冒険者になろう!②
◆
朝食の席でハインはヘルガに告げた。
「母上、今日は終日鍛錬に励みます」
今日明日と学園は休みだ。
ヘルガは優しく微笑んだ。
「今日は学園はお休みだものね。でも、あまり無理はしないでね」
「はい、母上」
ハインは恭しく頭を下げた。
幼少の頃から、ハインは鍛錬と称して朝から晩まで外出することが多々あった。
剣術、魔術、体術──あらゆる修練に没頭する息子の姿を、ヘルガは誇らしく思っていた。
だから今日も、特に不審に思うことはない。
「フェリも同行させます」
「そうね、それなら安心だわ」
ヘルガはフェリに視線を向けた。
「フェリ、ハインをお願いするわね」
「承知いたしました、大奥様」
フェリは深く頭を下げた。
もちろん、ヘルガは知らない。
二人がこれから向かうのが、冒険者ギルドだということを。
アステール公爵家の借金返済のため、ハインが冒険者として金を稼ごうとしていることを。
母上に心配をかけるわけにはいかない──ハインはそう考えていた。
朝食を終え、ハインとフェリは屋敷を出た。
屋敷から十分に離れたところで、二人は路地裏に入り、ローブを羽織った。
「母上を欺くのは心苦しいが、仕方あるまい」
ハインは呟いた。
「大奥様のためでもあります」
フェリがそう言って、フードを深く被る。
学園が休みの日にしか冒険者稼業はできない。
時間は限られている。
だからこそ効率的に、そして確実に成果を上げなければならない。
◆
帝都ガイネスフリードの下町。
石畳の道を挟んで雑多な店が並ぶ通りの一角に、冒険者ギルド帝都支部はあった。
三階建ての堅牢な石造りで、入口には剣と盾を交差させた紋章が掲げられている。
その扉を黒いローブに身を包んだ二人の人影が押し開けた。
一人はフードを深く被った青年。
もう一人は同じくローブを纏った女性だが、フードの隙間から銀髪が僅かに覗いている。
ハインはギルド内部を見渡して舌打ちした。
酒臭い。
汗臭い。
そして何より、劣等の臭いが充満している──そう感じていた。
木製のテーブルがあちこちに配置され、その周りで冒険者たちが酒を飲み交わしていた。
壁には依頼書がびっしりと貼られた巨大な掲示板。
奥にはカウンターがあり、受付嬢が忙しそうに書類を捌いている。
「FUCK……」
ハインは小声で呟いた。
FUCKとは古代リカーノ語で“糞ったれ”を意味する。
誇り高いハインにとって、劣等空間に身を置くことは苦痛でしかないのだ。
隣のフェリがそっと肘で小突く。
「アスト様、お声が」
「ああ、そうだったな、フェンリィ」
アスト──星を意味する古語。
フェンリィ──夜の森を意味する詩的な表現。
ハインが考えたこの偽名は、安直なネーミングセンスだと自覚していた。
だが、フェリの反応は予想外だった。
「その名前は……なぜか、やけにこの身に馴染みます」
フェリがぽつりと呟いた。
その表情には、困惑と懐かしさが混じったような不思議な色が浮かんでいる。
もちろん、フェリがその名前の由来を知る由もない。
"本来の歴史"では、フェリは「フェンリィ」と名乗っていたのだから。まあ“本来の歴史”のフェリはハインによって四肢を切断され、ダルマにされて弄ばれた挙句に殺されてしまったのだが。
ともかくも二人はカウンターへと歩みを進めた。
周囲の冒険者たちの視線が、新参者に向けられる。
品定めするような、値踏みするような、そんな視線だ。
「ようこそ、冒険者ギルドへ!」
受付嬢が営業用の笑顔を浮かべた。
茶色い髪を後ろで束ね、ギルドの制服をきっちりと着込んでいる。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
ハインが口を開きかけた時、フェリが前に出た。
