第1章 ママが好き(完)
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歴史というものは本来、大河の流れの如く滔々と、あるいは奔流の如く激しく、一つの定められた海へ向かって注ぎ込むものであると人は信じたがる。
運命論者などはその最たるもので、すべては神の脚本通りだなどと宣っては安っぽい安心感に浸るわけだが、実のところ歴史なんぞというものはもっと杜撰で無計画で酔っ払いの千鳥足のようにふらふらとした頼りない代物である。
ボタンの掛け違いなどという可愛らしい言葉では済まされない。ほんの少しの気まぐれ、ほんの少しの愛着、あるいはほんの少しの偏執的な愛情──例えば母親に対する異常な執着といったものが世界の根幹をへし折り、あろうことか全く別の、奇怪な形へと捏ね上げてしまうことだってあるのだ。
さて、ここに二つの歴史がある。
一つは「本来あるべきだった歴史」。悲劇と絶望に彩られ、しかしそれゆえにこそ英雄の輝きがいや増す、正統派の叙事詩的歴史である。
もう一つは「現在進行形の歴史」。一人のマザコンの暴走によって、悲劇が喜劇へ、シリアスがナンセンスへと堕落した、いわば道化芝居のような歴史である。
まず、「本来の歴史」におけるハイン・セラ・アステールについて語らねばなるまい。
彼は魔王の器であった。
これは比喩ではない。魂の構造的な欠落、あるいは過剰な魔力許容量、そして何より、愛を知らぬがゆえの底なしの空虚。それら全ての条件が合致した、稀代の入れ物だったのである。
愛を知らず、周囲から孤立し、自らの力に溺れ──そして絶望した。その絶望の深淵に魔王の意志はずるりと入り込んだのだ。本来の歴史におけるこの時期、ハインは既に半覚醒の状態にあった。表向きは傲慢な貴族の嫡男として振る舞いながら、その内側では魔王の意志が彼の自我を侵食し、着々と復活の準備を進めていたのである。
だが現実はどうだ。
今のハインを見よ。
彼は魔王の器どころか、魔王そのものを消し炭にしてしまった。
理由は単純極まりない。「母上の邪魔だから」──それだけである。
彼の魂は空虚ではない。むしろ母親への愛という名の灼熱のマグマで満たされている。そこには魔王ごときが入り込む隙間など一ミリたりとも存在しないのだ。
魔王ベルゼイ──幾星霜の時を経て復活を目論んだ大いなる災厄はハインという規格外のマザコンの前に、羽虫のように叩き潰された。本来ならば世界を恐怖のどん底に叩き落とすはずだったラスボスが、物語の中盤にも差し掛からぬうちに、しかも誰にも気づかれることなく退場してしまったのである。
しかし魔王一人が消えたところで世界の歯車がすべて正常に戻るわけではない。魔王はシステムの中核ではあるがその手足となって動く者たち、あるいは魔王の復活に呼応して蠢きだした悪意の数々は依然として世界にへばりついている。
否、へばりついていた、と言うべきか。
西を見よう。
ユグドラ公国。森と湖の美しい国。
「本来の歴史」において、この国は地獄と化した。
不死王ファビアンの復活である。
ファビアンは死を統べる者。彼の復活には膨大な量の「死」が必要となる。 本来の歴史ではユグドラの森に築かれた四本の「屍の塔」は完成していた。何千何万という冒険者、兵士、そして無辜の民が贄となり、その血肉が塔の礎となった。
塔が完成した時、不死王は完全なる姿で現世に降臨した。
その力は圧倒的だった。
死の瘴気が国中を覆い尽くし、生きとし生けるものは次々と息絶え、そして即座にアンデッドとして蘇る。親が子を喰らい、友が友を殺す。愛する者が腐肉と化して襲い掛かってくる阿鼻叫喚。ユグドラ公国は一夜にして死者の国へと変貌した。美しい森は腐海に沈み、清らかな湖は血の池となった。そこから溢れ出した死者の軍勢は隣接する諸国へと雪崩れ込み、大陸西部を未曾有の災厄が襲う──はずだった。
