラウゼヴィッツ商会に対して負っていた債務の全額、ならびに利息の一切が完済されたことが記されていた。
先代当主ダミアンはその狂気的な魔術研究のために莫大な資金を費やした。外法に手を染め、禁忌の術式を追い求め、得体の知れぬ触媒や素材を買い漁った。アステール家の魔術は星を喚ぶ血継魔術として知られるがダミアンはそれを行使できなかったのだ。その反動だろうか、彼はより深く、より暗い領域へと手を伸ばしていった。
その結果として積み上がった負債はアステール公爵家という大木の根を腐らせるに十分な毒だ。
ヘルガが当主代行の座に就いてからの十五年間、その負債は常に彼女の首に巻き付く縄のようなものだった。利息が利息を呼び、雪だるま式に膨れ上がる借金。帝都防衛の任務に対する俸禄だけでは追いつかず、家財を売り払い、それでもなお返済の目処が立たなかった。
それが今日、終わった。
ヘルガは書簡を手に取り、もう一度その文面を確認した。蝋で押された商会の紋章。整然とした書記官の筆跡。間違いない。
だが彼女の胸に喜びはなかった。
あるのは得体の知れぬ不安だけだ。
「特別支援金、か」
その言葉が舌の上で苦い薬のように溶けていく。
◆
この数年、アステール公爵家には不思議な金が流れ込んでいた。
グラマンが名付けたところの「特別支援金」である。送金元は多岐にわたった。帝都の外れで鍛冶屋を営む鉱人の親方。南方の港町で香辛料を扱う獣人の商人。北の森に住むエルフェン種の長老。
共通点はただ一つ。亜人、あるいは亜人に連なる者たちであるということだ。
彼らは何も要求しない。ただ金を送ってくる。時には物資を。時には情報を。まるでアステール公爵家という旗印に祈りを捧げるかのように。
ヘルガはその金の意味を理解していた。
ガイネス帝国は今、二つの潮流に引き裂かれようとしている。
一方は宰相ジギタリス・イラ・マリシアを筆頭とする「宰相派」。彼らは人間至上主義を掲げ、亜人を徹底的に弾圧する政策を推し進めてきた。
「人種序列法」──その名を聞くだけで亜人たちは顔を歪める。
表向きは「種族間の秩序を定める」という建前だが実態は亜人から財産を没収し、権利を剥奪し、あるいは強制労働に従事させるための法律だ。エルフェン種は「耳税」と称して貴金属を納めることを強いられ、大鬼種は「力役」として危険な土木工事に駆り出される。獣人たちは居住区を制限され、夜間の外出を禁じられた。
宰相派にとって、亜人は道具であり、家畜であり、人間という種の繁栄のために消費されるべき資源でしかない。
対するもう一方がヘルガたち「亜人貴族派」である。
アステール公爵家とサリオン公爵家を中心としたこの寄り合い所帯は、亜人の権利擁護を掲げている。といっても高邁な理想に突き動かされているわけではない。単純に亜人を排斥すれば帝国の経済は立ち行かなくなるという現実的な判断からだ。
帝都の職人の三割は亜人だ。精密な細工はエルフェン種の独壇場であり、重量物の運搬には大鬼種が欠かせない。鉱人の鍛冶技術は人間のそれを遥かに凌駕し、獣人の嗅覚は薬草の鑑定に重宝される。
彼らを追い出せば帝都の経済は半年と保たない。宰相派の政策は短期的な利益のために長期的な国力を切り売りしているようなものだ。
だが理屈は理屈、感情は感情である。
人間の優位性を信じたい者たちにとって、亜人との共存などという主張は裏切りに等しい。亜人貴族派は「亜人に魂を売った恥知らず」「血の純潔を汚す背徳者」などと罵られ、社交界でも肩身の狭い思いをすることが少なくない。
そうして虐げられた亜人がちはアステール公爵家に希望を見出している。
絶望の淵で溺れかけている者にとって、藁の一本すら命綱に見えるものだ。アステール公爵家という藁にしがみつけば、あるいは溺死を免れるかもしれない。その一縷の望みが彼らに金を出させている。
これは投資などという生温いものではない。祈りだ。あるいは賭けだ。
ヘルガはその金を受け取り、そして使った。借金を返すために。家を立て直すために。
だがそれは同時に彼らの祈りを背負うということでもある。
「重いわね」
ヘルガは呟いた。
窓の外では庭園の木々が風に揺れている。オーマが手入れした薔薇の蔓が石垣に絡みついて赤い花を咲かせていた。
◆