「冒険者登録を」
フェリの落ち着いた声に、受付嬢は頷いた。
「かしこまりました。それでは、こちらにお名前をご記入ください」
受付嬢が差し出した書類は、驚くほど簡素なものだった。
名前を書く欄があるだけ。
年齢も、出身地も、経歴も問われない。
冒険者という職業には、過去を問わない暗黙の了解がある。
脛に傷を持つ者、訳ありの者、逃亡者──そういった者たちの受け皿でもあるのだ。
フェリは流れるような筆致で二つの名前を記入した。
『アスト』
『フェンリィ』
「登録料は銅貨二十枚ずつになります」
フェリは懐から銅貨を取り出し、正確に四十枚を数えてカウンターに置いた。
ハインは黙ってその様子を見ている。
「それでは、お二人とも『錆鉄級』からのスタートとなります」
受付嬢が二枚の金属製のプレートを差し出した。
錆びた鉄のような色をした、粗末な身分証だ。
「錆鉄級だと?」
ハインの声に明らかな不満が滲む。
冒険者ギルドのランクは下から、錆鉄、銅、鉄、銀、金、白金、そして伝説級の黒金まで存在する。
錆鉄級など、文字通り最底辺だ。
ハインが文句を言いかけた時、フェリがそっと袖を引いた。
「アスト様、規則は規則です。皆、最初はここから始めるのでしょう」
フェリの冷静な忠言に、ハインは舌打ちをしながらも納得した。
「……まあいい」
その時だった。
どしん、と重い足音が近づいてきた。
「おう、坊主。冒険者になろうってのか?」
振り返ると、そこには巨漢が立っていた。
身長は二メートルを優に超え、筋肉が盛り上がった腕は丸太のようだ。
蛮人のような恰好で、腰には手斧を佩いている。
顔は髭だらけで、目つきは鋭いが、どこか人の良さそうな雰囲気も漂わせていた。
「帝都の冒険者は甘くねぇぜ。特に錆鉄級なんて、ゴブリン退治や薬草採取ばかりで食っていけねぇ。覚悟はあるのか?」
男の言葉に悪意は感じられない。
むしろ新人を心配する先輩冒険者としての忠告のようだった。
ハインは男を一瞥するとフェリに向かって言った。
「佳きに」
たった三文字。
だがフェリは即座に理解した。
──可及的速やかに等級をあげ、大きく稼ぐための標的を決め、また、目の前の大男をはじめあらゆる障害に対して適切に対処せよ。
そうハインは命じているのだと。
フェリはゆっくりと巨漢を観察し始めた。
つま先から頭のてっぺんまで、まるで品定めをするように。
「筋肉量は申し分なし。反射神経も悪くはない。魔力は……微弱ですが、戦士としては十分。手斧の扱いにも慣れている様子」
フェリがぶつぶつと呟き始めた。
「ただし、観察眼は節穴極まる。アスト様にこのような口を叩くなど本来ならば死罪に値します」
巨漢の顔が引きつった。
「しかし、悪意は感じません。情状酌量の余地はありそうです」
フェリは巨漢の前に立ち、見上げた。
「無礼な男よ、あなたは殺されても仕方ない事をしました」
ギルド内がしんと静まり返った。
酒を飲んでいた冒険者たちも、手を止めて二人を見ている。
「しかし、一つ機会を与えましょう。我々が速やかに等級を上げるための案を提示しなさい。内容如何によっては命をとるような事はしません」
巨漢──ドムドムは内心で溜息をついた。
──こいつら、貴族だな。しかも、かなり傲慢で危険な糞貴族だ
長年冒険者をやっていれば、相手の素性くらいは何となく分かる。
立ち振る舞い、言葉遣い、そして何より、この尊大な態度。
間違いなく上級貴族の子息だろう。
道楽で冒険者の真似事をしに来たのか、それとも何か別の目的があるのか。
どちらにせよ、関わり合いになりたくない類の人間だ。
だが、ギルドの仲間たちの手前、あまりにへりくだるわけにもいかない。
ドムドムは咳払いをした。
「……なら、この依頼はどうだ」
