ママ心配
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帝国貴族の子弟教育とは畢竟、精神の去勢と生存本能の純化を同時に強いる儀式に他ならない。
人は孤独に生まれ、孤独に死ぬ。その自明の理を、煌びやかな衣装と虚飾に満ちた礼節で包み隠し、あたかも高貴な血脈のみが持ち得る特権であるかのように振る舞うのが彼らの流儀だ。
親は子を愛するがゆえに突き放すという。獅子は千尋の谷に我が子を蹴落とすという故事を引いて、彼らは自らの冷徹さを正当化する。だがその実態はどうだ。それは単なる愛情の欠如か、あるいは自らが老いさらばえ、その座を追われることへの根源的な恐怖を、教育という美名で糊塗しているに過ぎないのではないか。
ガイネス帝国において、貴族の子弟たる者、十五にもなれば親の膝を離れ、荒野へと放り出されるのが常である。荒野、すなわち寮生活、遊学、あるいは戦場だ。親に甘えることは恥であり、親が子を囲い込むことはその家の没落を意味する愚行とされる。
自立。
独立独歩。
己の力のみで立ち、己の才覚のみで生き残る──それが帝国の気風であり、強さの源泉であると彼らは信じている。この強迫的なまでの自立心の強要はかつて大陸を覆った永き戦乱の記憶が骨の髄まで染みついているからに他ならない。いつ何時、家が焼け、親が死に、全てを失うか分からぬ世において、頼れるものは己の肉体と知恵のみ。過保護とはすなわち子を殺す毒であると、彼らは本気で信じているのだ。
人は堕ちる。
赤子という全き依存の存在から、孤独な個へと堕ちていく。それを成長と呼ぶのなら、成長とはなんと残酷で救いのない下降線であろうか。
アステール公爵家当主代行、ヘルガ・イラ・アステールはその冷厳な帝国の掟を理解し、受け入れ、そしてその上で、どうしようもない違和感と格闘していた。
彼女はハインを愛している。
それは貴族の義務でも、血の繋がりの強制でもない。もっと生々しく、泥臭く、そして切実な、一個の女としての、あるいは雌としての情念に近い何かだ。夫ダミアンとの凍てついた地獄のような日々の果てに、彼女が得た唯一の温もり。それがハインだった。あの子のためなら、地獄の業火に焼かれることも厭わぬと誓った。
しかしその愛が深ければ深いほど、彼女は帝国の気風という壁に直面する。
愛するがゆえに、手放さねばならぬというパラドックス。
過干渉は毒だ。甘やかしは罪だ。あの子を真に強く、気高く育てるためには心を鬼にして突き放さねばならぬ。ヘルガはそう自分に言い聞かせ、己の胸に湧き上がるドロドロとした執着を、理性の檻に押し込めてきた。
──あの子が最近よく出かけるようになった。
学院の休日。かつてであれば、ハインは一日中ヘルガの影のように寄り添い、その温もりを貪っていたはずだ。だが今は朝早くに身支度を整え、ふらりと屋敷を出ていく。
行き先は告げない。供はフェリだけ。
それは帝国の貴族として見れば、極めて健全で、喜ばしい成長の証左であるはずだ。
他家の者と交流を深めている、とハインは言う。理由としては満点だ。他家の子弟と交わり、人脈を築き、あるいは帝都の空気を肌で知る。次期当主として必要な資質を、自ら養おうとしているのだから。
頭では分かっている。
ああ、分かっているとも。
だが腹の底で燻るこの黒い感情は何だ。
寂しさか。不安か。あるいは自分だけのものだと思っていた人形が勝手に動き出したことへの戸惑いか。
違う。
もっと不吉で、予感めいた何かが彼女の肌を粟立たせるのだ。
ハインは嘘をつかない。少なくとも、ヘルガに対しては。
だが真実のすべてを語っているわけでもない。
──あの子がまとう空気にはどこか血の匂いがする。
洗練された香水の奥に乾いた死の匂いが混じっている気がしてならないのだ。
執務室の窓から差し込む陽光は今日も残酷なほどに明るく、帝都の街並みを照らし出している。ヘルガはペンを走らせていた手を止め、ふと顔を上げた。
視線の先には庭園の木々が風に揺れている。平和な光景だ。だがその平和が薄氷の上に築かれた仮初のものであることを、彼女は誰よりも知っている。
