星の光
◆
地上に降り立つと、そこには光の膜に包まれたフェリがいた。
俺が放り出す直前に展開した防護膜だ。あれだけの熱量と衝撃が吹き荒れたというのに、フェリの衣服には焦げ目一つついていない。膜の中で膝を抱えていたフェリは俺の姿を認めると弾かれたように顔を上げた。
その頬は上気し、瞳は潤んでいる。
「若様……! あのような……あのような神懸かった御業を……!」
フェリが駆け寄ってくる。その表情は信仰する神の奇跡を目の当たりにした狂信者のそれに近かった。
「言葉もございません。あの光はまさしく若様の威光そのもの。このフェリ、生涯の誉れとさせていただきます」
フェリは俺の足元に跪き、靴先に額を擦り付けるようにして平伏した。
やれやれ、と俺は内心で息をつく。こいつは俺が何をしても──たとえ俺が腹を空かせて腹の虫を鳴らしたとしても、「なんと勇壮で美しい音色でしょう」などと涙を流して感動する類の手合いだ。いちいち真に受けていては身が持たない。
「立つがいい。帰るぞ」
俺はフェリの腰を抱き寄せると、再び空へと舞い上がった。
目指すは王都──いや、劣都フロストヘイム。
眼下を流れる景色は相変わらず白一色だが俺の心は既に母上の待つ帝都へと飛んでいた。早く帰って、母上の淹れた紅茶を飲みながら膝枕でもしてもらいたい。そんな甘美な想像だけがこの寒々しい風景の中での唯一の慰めだった。
◆
フロストヘイムの上空に差し掛かると、街の様子が何やらおかしいことに気がついた。
通りという通りに人が溢れ、蟻の行列のように右往左往している。歓声というよりは悲鳴や怒号に近いざわめきが上空の俺たちのところまで風に乗って届いてきた。
「若様」
フェリが俺の腕の中で小さく声を上げる。
多くを語らずとも、その一言だけでフェリの意図は察せられた。街が混乱している。何か変事があったようだ、という報告だ。
フェリが俺の一言で俺の意図を察することができるように、俺もまたフェリの短い言葉から状況を読み取ることができる。主従の阿吽の呼吸というやつだ。まあ、俺ほどの天才になれば、凡人の思考など手に取るようにわかるというだけの話だが。
だが今の俺にとってこの街の変事など、道端の犬の糞ほどの関心事でもない。
「佳きに」
俺は短く答えた。好きにしろ、どうでもいい、という意味だ。
「仰る通りです。ギルドへ行き、報奨金を受け取りましょう」
フェリも即座に頷く。俺たちは雑多な騒音を無視して、冒険者ギルドの前へと降り立った。
ギルドの中もまた、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
武装した冒険者たちが殺気立って怒鳴り合い、職員たちは顔を引きつらせて対応に追われている。俺たちが扉を開けて中に入ると一瞬だけ場の空気が凍りついたように静まり返ったがすぐにまた喧騒が戻ってきた。
俺は喧騒を柳に風と受け流し、カウンターへと向かう。
受付嬢のシフは何やら書き物をしていた手を止め、青ざめた顔で俺たちを見た。
「あ……アスト様、フェリ様……」
「依頼の達成報告だ」
フェリが懐から巾着袋を取り出し、カウンターの上に置いた。ゴロリ、と重たい音がする。中に入っているのはフロスト・ワイアームの眼球だ。
「こ、これは……」
「フロスト・ワイアームの討伐部位です。確認を」
シフは震える手で袋を開け、中身を確認すると、息を呑んで俺たちを見上げた。
「た、確かに……。し、しかしまさか本当にお二人だけで……?」
「報酬を」
俺が口を挟むと、シフはビクリと肩を震わせ、慌てて金庫の方へと走っていった。
待つこと数分。シフが重そうな革袋を二つ抱えて戻ってきた。
「こ、こちらが報酬の金貨二千枚になります……。お、お確かめください」
「佳きに」
俺は顎でフェリに合図をする。フェリが手早く中身を確認し、恭しく一礼した。
「相違ございません」
「行くぞ」
用は済んだ。こんな埃っぽい場所に長居する理由はない。
俺は踵を返し、出口へと向かう。背後で冒険者たちがヒソヒソと噂話をしているのが聞こえたが俺には関係のないことだ。