執務室の扉が静かに開いた。
音もなく入ってきたのは白髪を綺麗に撫でつけた老人──グラマンだ。
「奥様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、グラマン」
ヘルガは微笑んで礼を言い、差し出されたカップを受け取った。
薔薇の香りが立ち昇る。オーマが育てた薔薇から作った、アステール家特製の紅茶だ。口に含むと、柔らかな甘みと爽やかな酸味が舌の上で溶け合い、疲れた神経を優しく解きほぐしていく。
「クラウゼヴィッツ商会からの書簡はご確認いただけましたでしょうか」
グラマンが尋ねた。その声は淡々としているがどこか安堵の色が滲んでいるように聞こえた。
「ええ。確認したわ」
ヘルガは頷いた。
「十五年かかったわね」
「左様でございます。奥様が当主代行の座に就かれてから、実に十五年。長い戦いでございました」
グラマンは深く頭を下げた。
「お疲れ様でございました、奥様。これで一つ、重荷が降りましたな」
「ええ、そうね」
ヘルガは曖昧に答えた。
重荷が降りた。その通りだ。だが降りた分だけ別の何かが乗っかってきたような気もする。
「ねえ、グラマン」
「はい」
「特別支援金のこと、もう少し詳しく聞かせてくれないかしら」
グラマンの表情がわずかに強張った。ほんの一瞬のことですぐに元の鉄面皮に戻ったがヘルガはそれを見逃さなかった。
「どの程度までご存知でいらっしゃいますか」
「送金元が亜人たちであること。彼らがアステール公爵家に希望を託していること。そしてその金が借金の返済に使われたこと」
「概ね、それで全てでございます」
グラマンは答えた。だがその目がわずかに泳いだ。
ヘルガは紅茶のカップをソーサーに置いた。カチャリという音が静かな執務室に響く。
「グラマン」
「はい」
「私は馬鹿ではないわ」
その言葉にグラマンは黙った。
「特別支援金の中に別の資金源が混じっていることくらい、気づいているわよ」
ヘルガの声は穏やかだったがその奥に隠しきれぬ鋭さがあった。
「亜人たちからの支援だけであれほどの借金を返済できるわけがない。彼らは確かに金を出してくれている。でも彼ら自身も帝国の弾圧政策で苦しんでいるのよ。耳税や力役で搾り取られている彼らに余剰の資金などそう多くはないはず」
グラマンは依然として沈黙を守っている。
「何か、別の収入源があるのでしょう」
ヘルガは老執事を見据えた。
「教えてくれる気はないかしら」
◆
沈黙が粘り気のある液体のように二人の間に滞留した。
グラマンは長く仕えた主の視線を受け止め、何かを量るように目を伏せた。その老いた顔には忠誠と葛藤が入り混じっている。
「奥様」
やがて、グラマンは口を開いた。
「申し訳ございませんがそれをお答えすることは私の一存では叶いません」
「あなたの一存ではということは誰かの指示があるということね」
「左様でございます」
グラマンは深く頭を下げた。それ以上は何も言わなかった。
ヘルガは黙って老執事を見つめた。
言わなくても分かる。この屋敷で自身の他にグラマンに指示を出せる者など、一人しかいない。
ハイン。
薄々、感づいてはいた。あの子が何かをしている。表向きは「他家の子弟との交流」などと言っているがその言葉を額面通りに受け取れるほど、ヘルガは愚かではない。
休日のたびに出かけていくハイン。時折、その衣服から漂う微かな血の匂い。それを指摘してもはぐらかすように笑うだけの息子。
「そう」
ヘルガは静かに言った。
「分かったわ。無理に聞き出すつもりはないから」
「恐れ入ります」
グラマンがほっとしたように息を吐く。
「ただ、一つだけ聞かせて」
「何でございましょう」
「あの子は危険なことをしているの?」
その問いにグラマンは一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。その顔には奇妙な表情が浮かんでいた。困惑と、そして微かな諦めのようなもの。
「奥様。まさに今、その危険な状態にございます」
「今?」
ヘルガは眉をひそめた。
「はい。若様はお強い。たとえどのような状況であっても、危険などという状況には陥らないでしょう。危険とはすなわち、若様と対峙する者にふさわしい言葉です。しかし何事も例外があります。奥様がこのことをお知りになり、若様をお叱りになること──それこそが若様にとっての最大にして、唯一の“危険”でございます」
