命が溶ける
「私、もうすぐ死ぬわ」
そのしわがれた小さな呟きは、しかしやけにはっきりと僕の耳に届いた。祖母が眠るベッドの横で紅茶を淹れていた僕は、そんな祖母の言葉に顔を顰める。
「そんな縁起でもないこと言わないでよ、おばあちゃん」
ベッドに横たわるおばあちゃんを見やる。長い入院生活の影響か全身の肉が削げ落ち骨と皮だけになってしまったような、細く小さい、皺だらけの体。点滴の刺さった手首は僕が少し力をこめればすぐに折れてしまいそうなほどに細く、顔は頭蓋骨の形が分かるほどで、目は窪み、しかしその瞳だけは輝きを失わず力強く煌めいていた。
その瞳を見ていると、とてももうすぐ死んでしまうとは思えない。けれど、祖母はもう一度、言った。まるで、それが世界の真実であるかのように。
「もうすぐ、死ぬのよ」
「そんなこと言わないでってば」
先ほどよりも非難の色を強めた僕の声に、祖母はその瞳を細めて緩やかにこちらを見た。
その唇が開き、ゆっくりと僕の名を呼ぶ。
「純。頼みがあるの」
「頼み?」
一つ頷いて、祖母は緩慢な動作でベッドから体を起こした。慌てて背中を支えようと手を伸ばして、その体の薄さにひやりとする。
「会いたい人がいるのよ。私の大切な友達なの。その子は一人ではここまで来れないから、貴方に連れてきて欲しいのよ。いいかしら?」
「もちろんいいよ」
他ならぬ祖母からの頼みだ、断る訳が無い。僕は強く頷いた。
「その人はどこにいるの?」
「私の家にいるわ」
「おばあちゃんの家? それってあの一軒家?」
「そうよ」
祖母の家を思い浮かべる。小さな、けれど手入れの行き届いた立派な庭がある赤い屋根の一軒家。祖父は早くに亡くなってしまったため、祖母はずっとそこで一人で暮らしていた。幼い頃から何度も通ったそこで僕は祖母以外の人と会ったことはない。他に住人がいたら気がつくはずだ。
疑問が顔に出ていたのだろうか、祖母は「行ったら分かるわ」と言って柔らかく笑った。そう言われると頷くしかない。
「分かった、行ってみる」
「ええ、お願いね」
僕はもう一度頷いて早速祖母の頼みを叶えるために病室を後にした。
祖母の家に足を運んだのは半年前、祖母が倒れた時以来だった。ここまで乗ってきた自転車を停めようと庭に足を踏み入れて、あまりの変わりように愕然とする。手入れの行き届いていた庭は伸び放題の雑草で覆われ、綺麗に咲いていた花はすっかり枯れてしまっていた。とてもじゃないけれど、今この家に誰かが住んでいるとは思えない。
ピンポーン、と一応インターホンを押してみる。返事はない。祖母から預かっていた合鍵を鍵穴に差し込み鍵を開けると、僕はそっと家の中に足を踏み入れた。
「失礼しまーす」
家の中は真っ暗で、人がいる気配はしなかった。行ったら分かると祖母は言っていたけれど、実際に来てみても分からない。リビングや台所、トイレや洗面所まで覗いてみたけれど人影は見当たらなかった。
「誰かいませんかー?」
そう声をあげてみる。すると、コンコン、と何かを叩くような音が返ってきた。慌てて辺りを見回してみても人影はない。
「すみませーん」
もう一度声を上げると、ゴンゴンッと先ほどよりも大きな音が返ってきた。びくりと肩を震わせる。
ゴンゴンッ!
ゴンゴンゴンッ!
だんだんと大きくなるその音に恐怖で体を震わせながら、僕は音の出所を突き止めようと家の中を歩き回る。すると、どうやらその音は台所から聞こえることに気づいた。
恐る恐る台所の中を見回す。すると、壁際に置かれた冷蔵庫がゴンゴンゴンッ! という音と共に揺れた。
「ひっ」
怪奇現象に小さく悲鳴をあげて後ずさる。恐怖のあまりじわりと涙が滲んで、視界が歪んだ。その間も冷蔵庫の揺れは増すばかりだ。
ゴンゴンゴンッ!
ゴンゴンゴンッ!