◆
ギルドを出ると、外の騒ぎはさらに大きくなっていた。
大通りの向こうから、砂煙を上げて軍隊の一団がやってくるのが見えた。いや、軍隊と呼ぶにはあまりにもお粗末な、敗残兵の群れだ。
鎧はひしゃげ、兜を失い、武器を引きずるようにして歩く兵士たち。その顔には絶望と疲労の色が濃く滲んでいる。
その中央に、一台の荷馬車があった。
荷台には檻が載せられており、その中に一人の女が押し込められている。
ボロボロのローブを纏い、手足には重そうな枷が嵌められていた。髪は乱れ、顔は煤と血と泥にまみれてどす黒く変色している。かつては美しかったのかもしれないが今はただの薄汚れた敗北者にしか見えない。
「見ろ! この女だ!」
先頭を歩く兵士が沿道の群衆に向かって叫んだ。
「この魔女がグルンベルド陛下を殺したのだ! 我々の王を背後から卑怯な手で弑した大逆人だ!」
その言葉に、群衆がどよめいた。
「王殺しだと!?」
「なんてことだ……!」
「殺せ! その魔女を殺せ!」
罵声と共に、石や腐った野菜が檻に向かって投げつけられる。
女──アヴィアナは身じろぎもせず、ただ虚ろな目で宙を見つめていた。投げつけられた石が額に当たって血が流れても、痛がる様子すらない。
俺はその光景を冷めた目で眺めていた。
王が死のうが誰が犯人だろうが俺の知ったことではない。ノルンという辺境の小国の権力闘争など、コップの中の嵐に過ぎない。
通り過ぎようとした、その時だ。
檻の中の女がゆっくりと顔を巡らせ、俺の方を見た。
泥と血にまみれた顔の中で、瞳だけが異様な光を放っていた。
その視線が俺を射抜いた瞬間、俺の背筋に不快なものが走った。
「む」
俺は思わず眉をひそめた。
──こいつだな、俺を視ていたのは。
大氷原で感じたあの不快な視線の主はこの女だったのか。
俺の不機嫌を察知したのか、フェリが音もなく俺の前に進み出た。
「若様、いかがなさいましたか」
「あの劣等雌だ」
俺は顎で檻の中の女をしゃくった。
「あの薄汚い女、俺を視ていた。とんだ変態劣等だ」
俺の言葉に、フェリの目がすっと細められる。その瞳孔が針のように収縮し、危険な光を帯びる。
「……左様でございますか」
フェリの声は静かだったがそこに含まれる殺気は周囲の空気を数度下げるほどだった。
「ちょうどいい。奴に一言言ってやる。俺は覗き見などという陰湿な行為は大嫌いなのだ」
俺は人垣を割り、荷馬車の方へと歩き出した。
俺が荷馬車の前に立ちはだかると、護送していた劣等兵士たちが色めき立つ。
「な、なんだ貴様は! 邪魔をするな!」
「そこを退け!!」
兵士たちが槍を構え、威圧してくる。
だが俺が口を開くよりも早く、フェリが一歩前に踏み出した。
「お静かに──」
フェリはうっすらと微笑んでいた。
分かりやすい圧のかけ方だ。だが劣等共にはフェリのこれは耐えられまい。
「ひっ……!?」
「な、なんだ、こいつ……」
兵士たちは気圧され、槍を取り落としそうになりながら後ずさった。
フェリもなかなか気が利くようになってきたな。
俺は内心でフェリを褒めつつ、囚われた女の前に立った。
女はじっと俺を見つめ返してくる。
それが俺の神経をさらに逆撫でする。
「おい、そこの薄汚れた劣等雌」
俺はすうと息を吸い込む。
「貴様、先ほど大氷原にて不躾にも俺を覗き見ていただろう。言っておくがな、他者の姿を許可なく魔術的手段を用いて観測するなどという行為は法に触れずとも倫理に悖る下劣な所業だ。貴様のような品性の欠片もない輩には理解できぬかもしれんが俺という存在は俺の敬愛する母上の為だけに在るのだ。俺の髪一本、爪の先、吐き出す息に至るまで全ては母上の所有物であり、母上の愛を受けるために磨き上げられた聖域なのだ。それを貴様ごとき薄汚れたドブネズミのような眼球で舐め回すなど、万死に値する冒涜だと思わんか? いや思うはずがない、だから貴様はそんなザマなのだ。大方、その卑しい覗き趣味が昂じて何かしらの不始末をしでかしたのだろうが自業自得という言葉を辞書で引いてから出直してくることだ。