幕間:かえってきた男⑤
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アゼル・セラ・アルファイド──彼は帰還者だ。一度死に時を遡り、再び生を得た男である。そんな彼にとって、この世界は既知のようでいて未知、馴染み深くて、それでいて決定的に異質な手触りを持っている。まるでかつて住みなれた家に戻ってみたら、柱の傷の位置が数センチずれ、壁の色が微妙に彩度を変えているような、そんな薄気味悪い違和感が常に付きまとっているのだ。
アゼルはその違和感を既に受け入れてはいた。運命の歯車が少しばかり食い違ったとしても、回っていることに変わりはない。ならば、その回転に合わせて踊るのが一度死んだ者の礼儀というものだろう。だが問題はその「食い違い」が時として致命的な亀裂となって彼の前に立ちはだかることだ。
昼下がりのサンフォード学園。
廊下には昼食を終えた生徒たちの喧噪が満ちている。貴族の子弟特有の、気取った、それでいてどこか幼稚な笑い声。アゼルは壁に背を預け、その喧噪の中心から少し離れた場所にいる一人の男を凝視していた。
ハイン・セラ・アステール。
アステール公爵家の嫡男にして、かつての、そしてあるいは未来の、世界を滅ぼす魔王。
ハインは廊下の窓際で分厚い魔道書に視線を落としていた。周囲の雑音など、彼の世界には存在しないかのような静謐さだ。その孤高の姿はアゼルが知る「彼」と重なるようでいて、決定的に異なっていた。
その時だ。
ドタドタと品のない足音を立てて、一人の男子生徒が廊下を走ってきた。遅刻か、あるいは友人とのふざけ合いか。注意散漫なその足が床の僅かな段差に取られた。
「あッ──」
バランスを崩した生徒の体は慣性の法則に従って前へと突っ込む。その倒れ掛かる先には読書に没頭するハインがいた。
衝突は不可避に見えた。
アゼルが「危ない」と叫ぼうと口を開きかけた、その刹那である。
ハインは本から目を離すことなく、左手の人差し指を僅かに動かした。
指揮者がタクトを振るうような、極めて優雅で最小限の動作。
次瞬、倒れ掛かっていた生徒の体が不自然な角度で宙に静止した。まるで彼を取り巻く重力のベクトルが唐突にその向きを変え、彼を空中に縫い付けたかのように。
「う、わ……?」
生徒は間抜けな声を上げ、手足をバタつかせている。だが落ちない。見えない糸で吊るされた操り人形のように彼はハインの目の前、わずか数センチのところで浮遊していた。
アゼルの背筋に冷たいものが走った。
彼は知っている。この魔術を。
かつての世界で勇者アゼルとその一行を幾度となく絶望の淵に叩き込んだ、魔王ハインの得意技だ。
局所的な重力干渉。
魔王ハインはこれを応用し、大地の龍脈──星を巡る魔力の血管をねじ切り、断裂させ、天変地異を引き起こした。重力を操作し、地殻を歪め、生態系そのものを狂わせる、正真正銘の災厄の業。
魔力とは本来、世界を満たすエネルギーの奔流だ。それを無理やり個人の器に押し込め、歪んだ形で放出する行為は術者自身の魂をも蝕む。身の丈に合わぬ魔力を行使し続けた生物はやがてその身を魔へと変じ、人ならざるモノへと堕ちていく。それが「魔王」というシステムの正体の一端でもある。
今、ハインが行使したのはその片鱗だ。
だがその使い道はどうだ。
世界を壊すためではなく、たかだか一人のドジな生徒が転ぶのを防ぐためにあの大魔術を使ったというのか。
アゼルは呆然と見守るしかなかった。
ハインはゆっくりと顔を上げ、宙に浮く生徒を冷ややかな瞳で見据えた。その紫紺の瞳には慈愛など欠片もない。あるのは純然たる軽蔑と、羽虫を見るような無関心だけだ。
「……」
ハインが指を弾く。
ふわり、と重力が戻り、生徒は尻餅をつくこともなく、見事に足から着地させられた。
「あ、あの、ハイン様……?」