グラマンの声にはどこか乾いた諦観が滲んでいた。
「若様は奥様に叱られることを何よりも恐れておいでです。世界が滅びることよりも奥様のお怒りを買うことの方があの方にとっては恐ろしいのでございます」
「ですから奥様、どうか」
グラマンは深々と頭を下げた。
「何卒、穏便に」
「わかっているわ」
ヘルガはそういって苦笑した。
◆
夕刻。
ガイネスフリードの中心部に聳える時計塔──その鐘の音は帝都の隅々まで届く。貴族も平民も人間も亜人も等しくその音を聞いて夜を知るのだ。
アステール公爵邸の食堂にはいつもの顔ぶれが揃っていた。ヘルガとハイン。主と子の二人だけの夕食だ。
「母上、今日のスープは格別ですね」
ハインが言った。銀の匙を優雅に操りながら、母の顔を見つめている。その紫紺の瞳にはいつもの陶酔が溢れていた。
アステール家の者は皆、この紫紺の瞳を持つ。星を喚ぶ血継魔術の証であり、魔力の強さを示す徴でもある。ハインの瞳は歴代の当主の中でも最も深い紫を湛えていた。
「オーマが庭で育てた野菜を使っているそうよ」
「なるほど。さすがはオーマ。母上のお口に入るものを育てる栄誉に浴し、奴も本望でしょう」
「大げさね」
ヘルガは苦笑した。
「ところでハイン」
「はい、母上」
「末の日は出かけるの?」
末の日とは要するに週末の事である。学院は休みだ。ハインの匙を持つ手がわずかに止まった。一瞬のことですぐに何事もなかったかのように食事を続けたが、ヘルガはそれを見逃さない。
「ええ、まあ。少しばかり用事がありまして。ええと……ああ、劣……あー……インフェリオル子爵家という新興貴族がおりまして。そこの子息と、まあ少々……」
「そう」
ヘルガはそれ以上、追及しなかった。
グラマンの言葉が頭の中で反響している。
──若様は奥様に叱られることを何よりも恐れておいでです。
「母上」
「何かしら」
「僕は母上のために生きております。母上の笑顔が僕の全てです。どうか、それだけは信じていてください」
ハインの声は真剣だった。その言葉には嘘偽りがないことが分かる。
「ええ、分かっているわ」
ヘルガは微笑んだ。
◆◆◆
数日後。
ヘルガは帝都の社交界へ出席していた。
フォンターナ子爵家主催の夜会である。会場は帝都中央区の邸宅街にある子爵邸で広間には百人を超える貴族たちが集っていた。
シャンデリアの灯りが磨き上げられた大理石の床に反射している。楽師たちが奏でる弦楽の調べ。給仕が運ぶシャンパンの泡立ち。絹のドレスが擦れ合う衣擦れの音。
表向きは季節の挨拶という名目だが実態は情報交換と駆け引きの場だ。貴族たちは仮面のような笑顔を貼り付け、言葉の裏に毒を忍ばせて挨拶を交わす。
ヘルガはそういった社交が得意ではない。だが当主代行として、出席せざるを得ない場面も多い。
「アステール公爵夫人。お久しぶりですわ」
声をかけてきたのはふくよかな中年女性だった。派手な宝石を身に纏い、香水の匂いを撒き散らしながら近づいてくる。首元には大粒のルビーが輝き、指には金の指輪が幾つも嵌められている。
ボルドー男爵夫人。宰相派の末端に連なる小貴族の妻だ。夫は宰相ジギタリスの覚えめでたき者として知られ、人種序列法の施行において熱心に働いたという。
「ボルドー男爵夫人。ごきげんよう」
ヘルガは礼儀正しく挨拶を返した。
「いやぁ、聞きましたわよ。アステール家の借金が全部返済されたとか」
ボルドー男爵夫人はわざとらしく感心したような声を出した。
「あれだけの額をよく工面されましたわねえ。どこからそんなお金が湧いて出たのかしら。まさか、長耳どもから搾り取ったとか?」
その言葉の裏には明らかな嘲りが滲んでいた。
「ええ、おかげさまで」
ヘルガは動じずに答えた。
「様々な方々のご支援がありまして」
「まあ、ご支援ですか。さすがは名門アステール家。お友達が多くていらっしゃる。人間以外の、ね」
「お褒めの言葉と受け取っておきますわ」
ヘルガはにっこりと笑った。
その笑顔の下で静かな怒りが燃えている。だがここで感情を露わにするわけにはいかない。それは敵を喜ばせるだけだ。