そもそも、見られる側の気持ちを考えたことがあるのか? 貴様の粘着質な視線を感じるたびに、俺の肌には粟が立ち、精神は穢され、母上への純粋な思慕に雑音が走るのだ。その精神的苦痛に対して、貴様はどう責任を取るつもりだ? 金か? 命か? どちらも貴様のような薄汚い敗残者には支払えぬだろう。ならばせめて、その曇った眼球を自ら抉り出し、二度と美しいものを映さぬよう暗闇の中で懺悔の日々を送るのが貴様に残された唯一の誠意というものではないか。聞いてるのか? その間抜け面は反省の色が見えんぞ。まあいい、貴様のような低能な劣等に高度な道徳を説いたところで、豚に真珠、馬の耳に念仏だ。精々自分の浅ましさを呪いながら朽ち果てるがいい」
俺は言いたいことだけを言い放つと、ふん、と鼻を鳴らして女から離れた。
女は最後まで一言も発さなかった。ただ、その瞳の奥に宿る熱だけがさらに強まったように見えた。
不気味な女だ。
「行くぞ、フェリ」
「はい、若様」
俺たちは呆然とする兵士や群衆を置き去りにして、その場を後にした。
もうこの街に用はない。一刻も早く、母上の待つ我が家へ帰ろう。
◆
国王グルンベルドを弑逆した大罪人、アヴィアナ。
彼女は今、奇妙な感覚に包まれていた。
兵士たちに囲まれ、民衆から罵声を浴びせられ、死を待つだけの身。本来ならば絶望と恐怖に打ちひしがれているはずの彼女の心に、一筋の光が差し込んでいた。
それは今しがた去っていったあの少年の言葉だった。
──俺という存在は俺の敬愛する母上の為だけに在る。
──全ては母上の所有物であり、聖域なのだ。
なんと力強く、純粋な響きだろうか。
アヴィアナはずっと、力に飢えていた。
グルンベルドという暴力に屈し、その歪んだ欲望の掃き溜めとして扱われながら、彼女は心のどこかで、彼を超える「絶対的な力」を求めていた。自分を壊す力ではなく、自分を定義してくれる力を。
そして今、彼女は出会ったのだ。
あの大氷原で見た、世界を焼き尽くす光の主に。
彼はアヴィアナを見下し、罵倒した。だがその言葉には嘘がなかった。彼には確固たる「核」があった。母という唯一無二の存在への、狂気的なまでの献身。それが彼の力の源泉であり、彼を「聖域」たらしめているのだ。
それに比べれば自分はどうだ。
穢れた目で彼の聖域を盗み見た。それは確かに冒涜だった。
──その曇った眼球を自ら抉り出し、二度と美しいものを映さぬよう暗闇の中で懺悔の日々を送るのが貴様に残された唯一の誠意というものではないか。
少年の言葉がアヴィアナの脳裏で反響する。
それは罰の宣告であり、同時に救済の道しるべでもあった。
アヴィアナの唇が震えながら笑みの形を作った。
そうか。そういうことか。
私はまだ見ているつもりでいたのだ。この世界の醜さを自分の不幸を王の死を。
だがそんなものは見る価値もない。
本当に見るべきものはもう見てしまったではないか。あの美しい光を。
ならばこの目はもう不要だ。
いや、持っていること自体が罪なのだ。
アヴィアナの中で何かが音を立てて砕け散り、そして再構築された。
彼女は体内に残るわずかな魔力を練り上げた。拘束された手では印を結べないが今の彼女には必要なかった。自身の肉体を破壊するのに、複雑な術式など要らない。
彼女は意識を自分の両眼に集中させた。
水晶体、硝子体、網膜。そこにある水分を一瞬にして極限まで冷却する。
パキィッ、という硬質な音が彼女の頭蓋の中で響いた。
激痛。
しかしそれは彼女にとって贖罪の歓喜でもあった。
アヴィアナの両目から、キラキラと輝く粉末が溢れ出した。
凍り付き、砕け散った眼球の破片だ。それらは冬の陽光を受けて虹色に輝き、アヴィアナの周囲に幻想的な光の霧を作り出した。
「な、なんだ!?」
「目が……光って……!」
兵士たちが動揺し、足を止める。
民衆もまた、その凄惨かつ美しい光景に息を呑んだ。
世界が閉ざされる。
光が失われ、永遠の闇が訪れる。
だがその闇の中で、アヴィアナは初めて視た。