「……ハイン」
唇から漏れた息は誰に届くこともなく空気に溶けた。
聞かねばならぬ。
母親としてではなく、アステール家の当主代行として。次期当主の行動を把握するのは当然の責務だ。過干渉だと謗られようと、マザコンの息子を甘やかす愚母と嗤われようと、この胸のつかえを取り除かねば、前に進めぬ。
ヘルガは意を決した。
それは堕落への第一歩かもしれない。だが愛に堕ちぬ母親など、この世に存在するのだろうか。
◆
朝の食卓。
磨き上げられた銀食器がシャンデリアの光を反射して冷たく輝いている。
長いテーブルの端と端にそれぞれヘルガとハインはついていた。物理的な距離は心の距離を象徴するものではない。むしろ、この空間を隔てているからこそ、互いの視線はより濃密により切実に絡み合う。
ハインは今朝も完璧だった。
漆黒の髪を一分の隙もなく整え、深淵を宿した瞳で静かに食事を進めている。その所作の一つ一つが計算され尽くした芸術のように美しい。ナイフが肉を切り裂く音さえ、音楽的な律動を帯びている。
成長した、とヘルガは思う。
かつて自分の膝の上で震えていた小さな命が今やこれほどの美貌と威厳を備えた青年に育った。だがその成長がなぜこれほどまでに胸を締め付けるのか。
ヘルガは紅茶のカップをソーサーに置き、カチャリという硬質な音で沈黙を破った。
「ハイン」
呼びかける声は努めて穏やかさを装った。
ハインの手が止まる。
彼は顔を上げ、聖母を仰ぐ殉教者のような、陶酔と崇拝の入り混じった眼差しをヘルガに向けた。
「はい、母上。何でしょうか。お水ですか? それとも部屋の温度が不快ですか? 直ちに調整しますが」
「いいえ、違うの。……最近、お休みの日はよく出かけているようだけれど」
ヘルガは核心に触れた。
ハインの瞳孔がわずかに収縮したのを彼女は見逃さなかった。
だがそれは動揺というよりは瞬時に思考を巡らせる計算の色だった。
「どんなことをしているの? やはり、お友達とのお付き合いかしら」
問いかけはあくまで日常会話の延長として。
決して詰問調にならぬよう、細心の注意を払って。
ハインはふわりと微笑んだ。それは春の陽だまりのように暖かい。
「ええ、まあ。そのようなものです」
ハインは滑らかに答える。
「学院で知り合った方々と、帝都の歴史や文化について知見を深めております。また、将来のために有益な……そう、人脈への投資といったところでしょうか。母上にご心配をおかけするようなことは断じて」
模範解答だ。帝国の貴族として、これ以上ないほど適切な回答である。
人脈への投資。知見の深化。自立した次期当主としての自覚に満ちている。
だがヘルガの直感は告げていた。
これは「正解」ではあるが「真実」ではない、と。
母の直感、女の勘である。しかしヘルガは頷いた。
ここで追及してはならぬ。それは野暮というものだ。
嘘をつくこともまた、大人の嗜み。母に心配をかけまいとする、彼なりの愛の形なのだろう。
「そう……。それならいいのだけれど」
ヘルガは微笑み返した。
胸の奥のモヤモヤとした澱を無理やり笑顔の下に押し込める。
「無理はしないでね。あなたは頑張り屋さんだから」
「肝に銘じます。私の全ては母上の安寧のために」
ハインの言葉は甘美な毒のようにヘルガの耳を犯す。
その言葉を聞くだけで、理性が溶け、思考が麻痺していくようだった。
◆
ハインが出かけた後の屋敷は主を失った神殿のように静まり返っていた。
ヘルガは執務室に籠もり、山積みの書類と対峙していた。
アステール公爵家の運営。
それは巨大な魔獣の手綱を握るごとき、困難で危険な道化芝居だ。
かつて傾きかけていた家計は今や奇跡的な回復を見せている。いや、回復どころか、未曽有の好景気に沸いていると言ってもいい。だがその豊かさは健全な労働や領地経営によってもたらされたものではない。
「グラマン」
ヘルガは傍らに控える老執事を呼んだ。
白髪を撫でつけ、彫像のように直立する男。アステール家の影を知り尽くした古参の忠臣。
「はい、奥様」
グラマンは音もなく進み出る。
その顔には長年の奉公で培われた鉄面皮が張り付いている。