ドムドムは掲示板へと歩み寄り、一枚の依頼票を剥がしてきた。
『薬草採取:報酬銀貨五枚』
一見すると、ただの初心者向けの依頼だ。
ハインが不満そうに眉をひそめた時、ドムドムが説明を始めた。
「見た目は地味だが、この依頼は評価値が高い。なぜか分かるか?」
フェリが依頼書を手に取り、じっくりと読む。
「採取場所は……帝都近郊の森。指定薬草は月光草。採取期限は明日の朝まで」
フェリの目が鋭くなった。
「月光草は夜にしか採取できない希少薬草。しかも、最近この森には野犬の群れが出没しているという話を聞きました」
ドムドムが頷いた。
「その通りだ。だから報酬も通常の薬草採取より高い。そして何より、これを一晩でこなせれば、ギルドでの評価も上がる」
フェリはハインを見た。
「アスト様、悪くない提案かと」
ハインは鼻を鳴らした。
「野犬など、指先一つで──」
フェリが再び袖を引く。
「アスト様」
その声には、「目立つな」という警告が込められていた。
ハインは舌打ちをしながらも、依頼書を受け取った。
「まあいい。これを受ける」
ドムドムは内心でほっとした。
とりあえず、大きなトラブルは避けられそうだ。
「じゃあ、頑張れよ、新人」
そう言って、ドムドムは足早にその場を離れていった。
──貴族の道楽に付き合ってられるか
ドムドムは心の中でぼやきながら、仲間たちの元へ戻っていく。
だが、歩きながらふと思った。
あの二人、本当にただの貴族の道楽なのだろうか?
特にあの銀髪の女。
あの目は、何人も殺してきた者の目だった。
ドムドムは首を振った。
──考えすぎだ。関わらないのが一番だ
◆
フェリは受付嬢の前に戻り、依頼書を差し出した。
「この依頼を受注します」
受付嬢は震える手でそれを受け取った。
「月光草の採取ですね。場所は把握されていますか?」
「地図を」
フェリの短い要求に、受付嬢は慌てて地図を取り出し、採取場所に印をつけた。
「こちらになります。夜の森は危険ですので、お気をつけて」
フェリは地図を受け取り、素早く目を通した後、懐にしまった。
「アスト様、参りましょう」
ハインは無言で頷き、踵を返した。
二人がギルドを出て行った後、ギルド内にどっと安堵の空気が流れた。
「なんだあいつら……」
「貴族だろ、間違いなく」
「それも、相当ヤバい奴らだ」
冒険者たちがひそひそと囁き合う。
受付嬢は額の汗を拭いながら、登録書類を見つめた。
名前の欄には、たった二つの名前だけ。
アストとフェンリィ。
明らかに偽名だろう。
だが、それを問い質すのは冒険者ギルドの不文律に反する。
過去を問わない。
それが冒険者ギルドの鉄則だ。
──早く帰ってくれないかな……
受付嬢の願いは、ギルドにいた全員の総意でもあった。
◆
ギルドを出た二人は、人気のない路地裏へと入った。
ハインがフードを跳ね上げ、苛立たしげに言った。
「錆鉄級だと? ふざけている」
「仕方ありません、アスト様。全員が同じところから始めるのが規則です」
フェリが宥めるように言う。
「それに、あの男の提案は悪くありません。月光草の採取は確かに評価値が高い依頼です」
「薬草採取など、公爵家の嫡男がやることか」
ハインの不満は尽きない。
「ですが、手っ取り早く等級を上げるには実績を積むしかありません。一晩で複数の依頼をこなせば、明日には銅級への昇格も可能でしょう」
フェリは掲示板から剥がしてきた別の依頼書を取り出した。
いつの間に取ってきたのか、五枚ほどの依頼書が手の中にある。
「月光草採取のついでに、野犬討伐、ゴブリン退治、行方不明者の捜索……すべて同じ森での依頼です。一度に片付けてしまいましょう」
ハインは感心したように鼻を鳴らした。
「ほう、やるではないか、フェリ」
「恐れ入ります」
フェリは恭しく頭を下げた。