「ところでご子息のハイン様はお元気かしら」
ボルドー男爵夫人は話題を変えた。
「ええ、おかげさまで」
「杖比べでオイゲン様を打ち負かしたとか。すごいですわねえ。さすがはアステール家の麒麟児」
杖比べ。魔術師同士の公式な決闘だ。先日、ハインは宰相派の重鎮であるオイゲン副魔術師長と杖比べを行い、圧倒的な力で勝利した。オイゲンが得意とする根源魔術「火炎竜の大息吹」を解体してしまったという。
その勝利は宰相派の面目を大いに潰した。
「恐れ入ります」
「でもちょっと心配ですわ」
ボルドー男爵夫人は声を潜めた。
「あまりに強すぎる力というものは時として災いを招きますもの。特に政治の世界では。出る杭は打たれる、と申しますでしょう」
それは脅しというにはやや柔だが、それでも一応は脅しではあった。
「ご忠告、ありがとうございます」
ヘルガは微笑みを崩さなかった。
「でも私は心配しておりませんわ。あの子は賢い子ですから」
ボルドー男爵夫人が去った後、ヘルガは深く息を吐いた。
「お疲れ様です、ヘルガ様」
背後から声がかかった。
振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。銀色の髪を優雅に結い上げ、深い青色のドレスを纏っている。その凛とした佇まいは周囲の貴婦人たちとは一線を画していた。
「リディア様」
ヘルガは頭を下げた。
リディア・イラ・サリオン。サリオン公爵夫人にして、エスメラルダの母親だ。サリオン公爵家は十二公家の一つであり、帝国の財務を司る家柄として知られる。同時に亜人貴族派の中心人物の一人でもある。
「ボルドー男爵夫人との会話、拝見しておりましたわ。あの豚女──あら失礼、あの、ええと、とにかくよく耐えましたわね」
「あの程度のことで動揺していては務まりませんから」
「さすがですわ」
リディアは微笑んだ。
「お時間があれば、少しお話しませんこと? 人目につかぬ場所で」
その誘いにヘルガは頷いた。
二人は夜会の喧騒を離れ、バルコニーへと出た。冷たい夜風が頬を撫でる。眼下には帝都の街並みが広がり、無数の灯りが星のように瞬いていた。
遠くに見える商業区画は夜でも賑わっている。酒場から漏れる光、夜市の松明、巡回する衛兵の灯り。帝都は眠らない街だ。
「宰相派の動きについてお聞きになりましたか」
リディアは単刀直入に切り出した。
「いいえ。何かあったのですか」
「それが妙なのです」
リディアは眉をひそめた。
「ここ最近、宰相派がめっきり大人しくなっております」
「大人しく?」
「ええ。杖比べでの敗北以来、彼らは面目を失いました。オイゲンは副魔術師長の座を降り、今は療養中とか。普通ならば、何らかの報復に出てもおかしくない。ですがジギタリス宰相は沈黙を守ったまま」
ヘルガは考え込んだ。
ジギタリス・イラ・マリシア。帝国宰相にして、人間至上主義の急先鋒。マリシア侯爵家の出身でその才覚は帝国随一と言われている。彼女の政治手腕は敵ながら認めざるを得ない。正面突破がだめなら搦め手を使い、搦め手がだめなら時間をかけて包囲網を敷く。そういう女だ。
杖比べの敗北で宰相派の威信は大きく傷ついた。魔術師の世界では力が全てだ。オイゲンがハインに惨敗したという事実は宰相派の力の限界を示してしまった。普通ならば、何らかの報復があってしかるべきだ。政治的な圧力、経済的な締め付け、あるいは暗殺者の派遣。ジギタリスならば、そのいずれもやりかねない。
だが何もない。
「不気味ですわね」
リディアが言った。
「まるで嵐の前の静けさのよう。何かを企んでいるのは間違いありませんがそれが何なのか、まるで見当がつきません」
「情報は入っていないのですか」
「断片的なものはいくつか。ですが具体的なことは何も」
リディアは首を振った。
「ジギタリスは今、何をしているのでしょう。宰相府に籠もって、一体何を考えているのか」
ヘルガは黙って夜空を見上げた。
星々が冷たく輝いている。
◆
夜会から戻ったヘルガをハインが出迎えた。
「母上、お疲れ様でした」
「ただいま、ハイン」
「夜会はいかがでしたか」
「まあ、いつも通りよ」
ヘルガは微笑んだ。
