幕間:かえってきた男③
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帝立サンフォード学園、星藍石のクラスで一番の陽キャといえば当然アゼル・セラ・アルファイド伯爵令息である。
この赤毛の男は良くも悪くもカジュアルで、貴族社会の堅苦しい壁など意にも介さない。相手が誰であろうと笑顔で話しかけるその天真爛漫さは貴族子弟、子女らにはひどく新鮮に映るようで、クラスの中でもかなり人気がある。
天涙石や竜血石といった別のクラスの貴族子女からも熱視線を送られるアゼルだが、では彼がクラスでもっとも人望を集めているのかといえばそうではない。
星藍石のクラスで一番の陰キャ──ハイン・セラ・アステール公爵令息という対抗馬がいる。
この男はアゼルとは対照的にとにかく愛想がない。
ただ、他の誰よりも学生としては優秀であった。
成績は学年トップを常に保持し、授業中も傾聴の姿勢を崩さない。
休み時間は書物を読みふけるか、もしくは腕を組んで沈思黙考しつづける。
その姿はまるで精巧な人形のようであり、周囲の喧騒などまるで存在しないかのように、ただ一人己の世界に没入するハイン。
そんなハインに向けられる視線には様々な感情が入り混じっている。
畏怖、憧憬、そしてほんの少しの好奇心。
──ハイン様、今日も美しい……
──でも、絶対に話しかけられないわよね
──あのオイゲン副魔術師長を完膚なきまでに叩きのめしたのだぞ。我々のような者が気安く声をかけられるはずもない
そんな囁きが教室のあちこちで交わされるが、ハインの耳には届いていない。
いや、正確には届いてはいるが、意に介していない。
ハインはクラスメートが自身をどう思おうとどうでも良いと思っているのだ。
なぜならハインはごく一部の脱劣等を果たした者以外を自身と同じ人間だと思っていないから。
その辺をほっつき歩いている犬猫、草葉の裏に張り付いているアブラムシ──そういったモノから嫌われても、あるいは好かれても、大多数の者はそんな事はどうでもいいと思うだろう。
そういったノリで、ナチュラルに差別をしている。
ただ、だからといって能動的に虐げようともしないため、結句無視という結論に落ち着く。
ハインのそういった振舞いは彼に神秘性を与え、生徒たちの間では中々の人気を博していた。
が、そんなハインに気兼ねなく話しかける者がいる──クラス一の陽キャこと、アゼルである。
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「よう、ハイン! 今日も早いな!」
能天気な声と共に教室に入ってきたのは、アゼル・セラ・アルファイドだ。
その隣には少し心配そうな表情を浮かべたセレナ・イラ・ファフニルが寄り添っている。
アゼルは周囲の生徒たちが作る見えない壁などまるで意に介さず、ずんずんとハインの席へと近づいていった。
◆◆◆
「おはよう!」
アゼルが朗らかに挨拶をすると、普段は表情一つ変えないハインが一瞬眉を顰めた。
「いやあ、参っちゃったよ! 昨日変な夢を見てさぁ、中々夜眠れなくて。今朝少し寝坊しちまった!」
「……」
「でもなんで夢って起きた時忘れちまうんだろうな? まあいいや! とにかくさぁ、寝坊したせいで朝の鍛錬が少ししかできなかったんだよ」
「……」
「ハインも相当鍛えているんだろ? 体を見れば分かるぜ! で、どんな鍛錬をしてるんだ? 俺はまあ、ひたすら剣を振るだけだ!」
「……」
「感謝の素振りだぜ! 朝からマイペースで鍛錬が出来るっていうのは恵まれている事だって思うんだよな。“ありがとう! ”って叫びながら素振りをしてるんだ、さわやかな気分になるからお勧めだぞ! 今朝も三千回位剣を振った! 普段は一万回だ!」
「……はあ」
こんな調子で延々と話しかけるアゼル。
しかしハインは何も返さない。
朝いちばんのこの時間は別に私語禁止ではないし、それにハイン自身アゼルをそこそこ骨がある奴と評価している(「模擬試合」参照)。
良い意味で視界に入った者に対して、ハインは甘い部分が多々あった。
まあアゼルからしても、別に意味なく話しかけているわけではない。
彼は彼なりに、ハインと仲良くなろう、友人になろうという目的がある。
なぜなら、アゼルはハインが魔王の器として堕ちた姿をその目で見ているからだ。
魔王の器となるには、相応の条件が必要であることをアゼルは知っている。(「幕間:かえってきた男」参照)
だからこそのトモダチ作戦なのだが──
「アゼル様」
そんな声がアゼルの永遠にも続くかと思われたウザ絡みを中断させた。