「今期の報告書を見たわ。……増え続けているわね、この『特別支援金』」
ヘルガの指が羊皮紙の上の一点を叩く。
そこには一貴族の財布を潤すにはあまりにも巨額な数字が並んでいた。
鉱人。獣人。エルフェン種。送金元の名義は多岐にわたるがその共通点は一つ。
亜人、あるいは亜人に連なる者たちである。
「ご説明いたします」
グラマンは表情一つ変えずに答えた。
「彼らは希望を買っているのです」
「希望?」
「はい。アステール公爵家という新たな時代の象徴を」
グラマンの言葉には皮肉と畏敬が入り混じっていた。
帝国の貴族社会は今、二つの巨大な潮流によって引き裂かれようとしている。
一つは宰相ジギタリスを筆頭とする「宰相派」。
彼らは伝統的な人間至上主義を掲げ、貴族の特権を死守しようとする保守の岩盤だ。彼らにとって、亜人は道具であり、搾取の対象でしかない。帝国の古い血を守るためなら、彼らは迷わず新しい芽を踏み潰すだろう。
対するもう一つがヘルガたち「亜人貴族派」である。
アステール家とサリオン家を中心としたこの寄り合い所帯は今や帝国の闇を照らす一条の光として、虐げられた者たちの熱狂的な支持を集めている。
亜人たちはアステール公爵家に夢を見、金を注ぎ込んでいる。否、これは金ではない。彼らの血であり、涙であり、そして怨嗟である。現状という絶望から逃れるための蜘蛛の糸、それがアステール家であるならば、彼らは喜んで財をなげうつだろう。それは投資という名の、悲鳴に近い祈りだ。
「……拮抗、しているわね」
ヘルガは呟く。
「数と伝統では宰相派。勢いと資金力では我々。……でも不気味だわ」
そう、不気味なのだ──宰相ジギタリスの沈黙が。
あの毒蛇がこれほどの勢力拡大をただ指をくわえて見ているはずがない。
本来ならば、陰湿な妨害工作、根拠のない噂の流布、あるいは暗殺といった手段で、芽を摘みに来るのが彼のやり方だ。
それが何もない。
まるで、嵐が来るのを静かに待っているかのように。あるいは獲物が罠の深みにはまるのをじっと待つ蜘蛛のように。
「チャンス、とも言えます」
グラマンは淡々と言う。
「敵が動かぬ今こそ、地盤を固める好機。彼らの資金を使って、アステール家の力を盤石なものとする。それがひいてはハイン様をお守りすることに繋がります」
ヘルガは嘆息した。
そうだ。
これは戦争なのだ。剣を持たぬ、金と権謀術数の戦争。
ハインを守るためには力が必要だ。
綺麗事だけではこの愛する怪物を守り切ることはできない。
たとえその金に、誰かの怨嗟や、血の匂いが染み付いていたとしても。
「分かったわ。……受け入れましょう」
ヘルガは決断した。
それは堕落かもしれない。権力の魔酒に酔い、引き返せぬ場所へと足を踏み入れる行為かもしれない。だが母とは業の深い生き物だ。
子の安寧のためなら、悪魔とだって手を組む。世界を敵に回しても、あの子が笑っていてくれるなら、それでいい。
──生きることは落ちることだ。
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。
人はオギャアと生まれた瞬間から、死に向かって落下し続けている。
貴族もまた然り。権力という魔酒に酔い、欲望という泥沼に足を取られ、どこまでも堕ちていく。清潔でいようなどというのは甘ったれた幻想に過ぎない。
ヘルガは口元に微かな笑みを浮かべた。それは聖女のようであり、同時に悪女のようでもあった。
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ちなみに、グラマンは一つヘルガに告げていない事がある。それは『特別支援金』にハインから寄こされるギルドからの報酬分も入っている事だ。なぜ告げていないかといえば、ハインの意向である。ただ、とグラマンは思う。
──今はまだ誤魔化せてはいますが、いずれはごまかしきれなくなるでしょうなあ
と。
グラマンは内心で苦笑しつつ、ヘルガにバレた時、どう誤魔化すかを考えておかねばと思った。なぜなら、ハインに冒険者稼業を勧めたのはまさにグラマンだからである。