ごくりと唾を飲み込む。ええい、ままよ。僕は冷蔵庫の扉に手をかけると、勢いよくそれを開けた。途端にひんやりとした空気が僕を包む。咄嗟に目を閉じて両手で顔をガードしたけれど、しばらくしても何者かが突然襲いかかってくる様子はなかった。そっと目を開く。
──透明な瞳と、目が合った。
「ぎゃあああああ!」
引き攣った悲鳴をあげ、僕は部屋の隅まで勢いよく後ずさった。壁に背中を強く打ちつけて止まる。いつでも逃げ出せるように廊下へと続く方向に足を向けながら、怖いもの見たさにゆっくりと冷蔵庫へ視線を戻した。
そこに会ったのは、氷でできた少女の彫刻のようだった。それほど広くはない冷蔵庫の中に無理やり収まるようにして三角座りをしている。その造形はどこを見ても美しく、僕は引き寄せられるようにして恐怖も忘れふらふらと冷蔵庫に近づいた。
冷蔵庫の中を確認する。明らかにこの中からノック音が聞こえてきたというのに、中にあるのはこの氷の彫刻だけ。
「まさか君が扉をノックしたの?」
なんてね、と自分で言っておきながらあまりの荒唐無稽さに笑い飛ばそうとして──けれど、できなかった。透明な瞳がぎょろりと動いて、僕の姿を捉えたからだ。
「そうよ」
瞳と同じくこれまた透明な唇が、ゆっくりと開かれる。
「貴方は、誰?」
よく通るその声は涼やかで、僕はその声に絡め取られるようにしてその場から身動きができなかった。まるで魔法をかけられたかのようだ。魔法なんて非現実なもの僕は信じていなかったけれど、目の前の少女は明らかにそういった世界の住人だと思われた。
「ぼ、僕はおばあちゃんの孫で、純っていいます。あ、おばあちゃんってのは、この家に住んでた人のことで」
「鏡子の孫?」
鏡子、というのは祖母の名前だ。
「そうです!」
がくがくと首がちぎれそうなほど勢いよく何度も頷くと、透明な彼女はひとまず警戒を解いたようで「私はミラよ」と名乗った。
「それで、鏡子の孫がどうしてここに?」
「お、おばあちゃんの友人って貴女のこと? おばあちゃんが貴女に会いたいって」
彼女──ミラはぱちくりと透明な瞳を瞬かせた後、「そう。それは私のことで間違いないわ」どどこか寂しげに微笑んだ。
「ならそこにあるクーラーボックスを取ってちょうだい、純」
ミラが指さした先に目をやると、そこには埃をかぶったクーラーボックスが置かれていた。一つ頷いてそれを取ってくる。
「取ってきたよ。それで、これをどう……」
そこから先の言葉は続けることができなかった。ミラが突然、よいしょっ、という軽いかけ声と共に右腕を折ったからだ。──いや、正確に言うと取れたと言ったほうが正しい。まるでマネキンの腕を取るかのように、肩から先の腕が体から外れてしまったのだ。
「な、何してるの?」
「クーラーボックスの中は狭いのよ。こうしたほうが手っ取り早くて良いわ」
はい、とこれまた驚くような気軽さで取れた腕を手渡してくるミラに、僕は自分の顔が引き攣っているのを自覚しながらも恐る恐るそれを受け取った。その腕はひんやりとしていて、僕の手のひらの熱で溶け出したのかじんわりと僕の手を濡らす。氷の彫刻のようだと感じていたミラはまさしくその通りだったようで、その腕の断面から血は一滴たりとも流れることはなく、蛍光灯の光を弾いてキラキラと輝いていた。
僕が思わずその煌めきに見惚れているうちに、ミラはさっさと残った左腕で両足も取ってしまった。それもはい、と手渡されるものだからたまらない。僕は急いでそれらをクーラーボックスの中に収納していった。氷でできているとはいえ、人間の腕や足の形をしたものがクーラーボックスの中に詰められている光景は見ていて変な気分になる。
「ねえ」
「なに?」
クーラーボックスの中を見つめていた僕は、声をかけられて振り向いた。床の上に転がる透明な胴とそこから切り離された頭が目に飛び込んでくる。その向こう、頭越しに見える床は歪んでいて、しかしはっきりと透けていた。
「ぎゃっ」
もう本日何度目か分からない悲鳴をあげる僕に、ミラは「うるさい」と顔を顰めた。
「生首を見たくらいでいちいち驚かないの、男の子でしょ」