生徒が恐る恐る声をかける。
ハインは本を閉じ、生徒を見下ろして言い放った。
「劣等。貴様は母親に歩き方一つ教わらなかったのか? 貴様が地を這う虫けらでないのならば、せめてまともに歩くくらいの事をして見せたらどうだ」
まずは罵倒。だが暴力はない。
かつてのハインならば、ぶつかってきた時点でその生徒の四肢をへし折り、窓から放り捨てていただろう。だがこの世界のハインはただ口汚く罵り、そして助けただけだ。
「は、はい! 申し訳ありません! そしてありがとうございます!」
生徒は顔を赤くして頭を下げ、逃げるように去っていった。その背中には恐怖よりも、奇妙な高揚感と感謝の色が見て取れた。
──なんだ、あれは。
アゼルは乾いた笑いを漏らしそうになった。
あれがあの悪逆非道の限りを尽くしたハインなのか。
それとも、俺の記憶にある「ハイン」という存在自体が何かの間違いだったのだろうか。
あいつも随分と変わった。いや、変わったというよりは根っこの部分が露出しているだけなのかもしれない。あの傲慢さと選民思想は相変わらずだがそのベクトルが破壊ではなく、奇妙な庇護に向いている。
前のあいつよりは仲良くなれそうな気がする。
だが同時に思うのだ。これはこれでとてつもなく厄介な道のりではないかと。
アゼルはハインを見つめ続けた。
まるで理解不能な古代遺跡の碑文を解読しようとする学者のようにその横顔を凝視していた。
すると不意にハインが顔を向けた。
視線が交差する。
ハインは眉をひそめ、あからさまに不快そうな表情を浮かべた。自分が観察されていたことに気づいたのだろう。
──しまった。
だがここで逸らしては勇者の名折れだ。
アゼルは努めて自然にかつ最大限の親愛を込めて、爽やかな笑顔を浮かべてみせた。
「よう、ハイン。見事な魔術制御だったな」
歯を見せて笑う。キラリと光るような、完璧な笑顔。これまでの人生で数多の令嬢や町娘を虜にしてきた、勇者アゼルの必殺の笑顔だ。
ハインは無表情のまま、アゼルを見つめ返した。
そして。
「ペッ」
吐き捨てた。
唾を。
床に。
アゼルの笑顔が凍り付く。
ハインは懐から上質な絹のハンカチを取り出すと、床の唾を拭き取る。この辺はさすが公爵家の嫡男らしい育ちの良さ? であった。
「……」
一言も発することなく、ハインはアゼルに背を向け、去っていった。
残されたアゼルは廊下の真ん中で石像のように固まっていた。
拒絶。
それも、言葉による拒絶よりも遥かに雄弁で原初的な拒絶。
生理的な嫌悪感すら滲ませた、あの一瞥と唾棄。
「……マジかよ」
アゼルはがっくりと肩を落とした。
前途は多難どころか、断崖絶壁に阻まれている気がしてならない。
◆
放課後。
空は茜色に染まり、長く伸びた影が学園の中庭を覆い始めていた。
アゼルはベンチに深く腰掛け、虚ろな目で噴水を眺めていた。
水面に映る自分の顔がひどく情けなく歪んで見える。
「はぁ……」
深いため息が夕暮れの空気に溶けていく。
あれからずっと考えていた。
ハインとの距離感について。
俺の目的はハインと友達になることだ。彼を孤独から救い出し、魔王の器となる運命から引き剥がすこと。
魔王の器となる条件の一つに「深い孤独」というものがある。
魂が孤立し、世界との繋がりを絶たれた時、その空隙に魔が入り込む。
だから俺はハインの隣に立ちたいと思った。彼の理解者になりたいと思った。
だが現実はこれだ。
「あそこまで嫌うことないだろ……」
唾を吐かれたショックは思いのほか大きかった。
俺はそこまで嫌われるようなことをしただろうか。いや、確かに初対面の時の態度は少し馴れ馴れしかったかもしれないし、剣術の試合でも本気を出したり出さなかったりと中途半端なことをした自覚はある。
だが唾を吐くか? 普通。
貴族だぞ? 公爵家の嫡男だぞ?