だが現実はどうだ。
屍の塔は建設途中で次々と破壊された。
誰によって? ハイン・セラ・アステールと、彼に命じられた一人の狂女によってである。ハインにとって、あの塔は「悪趣味で汚いもの」であり、「母上の世界に相応しくないゴミ」でしかなかった。だから掃除した。
ただそれだけのことだ。
最後の塔において、不死王ファビアンは不完全な形で無理やり復活を遂げたものの、その力は全盛期の十分の一にも満たなかった。そしてあろうことか、彼は聖女の末裔であるエイラの手によって滅ぼされた。
エイラ──彼女もまた、本来の歴史では悲劇のヒロインとなるはずだった女だ。
仲間を殺され、自身も捕らえられ、不死王の慰み者として、あるいは新たな魔物を産み落とす苗床として、惨たらしい最期を遂げる運命にあった。
だが彼女はハインに出会い、狂った。
正気を失い、代わりにハインへの狂信という新たな芯棒を手に入れた彼女はその狂気のみを燃料として不死王を討ち果たしたのである。
ユグドラ公国は救われた。だがその代償として、英雄であるはずのエイラは正気を失い、全裸で森を彷徨う狂人となり果てた。
これを救いと呼ぶべきか、それとも別の形の地獄と呼ぶべきか。判断は分かれるところだろうが少なくとも大多数の国民が生きて明日を迎えることができたという点においてはマシな結末だったと言えるのかもしれない。
北を見よう。
ノルン王国。極寒の地。
「本来の歴史」において、この国の王、グルンベルドは魔に堕ちた。
彼は元来、勇猛だが狭量で猜疑心の強い男だった。その心の隙間に、魔王の囁きが入り込んだのだ。
彼は異母妹であり、宮廷魔術師であるアヴィアナをその歪んだ欲望の掃き溜めとしていた。だがそれだけでは飽き足らなかった。彼はアヴィアナの持つ精霊の血、その力そのものを欲したのである。
本来の歴史ではグルンベルドはアヴィアナを殺し、喰らった。文字通り、食人を行ったのだ。その禁忌の儀式によって、グルンベルドは人ならざる者、「魔狼」へと変貌した。理性と人間性を完全に喪失し、ただ力と破壊のみを求める獣である。
彼は自らの国を民を手当たり次第に蹂躙した。ノルンの白い雪原は民の血で赤く染め上げられた。彼を止める者は誰もいなかった。最強の魔術師であったアヴィアナは既に彼の腹の中にあり、精強を誇った竜騎士団も、魔狼の圧倒的な力の前に為す術もなく屠られた。
ノルン王国は狂王の狩り場と化したのである。
だが現実はどうだ。
グルンベルドは死んだ。
誰に殺されたか。他ならぬアヴィアナによってである。
本来ならば被害者であり、餌でしかなかったはずのアヴィアナが王の喉元に氷の槍を突き立てたのだ。
何が彼女を変えたのか。
それはハイン・セラ・アステールが見せた、理不尽なまでの力であった。
彼女が恐れていた王の暴力など、あの光の前では児戯に等しいと知ってしまったのだ。絶対的な強者だと思っていた男がただの怯える小男に過ぎないと気付いてしまった時、奴隷の鎖は解き放たれる。
彼女は王を殺し、自らの目を潰し、そして雪原へと消えた。
ノルン王国は王を失い、混乱の極みにある。だが魔狼による虐殺という最悪のシナリオは回避された。
アヴィアナは救われたのか? 否。彼女もまた、ハインという新たな絶対者に魂を囚われた、哀れな信徒に成り下がったに過ぎない。だが食われて糞になるよりはまだマシな人生と言えるのかもしれない。
そして中央、ガイネス帝国。
「本来の歴史」において、帝国は内側から腐り落ちていく運命にあった。
元凶は宰相ジギタリスである。