「生首を見たら驚くに決まってるだろ……」
そんな僕の反論をミラは「そう」の一言で受け流すと、「そんなことはどうでも良いから早くクーラーボックスの中に入れてちょうだい、溶けちゃうわ」と僕を急かした。
「う、うん」
震える手でその頭を持ち上げる。
「違うでしょ、胴が先よ!」
「はいいいいいい」
泣きべそをかきながら頭を床に下ろし、隣に転がっていた胴を持ち上げる。それをクーラーボックスの中、敷き詰められた手足の上にそっと寝かせると、その上に頭を置いた。
ここまでくれば僕にもミラが何をしたいのか分かる。僕がこのクーラーボックスを祖母の病室まで運べば良いのだろう。
──その子は一人ではここまで来れないから、貴方に連れてきて欲しいのよ。
祖母が言っていたことを思い出し、一人納得する。あれはこういうことだったのだろう。
「閉めるね」
そう断ってクーラーボックスの蓋を閉める。カチリというロックがかかった音を確認して、僕はクーラーボックスを両腕に抱えて立ち上がった。
「重っ」
「失礼ね」
独り言だったはずのその呟きに間髪入れずに鋭い声が飛んでくるものだから、僕は驚いて思わずクーラーボックスを床に落としかけた。なんとか体勢を立て直して、クーラーボックスをしっかりと抱え直す。もし手を滑らせて床に落とそうものなら、その瞬間先ほどの何倍も鋭い声が飛んでくるだろう。
玄関から出て庭に回ると、ここに来るまでに乗ってきた僕の自転車が停めてある。僕はクーラーボックスを自転車の荷台に置くと、ずっと前かごに入れっぱなしにしていたロープを巻きつけてそれを固定した。自転車を買って以来ずっと放ったらかしにしていたロープがこんなところで役に立つなんて、分からないものだ。
クーラーボックスがしっかりと荷台に固定されて動かなくなったことを確認すると、僕はサドルにまたがりゆっくりとペダルを漕ぎ出した。
自転車の荷台にこれほど重いものを乗せたのは初めてで、上手くバランスがとれない。ぐらぐらと左右に揺れる自転車はなんとか倒れずに進んでいるといった有様で、僕は五十メートルほど進んだあたりで自転車を漕ぐのを諦めてサドルから降りた。もう押していったほうが早いだろう。
ハンドルを持つ両手に力を入れ、バランスを崩さないように気をつけながら自転車を押して病院へと続く道を進んでいく。三つ目の交差点を渡ったあたりで、僕はいつの間にかクーラーボックスの中から聞こえてきたコツコツという何かがぶつかり合う音がぱちゃぱちゃという液体が跳ねる音に変わったことに気がついた。
……もしかして、溶けた?
慌てて自転車を道の端に停める。クーラーボックスの重みで三回ほど倒れそうになったのをその度に支え直し、なんとかうまく駐輪できたのを確認して、僕はロープを外して恐る恐るクーラーボックスの蓋を持ち上げた。
「うわっ」
透明な瞳と目が合って、咄嗟にクーラーボックスの蓋を持つ手を離してしまう。鈍く大きな音をたてて勢いよく蓋が閉まった。
「ちょっと、いきなり何よ。びっくりするでしょ!」
蓋の向こう側からそんな声が聞こえて、僕は思わずクーラーボックスに向かって叫び返した。
「それはこっちのセリフだよ!」
「いい加減慣れなさいよ。男の子でしょ」
「何度も言わせてもらうけど、生首を見たら驚くに決まってるだろ」
本当に、何度見たって慣れない。
深く息を吐いて覚悟を決めた後、僕は最新の注意を払いながらもう一度クーラーボックスの蓋を開けた。
「何よ、直射日光に当たるのは嫌だから開けないで欲しいんだけど」
そう言って睨んでくるミラの頭は、三分の一ほどが水に浸かっていた。よく見るとクーラーボックスのそこに敷き詰められた手足の造形が少し崩れてしまっている。
「と、溶けるの?」
「そりゃ溶けるに決まってるでしょう、氷なんだから。分かったら早く閉めてちょうだい」
「う、うん」
ミラの迫力に気圧されて、僕は言われるがままに蓋を閉めた。カチリというロックがかかる音でハッと我に返って、閉じられたクーラーボックスの蓋を見つめる。