いや、あいつならやるか。あいつはそういう奴だ。
むしろ、殴りかかってこなかっただけ理性的になったと言うべきなのかもしれない。
そんな自問自答を繰り返していると、カツカツと小気味よい足音が近づいてくるのが聞こえた。
顔を上げると、そこにいたのはエスメラルダ・イラ・サリオンだった。
夕陽を背に受け、彼女の銀髪が黄金色に輝いている。その凛とした立ち姿はいつ見てもため息が出るほど美しい。
「エミー……」
アゼルは思わず、かつての愛称で呼びかけた。
彼女なら、慰めてくれるかもしれない。
かつての世界で彼女はいつもアゼルの良き理解者だった。厳しい戦いの中で互いに支え合い、励まし合ってきた仲だ。
エスメラルダはアゼルの前で足を止め、冷ややかな視線を見下ろした。
「アゼル様。その呼び方はお控えくださいと、何度申し上げれば理解していただけるのかしら」
氷のような声。
アゼルは慌てて姿勢を正す。
「あ、ああ、悪い。つい、な……」
「つい、ですか。貴族としての品位に欠ける発言ですわね」
エスメラルダは嘆息し、呆れたように首を振った。
だがわざわざ声をかけてきたということは何か用があるのだろう。
もしかして、俺が落ち込んでいるのを見て、心配してくれたのだろうか。
アゼルの中に淡い期待が芽生える。
しかしエスメラルダの口から出た言葉は彼の期待を粉々に打ち砕くものだった。
「単刀直入に申し上げますわ」
彼女は扇子で口元を隠し、鋭い眼光でアゼルを射抜いた。
「最近、貴方はハイン様に異常なまでの執着を見せているようですが……目に余りますわ」
「え?」
アゼルはきょとんとした。
「執着って……俺はただ、あいつと仲良くなりたくて……」
「仲良く? ええ、そうでしょうね。あまりにも熱心に」
エスメラルダの声には明らかな非難の色が混じっていた。
「授業中も、休み時間も、常にハイン様を目で追っていらっしゃる。先ほども、廊下で熱い視線を送っていらしたとか。その上、満面の笑みでアプローチをかけたとも聞き及んでおります」
「いや、あれは挨拶で……」
「挨拶にしては情熱的すぎましてよ」
エスメラルダは一歩踏み出し、アゼルに詰め寄った。
「忘れないでくださいね。ハイン様はわたくしの婚約者ですのよ」
その言葉の裏にある意味を理解するのにアゼルは数秒を要した。
婚約者。
執着。
熱い視線。
「……えっ?」
アゼルの顔が引きつる。
「ま、待て待て待て! エミー、いやエスメラルダ! お前、まさか……!」
エスメラルダは扇子をパチンと閉じ、冷徹に言い放った。
「帝国において、衆道……いえ、男色そのものを禁じる法はございませんが決して推奨されているわけでもありませんわ。ましてや、婚約者のいる殿方に横恋慕するなど、節操がなさすぎます」
「ちがうッ!!!」
アゼルは叫んだ。ベンチから飛び上がり、必死に手を振る。
「違うんだ! 俺はそんなつもりじゃ! 俺はただ、友達として! 友情! 清き友情を求めてるだけで!」
「友情と愛情の境界線など、当人にしか分からぬものですわ。いえ、当人でさえ自覚がない場合もございます」
エスメラルダは全く聞く耳を持たない。
彼女の目にはアゼルが「婚約者である自分を差し置いて、ハインに懸想する不届きな男」として映っているのだ。
「ハイン様はあのような高潔なお方です。貴方のような……その、情熱的なアプローチには慣れていらっしゃらないでしょう。ご迷惑をおかけするのはやめていただきたいのです」
高潔。
ハインが?
アゼルは目眩を覚えた。
だが今のエスメラルダにとってハインは絶対的な存在らしい。恋は盲目と言うがここまでくると一種の洗脳に近いのではないか。
「……頼むから信じてくれ。俺は本当にそういう趣味はないんだ」
アゼルは力なく訴えた。
エスメラルダはジト目でアゼルを見つめた後、ふいっと顔を背けた。
「……まあ、貴方の弁解は一応聞いておきますわ。ですが今後の行動で示していただきます。ハイン様への過度な接触は控えること。よろしいですね?」
そう言い残し、彼女は優雅に去っていった。
アゼルは再びベンチに崩れ落ちた。
夕闇が迫る中、彼は一人頭を抱える。
「……詰んでないか? これ」
ハインには生理的に拒絶され、エスメラルダには男色家だと勘違いされ、警戒される。
友達になるどころか、不審者街道まっしぐらだ。
世界を救ったこともある勇者の道は、前世よりも遥かに険しく──そして理不尽なものであった。
アゼルの不憫な溜息が夜の帳に吸い込まれていく。
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ちなみにハインがアゼルのスマイルを見て唾棄した理由は、アゼルを嫌っているからではない。生理的な反応だ。ハインは母親であるヘルガか、あるいは身内に分類されている者以外からの笑みを受け付けないのだ。例えば朝一番、通勤中でも通学中でもいいが、路上に山盛りの糞便を見つけてしまったとして、気分が良くなる者がいるだろうか?
要はそういう理屈である。