肉の眼では捉えきれなかった、魔力の流れ、風の囁き、世界の輪郭。
視覚という脳のリソースを大量に消費する感覚器官を自ら廃棄したことで、彼女の知覚領域は爆発的に拡張したのだ。
魔術師にとって喪失は欠落ではない。それは代償であり、新たな階梯へと登るための儀式なのだ。
彼女は「視て」いた。
遠ざかっていく少年の背中から立ち昇る、天を突くような魔力の柱を。
もはや荒縄など意味をなさない。アヴィアナは全身から冷気を放出し、縄を凍らせて砕いた。
「ま、待て! 逃げる気か!」
兵士が叫び、槍を突き出す。
だがその動きはアヴィアナには止まって見えた。
彼女はゆらりと体を揺らし、槍を躱す。そして踊るように、舞うように、光の霧の中を歩き出した。
誰も彼女に触れられない。触れようとすれば、その手が凍り付くことを本能で悟ったからだ。
アヴィアナはもはや王殺しの大罪人ではなかった。神に裁かれ、生まれ変わった殉教者だった。
彼女は歩き出した。
ハインが消えた方向とは逆の方向へ。
追うことはしない。
今の自分ではまだ彼の前に立つ資格はない──アヴィアナはそう考えた。
もっと深く、もっと冷たく──そして、もっと鋭く自らを研ぎ澄まさなければならない。
そうして彼女は雪原へと消えていった。二つの空洞となった瞳に、見えぬ星の光を宿して。
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アヴィアナがここまで力に固執し、ハインを崇拝するに至った理由。
それは彼女の生い立ちにある。
人間と精霊の混血として生まれ、どちらの世界にも属することのできなかった孤独。そしてグルンベルドという圧倒的な暴力によって支配され続けた無力感。
彼女はずっと渇望していたのだ。
誰にも脅かされない、絶対的な強さを。理不尽な暴力をねじ伏せる、さらなる理不尽を。
ハインはそれを体現していた。
彼はアヴィアナにとって、恐怖の対象であると同時に、救済の象徴でもあったのだ。
彼のようになりたい。彼に近づきたい。
その歪んだ憧憬はやがて狂信へと変わっていく。
だがそれは彼女が初めて自らの意志で選び取った生きる道でもあった。
◆
──と、まあここまでは“この世界”での出来事だ。
“本来の歴史”に於いてはアヴィアナ・フロストハートの運命はこれほど救いのあるものではなかった。
本来の歴史ではグルンベルドはアヴィアナに殺されてなどいない。
むしろ逆である。
グルンベルドの方がアヴィアナを殺した。
いや、殺したという表現は正確ではないかもしれない。
彼は彼女を“捕食”したのだ。
グルンベルドとアヴィアナは異母兄妹であった。
だがグルンベルドの中には妹に対する近親相姦的な劣情と、精霊の血を引く彼女への生理的な嫌悪、そして何より、彼女を完全に支配したいという歪んだ所有欲があった。
彼の心にはアヴィアナに対するねじくれた“何か”が巣食っていた。
愛憎とも執着ともつかない、どす黒く粘つくような感情の塊。
本来であれば、それは彼の心の中で燻り続けるだけで終わったかもしれない。
だがその昏い情念に火をつけた者がいた。
魔王となったハイン・セラ・アステールである。
魔王ハインはグルンベルドの心の闇を覗き見、それを煽った。
「喰らえばいい。そうすれば、彼女は永遠にお前のものだ」
その甘美な囁きに乗せられ、グルンベルドは一線を超えた。
彼はアヴィアナを寝室に呼びつけ、犯し、その柔らかな喉笛に牙を突き立てた。
血を啜り、肉を食み、内臓を貪り尽くした。
彼女の絶叫と懇願を最高の音楽として聴きながら。
アヴィアナの体内に流れる冬の精の血肉を取り込んだグルンベルドは人としての形を捨てた。
全身から氷の棘を生やし、理性なき獣へと変貌したのだ。
それが“魔狼”グルンベルドである。
彼は魔王の忠実な手先となり、極北の地を恐怖で支配し続けた。
その腹の中に、愛する妹を永遠に閉じ込めたままで。
やがて勇者アゼルとその一行によって討たれるまで、彼の孤独な暴走は続くことになるのだが──
それはまた、別の世界のお話である。