「ハイン様は瞑想しておられますわ。邪魔をしないで下さい」
「よっ、エミー……エスメラルダ、おはよう!」
その声は親しみに満ちており、まるで旧知の友に語りかけるかのようだ。
「節度を守ってくださるかしら? わたくしはハイン様と婚約関係にあります。婚約者の前で別の殿方に親し気に名前を呼ばれたくはありませんわ」
エスメラルダの反応は非常に冷たい。
「お、おう……悪かったよ……」
──参ったなぁ
アゼルは内心で頭を掻いていた。
転生してからというもの、どうにもこの世界の人間関係の距離感が掴めていなかった。
特にエスメラルダだ。
"前の世界"では、彼女はアゼルの仲間であり、時にはそれ以上の関係でもあった。
ハインのことなど蛇蝎の如く嫌っており、その婚約も早々に破棄していたはずなのだ。
だというのに、この世界のエスメラルダはハインの婚約者であり、しかも何やら満更でもない様子。
その事実がアゼルの心を微かにざわつかせていた。
◆
休み時間。
アゼルはエスメラルダの机まで向かう。
「すまん、ええと……ちょっと聞きたい事があるんだ。よかったら廊下に出ないか?」
こんな事を言ったのは、どうしても確かめたい事があったからだ。
「……? ここで話すわけにはいきませんの?」
「まあ、うん」
アゼルの様子を不審気に眺めるエスメラルダだが、溜息混じりに頷いた。
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「そんなにハインのことが好きなのか?」
廊下に出て、開口一声にそんなことを聞くアゼル。
エスメラルダはといえば白い頬がみるみるうちに朱に染まる。
「なっ……!? なぜいきなりそんな事を……ま、まあそうですわね……好き……好き? そう、好きですけど……ただ、それは婚約者として至極当然の……」
動揺を隠しきれないエスメラルダの姿に、アゼルは確信した。
そして同時に胸の奥に鈍い痛みを感じる。
まるで大切にしていたものを、目の前で奪われたかのような喪失感。
「と、とにかく! 聞きたい事を聞いたのならもう良いでしょう? わたくしは席に戻ります!」
そう言ってエスメラルダは足早に教室に戻っていってしまった。
残されたアゼルはがっくりと肩を落とす。
そんな彼の背中に、そっと優しい声がかけられた。
「アゼル君……大丈夫?」
セレナだった。
彼女は心配そうにアゼルの顔を覗き込んでいる。
「……ああ、まあな」
アゼルは力なく笑った。
「だめだよ、あんな風に話しかけちゃ……エスメラルダ様にはハイン様っていう婚約者がいるんだから」
セレナが言う。まあ婚約者がいる相手に、その婚約者の前で馴れ馴れしく話しかけるなんていうのは宜しくはない。
「そうだな……気を付けるよ」
力なく笑うアゼルの表情は、普段からは想像もつかないほど弱々しい。太陽みたいに笑う男が見せる曇り空。そのギャップは、見る者の庇護欲という名の何かを的確に抉ってくる。
──アゼル君……
セレナは胸がちくりと痛むのを感じながらも、心のどこかで安堵している自分に気づいていた。エスメラルダはハインの婚約者。アゼルが彼女を諦めてくれるのなら、それは自分にとってほんの少しだけ希望の光が差すということだからだ。
──我ながら、なんて意地悪な考えだろうか
セレナはそんな事を思うがしかし、恋とは得てしてそういうものだ。他人の不幸を蜜の味とまでは言わないが、ライバルはいないに越したことはない。
「……元気、出して? アゼル君はいつもみたいに笑ってる方がずっと素敵だよ」
セレナは精一杯の勇気を振り絞って、アゼルの袖をそっと掴んだ。上目遣いで見つめられそんなことを言われてしまえば、大抵の男は単純なもので、少しばかり元気を取り戻してしまう。
「……サンキュ、セレナ。お前、優しいな」
◆
二人が教室に戻ると、一つの光景が目に飛び込んできた。
エスメラルダがハインに何かを熱心に話しかけている。当のハインは相変わらず書物から目を離さず、聞いているのかいないのか分からない仏頂面を晒しているだけだ。
凡人であればとっくに心が折れている状況であるが、エスメラルダは違う。その横顔はまるで春の陽だまりの中にいるかのように、幸せそうに綻んでいた。
その仲睦まじい(ように見える)二人を見て、アゼルは再び表情を曇らせた。
──そうか……これが、この世界の当たり前なんだな
前の世界でエスメラルダと育んできた思い出の数々がアゼルの脳裏をよぎる。
だが目の前の光景は、その記憶がもはや過去の遺物でしかないことを無慈悲に突きつけていた。
寂しそうに目を伏せるアゼルの横顔。
それを見つめるセレナの目が一瞬細められたのは、果たして。