彼女は有能だがその心根は冷酷非情。人間至上主義を掲げ、亜人を徹底的に弾圧する政策を推し進めていた。本来の歴史では彼女の暴虐はさらにエスカレートしていた。亜人から財産を没収し、スラムへ追放し、あるいは強制労働に従事させる。抵抗する者は容赦なく処刑された。
帝都の広場には毎日のように絞首台が並び、亜人の死体が晒された。
その恐怖政治はやがて人間たちへも向けられるようになる。彼女に逆らう貴族は粛清され、皇帝ヴァルフリードは完全に傀儡と化し、帝国はジギタリスの私物となった。
国力が疲弊し、民心が離れたその隙を突いて、東方から旧魔王軍が侵攻を開始する。イグドラ率いる竜の大群が帝都を襲い、内乱と外患の二重苦によって、帝国は滅亡の淵へと追いやられる──はずだった。
だが現実はどうだ。
ジギタリスは大人しい。
いや、大人しいというよりは骨抜きにされていると言った方が正しいか。
彼女はハイン・セラ・アステールの力に魅入られてしまったのだ。オイゲンとの杖比べで見せた、あの大魔術。太陽を現出させるが如き、圧倒的な熱量と質量。力こそ正義──強さこそ真理と信じる彼女にとって、ハインの力はまさに理想の具現化であった。 彼女のサディスティックな征服欲はより強大な存在に屈服させられたいというマゾヒスティックな崇拝へと反転した。
ああ、それと、侵攻してくるはずだったイグドラは?
彼はアゼルによって消滅させられた。
本来の歴史よりもずっと早く、ずっとあっけなく。本来の歴史でもイグドラはアゼルによって殺されているのだが、その過程はもっと複雑だ。アゼルの勇者としての力は当時はまだ未熟であり、ゆえに苦戦を強いられた。だが“今のアゼル”は覚醒もクソもない。最初から覚醒しているし、なにやらよくわからぬ制限で力が半減していてもあっさりとイグドラを消し飛ばしてしまった。力の使い方を心得ているからこそ、万全でなくとも無理が利くというわけだ。
まあ肉体の成長に伴って、かつてのアゼルの力により近づいていくだろう。世界救済という使命感、そして多くの愛によって完全覚醒した“本来のアゼル”の力はあんなものではない。
いずれにせよ、帝国の危機は去った。少なくとも、目前の破滅は回避されたのである。
こうして見ると、ハイン・セラ・アステールという特異点がいかに世界の運命を大きく捻じ曲げたかが分かるだろう。
彼は世界を救おうなどとは露ほども思っていない。
正義感もなければ、使命感もない。
あるのはただ、母親への盲目的な愛と、自分以外を見下す傲慢さだけだ。
だがその歪んだ動機が結果として世界を救っている。
では現在の歴史は「本来の歴史」よりも素晴らしいものなのだろうか?
手放しで肯定することは難しい。確かに多くの命が救われた。国が滅ぶこともなかった。だがその代償として生まれたものもまた、決して小さくはない。
何より、ハインという制御不能の怪物がその力を増し続けているという事実。 魔王という分かりやすい悪が消えた代わりに、より混沌とした、より歪な何かがこの世界を覆い尽くそうとしているのではないか。
ハインが目指す「母上のための世界」。
それは平和な世界かもしれない。だがそれはハインとヘルガ以外の全ての人間が彼らの愛玩動物、あるいは家畜として管理される世界かもしれないのだ。
自由意志の剥奪。尊厳の喪失。美しく整えられた、巨大な鳥籠の中の平和──それを幸福と呼べるかどうかは人それぞれの価値観によるだろう。
ただ一つ言えることは、この歪みの連鎖はまだ終わっていないという事だ。
ハインも、ヘルガも、そして彼らを取り巻く人々も、皆どこかへ向かって落ち続けている。
愛という名の重力に引かれて。
その落下の先にあるのが地獄の釜の底なのか、それとも誰も見たことのない楽園なのか──今はまだ、誰にも分からない。
【悪役令息はママが好き】第一章「ママが好き」完です。第二章もすぐ書きます。第二章タイトルは「ママが大好き」です。