衝撃の初対面に思考力を奪われ流されるがままにここまで来てしまったけれど、よくよく考えてみればミラは一体何者なんだろう。命を持った氷の彫刻。冷蔵庫の中で三角座りをしていた少女。祖母の不思議な友人。
「ねえ、君って一体何者なの?」
その問いに、答えは間髪入れずに返ってきた。
「雪女に決まってるでしょう」
「うっそだあ!」
思わずそう叫んでしまった。だって、僕の想像の中の雪女像とはあまりにも違いすぎる。
「嘘じゃないわよ、失礼ね。それ以外の何に見えるの?」
そう言われると言葉に詰まる。確かにミラは僕の想像の中の雪女像とはかけ離れているけれど、じゃあ何なんだと問われると他に何も思いつかない。押し黙った僕に追い討ちをかけるようにしてクーラーボックスの中から飛んできた「分かったならさっさと進みなさい」という声に、僕は無理矢理自分を納得させるとクーラーボックスにロープを巻き直し、自転車のスタンドを上げて再び病院へと続く道を進み始めた。
その道中、たまに荷台のクーラーボックスを振り返っては話しかける。命を持った氷の彫刻。冷蔵庫の中で三角座りをしていた少女。祖母の不思議な友人。そしてどうやら雪女であるらしい。そんなミラに対する僕の興味関心が尽きることはなかった。ミラも祖母以外の人間と話すのは久々だと言って、律儀に僕の質問に答えてくれる。
「ねえ、おばあちゃんとはどこで出会ったの?」
「私たち雪女の一族が生きていた遠い雪国で、鏡子が生まれたのよ。私は雪女だから冬にしか会えないし鏡子と一緒に学校に通ったりはできなかったけれど、会える日は毎日一緒に遊んでた。親友だったのよ。そして、鏡子が成長して東京に出ることになった時、無理を言って着いていったのよ」
「どうして着いていったの? 東京は雪女のミラには生きづらい場所でしょう」
そんな僕の純粋な疑問にすぐに答えは返って来ず、しばらく沈黙が流れる。もしかして聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと僕が青ざめるのと、かたりと小さくクーラーボックスが揺れるのはほぼ同時だった。
そして、これは雪女の秘密だから内緒にしてちょうだいね、と前置きして、ミラは話し始めた。
「雪女はね、体が全て溶けきったら死んでしまうけれど、凍っている間は永遠に生きていられるのよ。だから私たち雪女はこの長く短い生涯の間に、傍で溶けきりたいと望む相手を見つけるの。私のことを親友だと言ってくれたのは鏡子が初めてだったから、溶けきるなら鏡子の傍が良いと思ったのよ」
内緒よ、ともう一度念押ししてくるミラに、僕は「うん」と返すのが精一杯だった。思い出すのは、病室のベッドに横たわる祖母の姿。細く小さい、皺だらけの体。僕を見つめて呟かれたのは、世界の真実。
──私、もうすぐ死ぬわ。
そう呟いて、そしてミラを連れてきて欲しいと僕に頼んだ祖母。祖母の傍で溶けきって生涯を終えたいと望むミラ。そこから導き出される答えを考えたくなくて、僕はぶんぶんと頭を振ってその思考を振り払った。
祖母の家を出発してから三十分ほどかかって、僕らはようやく祖母の入院する病院に到着した。クーラーボックスを抱えよたよたと待合室に足を踏み入れた僕に、周りの人々は胡乱げな視線を向ける。僕がその視線から逃れるように足早に待合室を通り過ぎると、その度に腕の中からぱちゃぱちゃと水が跳ねる音がした。もうだいぶ溶けてしまっているのかもしれない。そう思うと余計に心が急く。
エレベーターに乗り込み、祖母の病室がある四階のボタンを押す。やがて四階に着くと、僕は開いた扉から顔だけを出して周囲に視線を巡らせ誰もいないことを確認してからエレベーターを出た。もし誰かに見つかって腕の中のクーラーボックスのことを聞かれた時、上手く誤魔化せる自信がなかったのだ。
運良く誰にも会わずに病室に着き中に入ると、祖母はベッドの上で体を起こしぼんやりと窓の外を見つめていた。
「おばあちゃん、連れてきたよ」
そう声をかけると、祖母はいつもの緩慢な動きが嘘のようにぐるっと勢いよく首を動かしてこちらを見た。そして僕の腕の中のクーラーボックスを視界に入れると、目元の皺を深くしてそれはそれは嬉しそうに笑う。