玄関の灯りが息子の顔を照らしている。アステール家の紫紺の瞳。艶めいた黒髪。整った顔立ち。十五歳とは思えぬほど落ち着いた物腰。
我が子ながら、美しい、とヘルガは思う。だが同時にその美しさの奥に潜む何かが時折、彼女を不安にさせる。
「母上」
「何かしら」
「僕は母上のために生きております。母上の笑顔が僕の全てです」
ハインはよくこんな事を唐突に言う。ヘルガはハインのこれを、一種の挨拶だと思う様にしている。
「ありがとう、ハイン」
ヘルガは息子の頬に手を当てた。
「私もあなたを愛しているわ」
そういってヘルガはハインを抱きしめ、ほう、と一つ溜息を洩らした。連日の執務と、いまだに慣れない夜会で体と心が疲れていた。しかしこうしてハインを抱きしめる事で少しずつ緊張が抜けていく。
「母上──ママ」
ハインがママという時は、甘えたがっている証左だ。つまり、今夜は一緒に寝ませんかということである。
ヘルガは一つ頷き、手を繋いで寝室に向かい、そして共にベッドに入った。
「寝る前に結界を張ります。入眠の邪魔にはならない様にしますので……」
そういってハインがヘルガに抱き着く。同時に何かあたたかいものが体を覆っていく。
「温熱・遮音・対精神・対衝撃──」
ハインは母の体を抱きしめたまま、淡々と結界の内容を列挙していく。
「対毒素・対呪詛・対瘴気・対魔眼・対時間干渉・対空間転移・対因果律操作・対存在消去・対概念汚染──」
「ハイン」
「はい、母上」
「それ、全部必要なの?」
ヘルガは息子の胸に顔を埋めたまま尋ねた。
「もちろんです。母上の安眠を脅かすあらゆる要素を排除せねばなりません」
「因果律操作って何」
「過去に遡って母上を害そうとする不届き者がいないとも限りません」
「いないと思うわ」
「念のためです」
ハインは真剣な顔で言った。この子は冗談を言っているわけではない。本気でそう思っているのだ。
「存在消去は」
「母上という存在そのものを抹消しようとする外法使いがいた場合の備えです」
「そんな魔術、聞いたことないわ」
「ないから安全とは限りません。かつて存在消去を行使した者は、その術の存在ごと消えたのかもしれない。そうなれば誰も知らないのは道理です」
屁理屈である。だがハインは大真面目だった。
「概念汚染というのは」
「母上が母上でなくなる可能性への対策です」
「私は私よ」
「今はそうです。しかし母上という概念が書き換えられれば、母上は母上でなくなります。それは僕にとって世界の終わりに等しい」
ヘルガは返す言葉を失った。
「諸々、七百七十七の結界を展開いたしました。これで母上は安心してお眠りになれます」
「七百七十七……」
「足りないでしょうか」
「いいえ、十分よ」
ヘルガはため息をついた。
過保護という言葉では到底追いつかない。これはもはや要塞である。いや、要塞どころの話ではない。神々の軍勢が攻め寄せても破れぬ鉄壁だ。
「母上」
「何かしら」
「おやすみなさい。良い夢を」
「ええ、おやすみ、ハイン」
ヘルガは目を閉じた。
七百七十七の結界に守られながら、彼女は穏やかな眠りに落ちていく。
◆◆◆
翌朝。
ヘルガは早々に執務室で書類と格闘していた。ハインはと言えば中庭で剣を振っている。ここ最近は門番のガッデムほどもある巨大な木製の剣を、それこそ一刻、二刻という時間をかけてゆっくりと振るという奇妙な鍛錬をしていた。
──確か、練り、とかいっていたわね
何でも東方の鍛錬法らしい。
「余り無理しないでほしいけれど」
そう呟き、視線を机に移す。
視線の先には一通の封書があった。
封蝋の紋章を見たヘルガは眉をひそめる。
絡み合う花の紋章──マリシア侯爵家の家紋であり、現宰相ジギタリスの実家でもある。
ヘルガは封を切り、中の便箋を取り出した。
淡い紫色の便箋に流麗な筆跡で文字が綴られている。香水の匂いがかすかに漂う。甘く、それでいてどこか毒々しい香りはジギタリスによく合っていた。
『アステール公爵家当主代行ヘルガ様
突然のお手紙をお許しください。
このたび、ぜひ一度お目にかかりたく存じます。二人きりでお話ししたいことがございます。
場所と日時はお任せいたします。ご都合のよろしい時にお知らせくださいませ。
心よりお待ち申し上げております。
ジギタリス・イラ・マリシア』
手紙にはそうあった。