「いらっしゃい、ミラ」
「来たわよ、鏡子。ほらさっさと開けなさい」
がたがたがた、と僕を急かすようにクーラーボックスが勢いよく揺れる。
「はいはい」
僕はクーラーボックスをベッドの横に備えつけられた椅子の上に置くと、その蓋を開けた。
ミラの体は、思っていたよりは溶けていなかった。大きい氷の塊は溶けづらいのかもしれない。クーラーボックスの中で水に浸かってごろんと転がる頭なんて僕は何度見ても慣れないのに、祖母はそれを見て「あらあら」と笑っただけだった。友人だというからもう見慣れているのかもしれない。
僕が祖母の反応に驚いている間に、祖母はそっとベッドから身を乗り出して、クーラーボックスの中から頭を抱え上げた。それをシーツが濡れるのと気にすることなく膝の上に置く。そして、クーラーボックスの中から胴と手足も取り出し、慣れた手つきでそれらをくっつけていった。切断面を合わせるとそこにじわりと水が滲んで、先ほどまで別々の塊だったのが嘘だったかのようにぴたりとくっつく。やがて首から下の体が出来上がると、祖母は仕上げとばかりにそっと頭をその上に置いた。
その瞬間、ただの氷の塊だったそれに命が吹き込まれた。
溶けて少し形が変わってしまった腕が氷の塊だとは思えないほど繊細に動き、その指がそっと祖母の頬を撫でる。目元に刻まれた皺を一つ一つなぞりながら見つめるその透明な瞳は、友人の老いを悲しんでいるようにも、慈しんでいるようにも見えた。
「久しぶりね、鏡子。ずっと帰ってこないからもう死んじゃったかと思ったわ」
「久しぶり、ミラ。貴女を置いて死んだりしないわ、約束したじゃない」
「……死ぬのね?」
「ええ、死ぬのよ。もうすぐね」
相変わらず、祖母は落ち着いた様子でそう言った。まるで、それが世界の真実であるかのように。ミラもそれが当たり前とばかりに頷くものだから、僕はもう、そんなこと言わないでなんて言えなかった。だって、きっと、本当なのだ。本当に、祖母はもうすぐ死んでしまうのだ。
「死なないでよ、おばあちゃん」
ぽつりと漏れ出たその言葉に、祖母とミラの四つの瞳が一斉に僕に向けられる。
「死なないで……」
おばあちゃん、おばあちゃん。貴女が僕にミラを連れてくるように頼んだのは、死ぬときに傍で溶けきりたいとミラが望んだからなんでしょう。この不思議な友人との約束なんでしょう。そしてミラに会ってしまった貴女は、もうすぐ死んでしまうんでしょう?
連れてくるんじゃなかった。祖母の頼みだからって聞くんじゃなかった。そんなどろどろした思いが心を埋め尽くす。
「ここまで連れてきてくれてありがとう、純」
透明な瞳と、目が合う。クーラーボックスの中から出たミラにとって病室の室温は高いようで、ぼたりぼたりとミラの胴から、腕から、頭から、水が流れ落ちてはシーツに染みこんでいく。吸収しきらなかった水はベッドの下の床に落ち水溜りを作っていった。僕にはそれが、ミラが全身で涙を流しているようにも、祖母の命の終わりへのカウントダウンのようにも感じられた。
それを見ているとどろどろとした思いはどこかへ消え失せて、僕の瞳からも一粒、涙がこぼれ落ちた。
「純」
祖母がゆっくりと僕の名を呼ぶ。手招きされてベッドの端に腰かけると、その細く皺だらけの手が僕の頭を優しく撫でた。幼い頃、泣いている僕に祖母がよくしてくれた仕草だ。懐かしさが込み上げて鼻の奥がつんとする。
「人はいつか必ず死ぬものよ。貴方もいつか死んでしまう。それこそ、氷が溶けるようにあっという間にね」
ぼたりぼたり。祖母の命が溶けていく。床に水溜りが広がっていく。僕の靴にもじわりと水が染み込んで、足裏に感じる冷たさが悲しかった。
「おばあちゃんっ」
「泣かないの、男の子でしょ」
そのセリフには聞き覚えがあって、悲しいはずなのに僕は何故か笑ってしまった。目を細めると目尻に溜まった涙が押し出されて頬を伝う。僕がどうして笑い出したのか二人には分からないようで、不思議そうに顔を見合わせるものだから余計に面白い。
「大好きなおばあちゃんが死んじゃうんだから、泣くに決まってるでしょ」
僕がそう返すと、祖母は柔らかく笑った。そして、その笑顔のままゆっくりと体が傾き力なくベッドに倒れ込んでいく。眠るようだった。
ゆっくりと閉じられる瞼を、隠されていく瞳を、僕は瞬きもせずに見つめていた。その命のように力強く煌めく祖母の瞳。その瞳で見つめられるのが好きだった。祖母がその瞳を細めて笑うと僕まで嬉しくなった。その瞳が涙に揺れるところは数回しか見たことがないけれど、それを見るたび僕まで泣きそうになった。
じっと、見つめる。その輝きを見るのはきっともう最後になるだろうから。
「……純。ミラ。ありがとう」
瞳は、閉じられた。半開きになった唇から浅く弱い呼吸音に呼吸音に混じって漏れ出たその言葉が、きっと祖母の最期の言葉となるだろう。
「ここにいるわ、鏡子」
そっとミラが語りかける。返事はない。それでも自身の存在を示すように、ミラは祖母の細く皺だらけの両手を握った。
すう、と聞こえていた呼吸音が、だんだんと弱くなっていく。ぼたりぼたりと、水溜りが広がっていく。
ミラはずっと祖母の傍にいた。足が溶け、胴が溶け、腕が溶け、顔が溶けても、ずっと傍にいた。祖母の両手を握りしめるその手だけは、最期まで溶けずに残っていた。やがて祖母の呼吸音が完全に聞こえなくなり、ミラが握っていた手が力を失いだらりと垂れ下がると、ミラの手も溶けきって消えていった。
僕は、その様子をただ傍で見つめていた。
それからどれくらい経っただろう。窓から差し込んだ夕日が床に広がる水溜りに反射してキラキラと輝く。僕はそれをじっと眺めていたけれど、水溜まりが乾いていきその輝きが失われていくのを見守った後、震える手でナースコールを押した。
すぐにやってきた看護師さんに祖母が息を引き取ったことを伝えると、ばたばたと慌ただしく病室から出ていき、主治医の先生を連れて戻ってきた。先生は湿ったシーツに怪訝そうな顔をしていたものの、慣れた手つきで瞳孔の反応を見て、心音や呼吸音を確認し、脈を測り、そしてお悔やみ申し上げますと僕に死亡宣告をした。
「ありがとうございました」
僕はそっと頭を下げた。
やがて祖母の遺体が運び出され、空っぽになった病室で、僕は一人クーラーボックスを抱えて椅子に座っていた。これまた空っぽになったクーラーボックスは軽く、まるで僕の心も空っぽになったような気分になる。
「純、行くわよ」
病室の扉から顔を出した母にそう声をかけられ、「今行く」と言って立ち上がる。すると、クーラーボックスの中からころころと何かが転がる音がした。蓋を開けて中を覗き込むと、そこにはビー玉のような透明の玉が一つ入っていた。拾い上げてみると、それは小さな氷の塊のようだった。病室の照明の光を弾いてキラキラと輝くそれはミラの体とよく似ていて、けれども僕の手のひらの熱で溶け出す様子はない。
「ミラ?」
そっと、玉に向かって呼びかけてみる。もちろん返事はない。けれど僕には、この玉こそがミラの魂なのだという妙な確信があった。
僕はその玉をそっと握りしめて、病室を後にした。
祖母の葬儀は、近所にある葬儀所で身内だけを集めてひっそりと執り行われた。入院していたとはいえ最近は容体が安定していたから、突然の死に参列者は皆一様に涙を流していた。
僕はといえば、涙は一滴も湧き出てこなかった。親戚の人は僕を冷たい子供だなんて言うけれど、僕の涙はきっと、ミラが全て溶けきった時に一緒に溶けて消えてしまったのだと思う。あの日以上に悲しい日はもうやってこないだろう。
周りの人が誰も僕に注目していないことを確認して、僕はそっと祖母の眠る棺に近づいた。白い花に囲まれた祖母はどこか作り物めいていて、その体の中にもう魂はないんだなとぼんやり思う。そりゃそうか、溶けきってしまったのだから。あの日、ゆっくりと乾いて消えていく輝きを、僕は傍で見守っていたのだから。
そっと、ポケットの中から小さな玉を取り出す。胸の上で合わせられた祖母の手を開き、玉を握り締めさせると、玉が光を弾いてキラキラと輝いた気がした。
儚い、命の輝きだ。